7.「早く入っておいで」

  誰しもこの世には苦手なものが一つや二つあるだろう。かく言う私もお化けとパクチーが苦手だ。そしてそれよりも虫が大の苦手だ。G対策は外用と室内用でぬかりなく行っているし、害虫駆除の道具も一式取り揃えている。部屋が多少散らかってようが、キッチン周りはいつも完璧に掃除していた。そのおかげかここ数年は蜘蛛を数回見かけた程度になっていた。だから完全に油断していたのだ。



 お風呂に入って、まず最初に髪を濡らす。その日の汚れ全てを洗い流すように、2分ほどじっくりとだ。そしてサロン専売のシャンプーを3プッシュ手に取り、地肌をたっぷりの泡で優しく洗う。すすぎ残しが毛穴詰まりの原因になるので、洗い終えたかな?と思ってから余分に20秒シャワーを当てる。ルーティン化したそれを終え、次のトリートメントへと移ろうとしたら、目の端で蠢く黒色の物体を捉えた。

 は?え?さっきの黒いのなに?まさかね、まさかまさか。本当は姿を見たくもないのだ。だけどそういうわけにもいかない。蒸気が充満して視界不良な風呂場で、じっと目を凝らした。足元から一歩ほど離れたその場所で、苦しそうにもがいていたのはまごうことなき、虫!昆虫!


「きゃーーーー!!たすけてーーー!!!」




「どうしたんですか?!」

「千石!!虫、蜂!ハチ!」

「は?蜂?」


 千石は少しの躊躇いもなく風呂場の扉を開けた。瀕死の蜂は私と風呂場の扉の間にいる。私はそのせいでここから出たくても出られないのだ。


「やばい!そっち行けない、助けて」

「とりあえずシャワー止めてくださいよ」

「無理!シャワー止めたらぶぶぶって動き出すんだもん」


 刺されたら死ぬ!と思ってそうなほど必死な私に、蜂を凝視した千石が「スズメバチじゃないから」と言いながら風呂場に足を踏み入れた。


「千石!濡れてる!服濡れてる!」

「そう思うなら早くシャワー止めてくださいよ」

「やだやだ、それは無理」

「ほんと、しょうがない人ですね」


 そう言いながら、シャワーのホースを私の手から取り上げて、あろうことか千石は私を担ぎ上げたのだ。


「え、ちょっと、千石?!」

「もうほんとうるさい。助けてなんて言うから何があったのかと思いましたよ」


 私を担ぎ上げたままシャワーを止め、さんざか私を恐怖に陥れた蜂の横をなんなくすり抜けた千石は、足マットの上にビショビショな私を下ろした。


「僕、始末してくるので」


 とだけ言い残し、ティッシュのみを持って風呂場へ再び入って行った千石を見送る。はぁ、まじで怖かった……ほんと油断してたぁ。

 安心した途端、急に体の力が抜ける。その場にへたり込んで、ふと気づく。……私、裸じゃん……!!


「ぎゃーーーー!」

「え、今度はなに!?ゴキブリでも出ました?」

「うるさい!千石うるさい!」


 膝を抱え込んで丸まった私の背中に、千石の「うるさいのは間違いなく瑠璃子さんですよ」と不機嫌な声が落ちる。


「だって、だって、裸!」

「あぁ、そんなこと?僕、女性の裸なんて飽きるほど見てきたので。気にしなくて大丈夫ですよ」


 あ、やっぱりこいつ、頭のネジ飛んでるわ。そういうことを言ってるんじゃないのに。千石は気にしなくても、私が気にするのだ。


「蜂の処理済みましたけど?お風呂このまま入りますか?」

「やだ、怖い……」

「えぇ?僕は濡れたので早く入りたいんですけど……あ!」


 閃いた声と共に、千石が私の前にしゃがんだことを気配で悟る。膝を強く抱え込んだまま顔だけを上げれば、「一緒に入りますか?それなら怖くないでしょ?」とにっこり笑顔の千石と目が合った。


「ばっかじゃないの?絶対やだ」

「はいはい。それじゃ僕、この扉の前で待っててあげるから。早く入っておいで」


 ほぼ10歳も下の男の子に子供扱いされてるのって、どうなの?と思わなくもないが、そんなプライドは虫の恐怖の前では些細なことだ。素直に「ありがと」と言えば、「できる限り早くしてくださいね」と嫌味が返ってきた。言われなくてもそうするつもりです!



 裸をばっちり見られたと思ったら、急に意識してしまう。いや、私だって青春真っ只中のウブな女の子じゃないんだよ?裸を見せた経験だってもう数えられないほどある……そりゃ、人数は多くないけど。別に多ければ多いほどいいってもんでもないでしょ?

