13.「だめ。逃げちゃいそうだから」

 米屋の家から出社し、いつも通りの就業時間を終えて帰宅した我が家。リビングに続く扉を開ける手が、緊張で僅かに震えた。


「ただいまー!」


 と、いつもより元気な声を出して扉を開ければ、「うるさ」とでも言いたげな千石と目が合った。そんなうんざりとした表情を浮かべた千石を見て安心するだなんて。私もいよいよおかしくなってしまったかな。

 

「ただいま!寂しくなかった?」


 返事のない千石にもう一度同じ挨拶をすれば、

「おかえりなさい」と渋々といった様子で返事をしてくれた。寂しくなかった?という質問は華麗にスルーされたけれど。ここでもう一度「寂しくなかった?」と聞けるほど、私のメンタルは強くはないのだ。


「そうだ。晩ご飯作ってないんですよ、まだ」

「そうなの?全然いいよ。なににするー?」

「今日も帰って来ないのかと思ってました」


 私が冷蔵庫を開けながら、何が作れるかな、と考えていると、千石が独り言のようにぽつりとこぼした。思わず聞き返してしまいそうになるほどの声量で発せられたその言葉に、どきりとした。

 事実、米屋は「今日も泊まってくか?」と気を利かせてくれたのだ。その親切心に私の心がぐらりと一瞬揺らいだが、いつまでも逃げてるわけにもいかない。「今日は帰るよ」と丁重に断り、ここに帰ってきたのだ。


「えー?なんで?ここ私の家じゃん」


 千石の言葉を重く受け止めてはいないよ、という風に必要以上に明るめの声を出した。少し上擦ってしまったこと、どうか千石には気づかれませんように。


「……そういうことじゃなくて」


 気づいてほしくないという私の願いに気づいておきながら、千石はそれを汲み取ってはくれない。無意味に冷蔵庫を覗き込んでいた私の腕を掴んで、千石は私を振り向かせた。

 いつの間にか思っていたより近づいていた距離に、息が止まってしまうかと思った。いや、実際少し止まっていたと思う。千石の紫色の瞳が私の真意を探るようにじっとりとした視線を送る。


「なに……?とりあえず、腕離してよ」

「だめ。瑠璃子さん、逃げちゃいそうだから」

「逃げないよ。この狭い部屋のどこに逃げるとこがあるの?」


 あはは、と乾いた笑みが部屋に響く。だけど千石は笑わない。ただ、紫色の瞳を細めるだけだ。ピピーピピー、と先ほどから冷蔵庫が「早く扉を閉めてください」と訴えている。冷蔵庫から流れ出る冷気が私の背筋を撫で続ける。


「昨日は米屋さんのところに逃げましたよね?」


 痛いところを突いてくるな、と思った。だけど、そもそもそれは誰のせいだ?という話だ。


「逃げたわけじゃ……ただ、千石も私と一緒に居たくないかな、って」

「僕がいつそんなことを言った?僕と一緒に居たくなかったのは、瑠璃子さんでしょ?」


 にこりと千石の口角が持ち上がる。恐ろしいほど美しい。だけど無機質な千石の笑顔からは、なんの感情も伝わってはこない。なんでなんで、私がこんなふうに責められてんの。


「そもそも、酷いこと言ったのは千石じゃん!好きにならないとか、可愛げがないとか、鈍感だとか!」

「……全部ほんとうのことですし?」

「本当のことなら何言ってもいいってわけじゃないじゃん!」


 とりあえずその腕を離してよ、と勢いよく千石の腕を払う。開きっぱなしの冷蔵庫の扉も電気代がもったいないし、冷気が逃げてるので、怒りに任せて勢いよく閉めた。

 しかし千石はそんな私の態度にも動じず、閉めたばかりの冷蔵庫の扉に私の背中を押しつけたのだ。……さっきより状況悪くなってんじゃん、と俯いた私の顎に、千石の長い指が優しくかかる。


「……それは悪かったよ。傷つけてごめん」

「千石が察してちゃん嫌いって言ったのに。千石の方が余程察してちゃんだと思うけど!?」


 千石の指が柔く私の顎を持ち上げる。強制的に上を向かされ逃げ場がない私は、強い口調で千石を責めながらも、視線を斜め下へと逸らした。こんな間近で千石を見つめられるほど、強心臓ではないのだ。


「僕が察してちゃん?面白いこと言いますね。では僕は、どんな気持ちを瑠璃子さんに察してほしかったんでしょう?」

「し、知らないよ!」

「教えてよ」

「……米屋にヤキモチ妬いてんでしょ、」


 これは恥ずかしい。言わされた感は否めないけれど、自分で自信満々に言うことではない。私の顔に熱が集まり出した頃、千石は「考えたこともなかったな」と驚いた声を出した。


