23.「あなたもまだまだですね」

 仕事に出かける直前、私が「米屋には『好きな人がいるから』って断るね」と言うと、千石は曖昧な笑みを浮かべた。考えてることが全く分からない。ほんとハッキリ言ってほしいんだけど?と文句でも言ってやろうかと思ったが、生憎朝はバタついていてそんな時間はない。


「とりあえず行ってくるね!」

「はい、いってらっしゃい。前見て、気をつけて」


 その言葉を背中に受け、まじでお母さんじゃん、と一人で含み笑いをした。




 いつも通りの時間に会社に着けば、後ろから「よっ!」と声がかかる。その声に緊張するのは、私が彼に後ろめたい感情しか持ち合わせていないからだろう。


「よ、ねや!おはよ!」

「っす!今日の夜、メシ行かね?」


 いつもなら二つ返事で了承するそのお誘いも、今日はかなり気が重い。「おっけー」と緩く返事をした私の異変に、鋭い米屋は気づいたかもしれないな、と思った。




 なんで今日、敢えてこんなお洒落な店を選ぶ?!と、米屋に当たり散らしそうになった。いつもはカジュアルな大衆居酒屋や簡素な飲食店が多いというのに。今日、米屋に連れられて来たのは夜景が綺麗なダイニングバーだった。カップルシートの半個室は夜景に向いてご飯を楽しむようになっており、ムードは満点だ。しかし良い風に捉えれば、半個室のここは込み入った話をするのに最適だった。


「奥座れよ」


 と言った米屋の言葉に従い、座席の奥に詰める。カップルシートなので当たり前だが、私の横に腰を下ろした米屋の近さに思わず体が強張った。つい一昨日までは「米屋のこと好きになれたらなぁ」だなんて思っていたのに。この手のひら返し具合は責められても致し方なしだと、さすがに承知している。


「め、っちゃお洒落じゃない?緊張するんだけど」

「いやー、ほら、今までとは違うじゃん?やっぱ雰囲気あるとこがいいかな、って」


 薄暗い店内で良かった。米屋の表情がはっきりと見える場所では、きっとなにも言えないまま帰宅していたところだ。そして千石にほとほと呆れられるところまで、きっちりセットで予想できた。


「酒……は、やめとく?」

「んー、んー、一杯だけ!」


 と、これはお酒の力を借りようとしている愚かな私。米屋はドリンクメニューを私に差し出し、「シャンパン飲もうぜ」と明るい声を出した。


 細いグラスにシャンパンの気泡が弾ける。「おつかれ」とグラスを傾けた。


「なんかあっただろ」


 米屋は決して遠回しな言い方をしない男だと思う。今日の米屋も通常運転。私の些細な異変をすぐに捉え、私が酔ってしまう前に、とかなりの序盤で核心に触れてきた。

 これに戸惑ったのは私だ。だってまだ乾杯をしたばかり。注文した料理は一品だってきていない。この状況で「米屋とは付き合えないから」と言えるほど強心臓ではないのだ。


「えー?なんか?」

「オマエは分かりやすすぎる」


 そうかもしれないが、ここまで的確かつ瞬時に気付くのは米屋だけだよ、と思う。スタッフの人がカルパッチョを運んで来てくれたので、小さく「いただきます」と言い口に運んだ。おいしい!


「ちょ、ちょ、米屋これめっちゃ美味しい!」

「ぶはっ!オレさぁ、オマエのメシ食ってるとこ見るのめっちゃ好きなんだよなぁ」


 思いがけず米屋の気持ちを知って素直に照れた。米屋はいつもストレートに褒めてくれるし、ほんと、素敵な人だ。だけど米屋のことを素敵だな、いい奴だな、と実感する度に私の心が鉛を飲み込んだように重くなる。

 米屋のことは心の底から大好きで、大切な友人なのだ。そんな人を私はきっと失うのだろう。千石がいれば何もいらないと、そう思ったのに。だけど千石がいなくなったら?そうなれば、米屋以上の人が現れるのだろうか。

 そんな打算的なことを考えてしまう自分に嫌気がさす。こんなの米屋にも千石にも失礼だ。


 デザートを食べればお開き。結局そこまで言い出せずに引っ張ってしまった。ガトーショコラを「おいしい!」と咀嚼しながら、どう話を切り出そうか考えていると、米屋が「そろそろ話せる?」ときっかけを作ってくれた。