 だけど付き合ってない男の人にーー千石は男の子って感じだけどーー裸を見られたのは初めてなのだ。しかも明るいところで。

 あーーー、もーーー!!こんな悩むことないじゃん。そもそも当事者の一人である千石は全く気にしてないのだ。見飽きるほど見てきたと言ってたじゃん……やっぱあいつモテてたんだな。薄々そんな感じはしてたけど。

 え、てことは永良くんもモテてんのかな?私の知らないところで何処の馬の骨かも分かんない女とイチャついてるとか?!嫌なんだけど!


「瑠璃子さん、出るとき教えてくださいね。僕、ここから出てくので」


 顔を洗い終えシャワーを止めた私に、千石はそう告げた。なんで?と思ったが、そりゃそうだ。千石のいる脱衣所にこのままの格好で出て行ったらさっきの二の舞。危ない危ない。


「もう出るー」

「了解です」


 パジャマを着て「お待たせ」と千石に言えば、千石は濡れたズボンを捲り上げた格好で料理の続きをしていた。


「ありがとね。ほんと助かった」

「僕がいて良かったですね」

「ほんとだよー。一人だったらどうなってたか……」

「ほんと、どうしてたんですか?」


 千石に聞かれたので考えてみたが、全く想像ができない。まじでどうしてたんだろ。えー?と考え込み出した私を鼻で笑い、「じゃあ、僕もお風呂入ってくるので」とそそくさと風呂場へ向かう千石を見て思う。長くなりそうだと逃げたな?

 まぁ、なんにせよ、本当に千石が居てくれて助かった。今月の家賃分の働きはしたよ、千石!……って、それは千石に甘すぎか。


 にしても、千石は本当に私のこと意識してないな。裸を見た女と話しても、少しも動揺してないし。あー、やっぱり悔しい!




 職場の昼休憩は仲の良い同僚との癒しの時間だ。いつもは仕事の愚痴とか、今ハマってるドラマや漫画の話、あとはサエちゃんの彼氏との惚気を聞いたりするんだけど。今日は、今日だけは!私に話させてほしい!昨日の夜から、これは絶対聞きたいと思って準備していたことがあるのだ。


「え?ルール?」

「そう!サエちゃんとターくんの同棲のルールってある?」

「うーん、まぁ多少あるにはあるけど……なんで?」


 うっ……なんで……「いや、なんとなく?」と答えた私に怪しむ視線を送ったサエちゃんは、「まさか、彼氏できたの?」と意味ありげな笑顔を見せた。


「ないないないない!ほんとなんとなくだから!」

「えー?ほんとにぃ?……まぁ、いいけど」





「え?ルール?」

「そ、ルール!やっぱ作った方がいいかな、って」


 千石が作ってくれた牛丼を食べながらそう言えば、千石の表情が僅かに歪んだ。


 私の話をとりあえず納得してくれたサエちゃんは、「ガチガチに固めなくてもいいと思うけど、やっぱ譲れないことはルールにした方がいいんじゃん?」とアドバイスをくれた。

 それを基に「ルール作る?」と遠慮がちに聞けば、千石は案の定顔を歪めたのだ。


「いりますか?」

「……いらない?」

「特に思いつかないですからねぇ。まぁ、瑠璃子さんがいると言うなら考えましょう」


 千石がそう言ったように決定権は概ね私にある。だって、生活費も家賃も全部私負担だし。同棲というか居候。なんなら、私が一方的にルールを敷いて強制的に順守させてもいいのだ。


「うーん、」


 と本格的に悩み出した千石は、腕を組み俯き始めた。あ、つむじ。普段目にしない部位を見て、なんだかときめく。……変態ぽすぎるかな。だけど、千石はつむじまで美しい。頭部のてっぺんのど真ん中。きれいな渦に誘われる。私の指先がそれに触れようとした時だった。


「あ!」


 と妙案を閃いたと声を出した千石は勢い良く顔を上げた。咄嗟に手を引っ込めた私はテーブルに指先をぶつける。いったぁ……!


「え、大丈夫ですか?」

「う、うん……で?なにか思いついた?」

「はい!すごく大事なことです」


 千石はひと呼吸おいて、にっこりと微笑む。さぞいい案を思いついたのだろう。そう思うほどに自信に満ちた笑顔だった。


「女性を連れ込みません」

「…………?」

「え?だから、僕はこの部屋に女性を連れ込みません」


 ……はい?


「あったりまえでしょ!?」

「あはは、うそうそ」


 私の剣幕に驚いたのか、それとも本当に冗談のつもりだったのか。千石は飄々とした笑顔を浮かべて私を宥めにかかった。

 だけどこいつのことだから、本気でいい案だと思ってた可能性も捨てきれない。こわ。


「それはほんとにやめてね」

「さすがにそこら辺の常識はありますよ。あ、もし万が一にも瑠璃子さんが男性を連れ込みたいなら事前に言ってくださいね、その時は野宿でもするので」


 ほんとなんなの。綺麗な笑顔が憎らしい。万が一にもってなによ。普通に可能性としてはあり得るんだから。

 というか、こっちの世界でも女の子を取っ替え引っ替えする気か……?イケメン怖い。やっぱり千石は私の手に負える奴じゃない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る