「それって、僕が瑠璃子さんのことを好きってことですか?」

「知らないよー。もうほんと離して!」

「じゃあ、瑠璃子さんは?瑠璃子さんも"てらもとかえで"にヤキモチ妬いてましたよね?」


 先ほどの私と同じことを言っているのに、千石は恥ずかしくないのだろうか。未だに私の顎にかかっていた指を首筋に下ろした千石は、自信満々で勝気な笑みを浮かべた。


「妬いてない!」

「ほんとに?」

「妬くわけないじゃん!私、千石のこと好きじゃないもん」

「ふふ。ね、じゃあ、僕も米屋さんにヤキモチ妬くわけないじゃないですか」


 瑠璃子さんのこと、好きじゃないもん。私の言葉をなぞった千石は、にっこりと笑みを深くした。……完全に言い負かされた気分だ。

 

「もう、千石きらいっ!」

「あはは。同族嫌悪だね。僕たちは似てる」

「はぁー?どっこが?!私、千石みたいに性格悪くないよ」

「察してちゃんで、自分の気持ちにも相手の気持ちにも鈍感。で、お互いのことを絶対好きにはならない」


 ね?と首を傾げた千石は、添えていた指先を私の首筋から離し、「さ、今日の晩ご飯何にしましょうか?」と伸びをした。


 言葉を返すが、私は鈍感ではない。だって、千石が離れて、熱が引いてしまった今を寂しいと思っている。その意味を理解できていないわけではないのだから。




 仕事が終わり帰宅したマンションのエントランスで「お姉さん!」と声をかけられた。お姉さん、だなんてナンパやキャッチでしか使われない言葉だと思っていたが、その声の持ち主を見て納得する。


「あ、楓ちゃん……」

「お仕事帰りですか?お疲れ様です」


 今日も今日とて可愛らしい。彼女からすれば、私は間違いなく「お姉さん」なのだ。


「ありがと!そうだよー、もうクタクタ。楓ちゃんは?」

「わたしも今帰ってきたとこです!」


 疲れ切っている私と違い、一日の終わりに差し掛かっても楓ちゃんの笑顔は眩しい。お疲れ様、とねぎらいの言葉をかけた私に、「ありがとうございます」と丁寧にお礼を述べた彼女は、「そういえば」とより一層キラキラとした笑顔を見せた。


「昨日、慧くんと会えました!」

「そうなんだ!良かったね」


 いつの間に"慧くん"だなんて呼ぶ仲になったのか。私の心にたちまち広がった黒いモヤを抑え込むように、笑顔を貼り付ける。それも、ぎこちなさを感じさせないようにとびっきりの笑顔だ。


「はい!今度お礼に、ご飯をご馳走することになりました」

「……へぇ!さとる、喜んだでしょ?」

「はい!楽しみだって、言ってくれました」


 また自ら傷口を抉るような質問をしてしまった。楽しみだって言いながら笑う千石が、鮮明に頭に浮かぶ。消えろ消えろ。そう願って緩く目を瞑った。だけど消えない。私にはしつこいほどため息を吐くばかりなのに。


「あ、お礼って、さとる何したの?聞いたけど、教えてくれなくて」


 私の言葉に、楓ちゃんは幸せそうに目尻を下げた。そして「それはたぶん、慧くんが優しいからです」と、こちらが目眩さえ覚えしまいそうなほど愛おしげに頬を緩めたのだ。その表情が、千石への気持ちを表している。かわいい。素直にそう思ってしまうほど、温かい笑顔だった。


 そんな笑顔を見せて、私の心を知らず知らずのうちに打ち砕いた楓ちゃんは、千石との出会いを語ってくれた。

 聞けばなんてことはない。楓ちゃんがしつこいナンパ男に迫られて、キスされそうになったところを千石が助けてくれた、ということだった。千石が私に言わなかったのは、男に襲われそうになった、ということを勝手に告げる行為が憚られたからだろう。ほんと、優しい千石。そしておあつらえ向きな出会い方。こんなん惚れるなって方が無理だよね。


「そうなんだ。あ、じゃあ私ここで降りるね」


 エレベーターが着いたので、それだけを簡単に告げて楓ちゃんに手を振る。私に小さく手を振る楓ちゃんの横に、千石の幻覚が見えた。……うん、お似合いだよね。

 だけど千石の最大の秘密を彼女は知らない。そんなことに優越感を覚えた自分自身に気づき、嫌気がさす。だけど私はそこに縋り付いて、なんとか自分の気持ちと折り合いをつけることしかできないのだ。

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