「う、うん。あのさ、私好きな人がいて、」

「うん」

「好きになっちゃダメって言ってたんだけど、」

「うん」

「……好きになってもよくて、」

「うん」

「米屋、ごめんね、」

「ん?」

「私、米屋とは、」

「うん」

「付き合えない」


 まどろっこしい言い方をして、必要以上に時間をかけた私の告白に、米屋はしっかりと頷いてくれた。付き合えない、と言い切った後の私に、「分かった」と答えた米屋の笑顔。どうしてそんな風に笑えるの。口には出していないのに、私の気持ちを汲み取った米屋はその疑問に答えをくれた。


「オレはオマエが幸せなら、それでいいんだよ」


 って、本当はオレと一緒に幸せになってほしかったんだけど、と。そうか、米屋は私が幸せなら自分の気持ちを押し殺すことができるのか。ねぇ、千石。これってまるで千石がカエデちゃんに抱いていた想いと同じだね。

 どこかの誰かが言っていた。愛は自己犠牲で、恋は自己満足だと。それが正しいのなら、米屋のこの気持ちこそが、千石のカエデちゃんへの想いこそが、愛ではなかろうか。

 それならば、私たちの間に横たわっているこの想いはいったいなんなのだろう。自己犠牲とは程遠い。逃げても見つけ出すと言った千石。僕以外の人と幸せにならないでと言った千石。だけど、米屋の高尚な想いより、千石の歪で剥き出しな想いの方が余程理解できるのだから。やはり私には愛だの恋だのの議論は無意味なのだ。





 帰宅した私を千石はいつものように迎え入れてくれた。


「米屋に言ってきた」


 と告げれば、「本当に言ったんですか?!土壇場で逃げ出すかと思いましたよ」と嫌味が返ってくる。それを聞いて、なにか一言言わなければ気が済まないのか、と思う。

 

「言わない方がよかった?」

「まさか。米屋さんはなんて言ってましたか?すぐに納得してくれた?」


 まただ。千石のはっきりしない曖昧な笑み。この男の真意はどこにあるのだろう。

 私は千石の問いかけに「私が幸せならそれでいいんだって」とありのままを伝えた。それを聞いた千石は嘲るような笑みを浮かべる。


「随分と心が広いですね。高尚でお手本のような返しだ」

「……世間ではそれが愛らしいよ」

「愛?」


 千石の整った顔が嫌悪感に歪んだ。


「それなら僕のこの気持ちは愛ではないね」

「いいよ。千石の気持ちが愛でも恋でも錯覚でも。同じ時を生きているなら、それでいい」


 それを聞いた千石は「あなたは本当に残酷ですね」と目を閉じた。私が千石を抱きしめると、彼は甘える仕草で頬を私の頭に擦り付ける。


「ねぇ、次の休みどこか行こうか」

「そうですね。瑠璃子さんの誕生日ですし?」

「えっ!知ってたの!?」


 咄嗟に勢いをつけて頭を後方に逸らしてしまった。「ってぇ!」と千石が呻き、さっきの衝撃は私の頭が千石の顔面のどこかに当たったものだと理解する。


「わぁ、ごめん!」

「考えたらこうなることぐらい分かるでしょ?」


 あ、頬っぺたに当たったのか。それはさぞかし痛かっただろう、と頬を押さえた千石を憐れんで見つめれば、彼の口から文句が届いた。

 「わざとじゃないんだよ、誕生日知ってたことにびっくりしたの」と打ちつけてしまった千石の頬に手を添えれば、「当たり前でしょ」と唇を尖らせた不満顔。そんな話をしたことなんてなかったから、当たり前ではないと思うけれど。だけど私のこと全然興味なさそうだった千石が、こっそりと気にかけてくれていたことに頬が勝手に緩んでいく。

 そんなだらしなく緩む私の表情を捉えた千石はまだ不満顔で、さらに「なんですか、その顔」とジト目で私を見つめてきた。

 

「えー?いやー、千石って、私が思うよりずっと私のこと好きなんだね」


 ニヤニヤと意地の悪い、半ば挑発さえ含んだ笑みを浮かべる。そんな私の表情に、千石はお得意のため息を吐いて「これが最上だと思っているなら、あなたもまだまだですね」とニヤリ、口角を上げた。

 うっ、その笑顔は反則だ。笑顔と呼ぶには些か邪悪すぎるが、私は千石のこの笑みがとても好きだった。いわば性癖とでもいうのだろうか。その笑みで、「あなたが思っているよりずっと、僕はあなたのことが好きなんですよ」なんて。私はきっと、いつか千石に殺されるな。

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