第24話

 しばらく時間が経った後、視界に影が広がった。

 ふと顔を上げると、そこには杏音が立っていた。

 既に彼女がトイレに行ってから三十分以上経っている。


「随分長いトイレでしたね。うんこですか?」

「そうよ」

「くっさ」

「……」


 無言で睨みつけられ、俺は肩を竦めた。

 その反応に呆れたのか杏音は隣に腰を掛ける。


「嘘よ。ただ単に時間作ってただけ」

「わかってます。何でわかりやすい嘘ついたんですか?」

「悠たちに話をさせる時間作るのが目的だったなんて、あんまり言わない方がいいかと思って」

「大丈夫ですよ、元からわかってますから」

「はいはい」


 プライドが高いこの女が本当にうんこをしていた場合、平然とそんなことを口に出すわけがないのだ。

 しかし、お見通しですよと言わんばかりの俺の態度が気に食わないらしい。

 彼女は無言で俺の腹部を揉んでくる。


「なんすか」

「悠のおなかをぐちゃぐちゃにしてやろうと思って」

「仮にここで漏らしたら、帰りの電車であなたも白い目で見られますよ」

「何言ってるの? 置いて帰るに決まってるでしょ」


 相変わらずド畜生だな。

 もはや慣れてしまってため息すら出てこない。


「で、どうなった?」

「何がですか?」

「芽杏との関係よ」

「どうもこうもありませんけど」


 何も変わっていない。

 あ、一つだけわかったことがあったな。


「何か聞いたの?」

「杏音の胸がCカップだって聞きました」

「……」


 彼女は特に何を言う事もせず、空を見上げる。

 まだ日は昇っており、若干太陽光がまぶしい。


「芽杏と何話してたの?」

「話逸らさないでくださいよ」

「じゃあどんな反応すればいいの?」

「そりゃ、恥ずかしがるとか」

「……きゃー。悠に私のおっぱいがCカップだって知られちゃった! エッチな目で見られてるのかなぁ? 恥ずかしいよぉ……これでいいの?」

「きっも」

「死にたいの?」

「一つ言っておきますがあなたの胸のサイズを知ったところで、エロい目では見ません。やっぱり巨乳にしか興味ないので」

「よし、遺言は終わった?」


 凄まじい圧を感じる。

 彼女の瞳に映るのは劣情だろうか。

 それとどうでもいいが、この前の公園の時から時間を置き、やはり巨乳以外への興味関心は失せた。

 ニット姿の杏音に見惚れていたのは一瞬の気の迷いだったのだ。


「どうでもいいですけど、芽杏とはちょっと話しましたよ」

「で、どうなった?」

「どうもこうもありませんよ。小倉の愚痴を聞いて、それに対してちょっと小言を言っただけです」

「小言って?」

「小倉は良い奴だからもう一回考え直してみろって。それに、他の異性と会っているのはお前も一緒だと。まずは話し合えって言いました」


 先程の会話を思い返しながら伝えると、杏音は口を閉ざす。

 そして一分程度黙ったまま俺を凝視し。


「馬鹿なの?」

「はぁ?」


 口を開いたかと思えば罵倒だった。


「女の子の弱みに付け込まないでどうするの」

「最低なこと言ってる自覚ありますか?」

「私は別に小倉君がどうなろうと知った事じゃない」

「……」


 まぁ確かに綺麗ごとだな。

 万人が幸せな世界なんて作れない。

 そうなれば幸せにしたい人だけが報われる世界を築こうと動くのは当然か。

 いやいや、論点はそこじゃないだろ。


「わかりませんね。杏音は恋愛嫌いなんでしょ? 恋愛なんて諸悪の根源だと思ってるんでしょ? それなのに何故自分の妹に苦難を強いるんですか?」


 あの日、学校帰りに俺の家で彼女は恋愛について語っていた。

 確かに恋愛恐怖症を治したいとも語っていたが、そもそも論として恋愛を毛嫌いしている風ではあったのだ。

 矛盾している。

 言っている事とやっている事がズレている。


「私みたいになって欲しくないから」


 杏音は短くそう答えた。そして続ける。


「現状の孤独に耐えかねて恋愛恐怖症を治したいとは思ってる。だからと言って恋愛というものが素晴らしいとは思ってない。諸悪の根源だと思ってる」

「……」

「でも、前にも似たような話をしたと思うけど、恋愛観も主観に過ぎないもの。私はそう思ってるってだけで、芽杏は違う。彼女は昔から持ち前の愛嬌で周りから愛されて生きてきたし、私とは全く違う価値観を持ってる。だから芽杏には歪んでほしくないと思ってるの。何かおかしい?」


 主観か。

 顔面偏差値の話をしているときに言っていたな。

 要するに価値観を他人に押し付けたくないって事だろう。

 今回で言えば、杏音の『恋愛はゴミ』っていう価値観を芽杏に当てはめるのは間違ってる。だから芽杏には同じ道を踏まないようにガードレールを用意すると。

 そういうことだろう。


 まぁ突き詰めれば芽杏に同じ道を歩いてほしくないっていう気持ちもエゴなため、完全に杏音の主観なのだが。

 これは揚げ足取りみたいなものだから口にはしない。


「でもそれはそれでおかしくないですか?」


 杏音はまた矛盾した。

 それすなわち。


「杏音と同様に『恋愛はゴミ』っていう主観を持った俺を巻き込む理由が分からないです。芽杏に恋愛から逃げないで欲しいって思ってるだけなら、それこそ小倉と付き合い続ける道へ誘導するのでもいいじゃないですか」

「……」

「俺を巻き込む理由は、なんですか?」


 彼女の理論の弱点を突く言葉。

 それをぶつけられ、杏音は黙った。


「芽杏は俺と付き合う方が幸せになると思ってるからですか?」

「違う」

「……」

「ごめん。こればかりはただの私の押し付け」


 完全に理屈を捨てた杏音に絶句する俺。

 彼女は自嘲気に笑いながら言う。


「驚いた? 私だって感情で動く」

「いや、そういえば感情コントロールの下手な人間だったなって思い出しました」

「……なんか嫌な納得のされ方だけど、そうよ」


 感情のコントロールを上手くできる人間が拗らせるわけがない。

 あの日、初めてドブでこの人と遭遇した日。

 杏音はぐちゃぐちゃだった。

 自分の不満やため込んだストレスをぶちまけ、泣いていたんだ。


「本当の理由について深くは追及しません」

「……なんで?」

「聞きたくないから」


 短く答えると、杏音は笑う。

 そして立ち上がった。

 気付けば芽杏が戻ってきている所だった。


「帰ろうか」

「そうですね」


 いつの間にか空になったペットボトルを捨て、俺達は神社を出た。

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