白の死神、今際の際に。

「明日、死ぬよ。貴方のお父さん」


 夜、月輪の淡い光芒が静けさに満ちた町を銀色に染める頃。街の一角、高層マンションの上層に位置するひと部屋にて。

 凛、と透き通るような声色で、ともすれば無機質な程に呆気なく、その宣告は下された。


 僕は、疲れているのだろうか――。


 握りしめていた油彩画の筆を置き、青年は最後に取った睡眠が何時であったかを己に問う。回想の果て、辿り着いた答えは二十四時間以上も前のこと。それも一時間に満たない仮眠だった。目頭を抑え、彼は自分の肉体から疲労感を追い出さんと溜息を吐くも、その行為は積もり積もった疲労とフラストレーションを余計に際立たせるだけに終わる。

 きっと、幻聴に違いない。暫く寝ていないのにずっと張り詰めた緊張の中で作業をしていたのだから無理もないだろう。そんな言葉をぼんやりと胸の内にて己に語りかけながら、彼は今しがた確かに鼓膜を震わせた筈の少女の声を、しかし疲れ切った自身の脳が生み出した偽りの産物だと切り捨てようとしていた。独り暮らしの自分の部屋に、自分以外の何者かが存在しているという可能性を信じるよりは、そちらの方がよっぽど現実的だったからだ。


「あれ、聞こえてない? おかしいなー……。確かにこの人にだけは視えるように『設定』した筈なんだけどなー」


 けれども青年の聴覚は、思考とは裏腹に再び少女の声を捉えてしまう。それも先程よりも明瞭に、疑いようもなくはっきりと。

 幾ら疲れていて幻聴が聞こえたとして、二度連続することはそうそうありはしないだろう。つまりは認める他ないのだ。自分の部屋に招かれざる何者かが存在しているという事実を。それを確かめる為に、青年は疑念と警戒と、そして僅かな恐怖とが綯い交ぜにされた感情を瞳に宿して、声の主へと視線を向ける。

 青年の、何処にでも有るような双眸。それが捉えたのは――真っ白な、少女だった。

 純白のワンピースを靡かせながら、少女がひとり窓枠にしなだれるように座っていたのだ。背丈から察するに歳は中学生くらいだろうか。彼女の存在を認めると同時、柔らかなそよ風がふわりと少女の服の裾を揺らし、そのまま同じ風がふたりの存在を結びつけるかのように青年の頬を優しく撫ぜた。


「……なんなんだ、君は」


 瞳に驚愕を滲ませながら、青年がやっとの思いで口に出来た言葉はたったそのひと言のみであった。この少女は何者なのか。どうして此処にいるのか。締め切っていた筈の部屋にどうやって侵入したというのか。

 否、そんなことはどうだっていい。それら当然の疑問をどうでもいいと吐き捨てることが出来る程に、少女はたったひとつの異常さを携えていたからだ。彼女が握りしめた、あまりにも無骨で身の丈程もある大鎌の存在。それの異常さに比べれば、部屋に見知らぬ少女がいるなどという事象は些末なこと。

 まるで、御伽噺の中に迷い込んだかのようだ。青年は直面した異常事態に反し、奇妙なくらいに冷えた思考でそんなことを考えていた。


「なんだ、聞こえたんじゃない。ま、いいや。初めまして、人間さん」


 少女は――いや、目の前で薄く笑う少女を本当に少女と認識してもいいものかすら、青年には判断が付かない。彼女の纏う不思議な雰囲気に中てられたのだ。

 少女の浮かべる表情はある種の神秘さを孕んでいた。少なくとも青年にはそう思えて仕方がなかった。大人と子供、老いと若さ、そして少年と少女を同じ位相に幾重にも重ね合わせたような表情。それはさながら見る角度によって色を変えるプリズムの光彩のようで、青年は瞬きすら忘れて彼女のことをじっと見つめることしか出来なかった。


「改めて。明日、死ぬよ。貴方のお父さん」


 先程、青年自身が幻聴だと断じた言葉をそっくりそのまま繰り返して、少女は長い睫毛に彩られた瞳で彼のことを見つめ返す。


「どうして、そんなことが分かるんだ」


「だってわたし、死神だもん。言うまでもないと思うけど、生き死にの死に、神様の神で死神。ま、実際は神様なんかじゃなくて、むしろ神様の小間使いみたいなものだけど」


 自称、死神。アニメや漫画に影響を受けた中学生でも今日日言わないようなことを、しかし青年は信じざるを得なかった。普段であればそんな言葉は妄言でしかないと切り捨てることは容易だっただろう。けれども彼女の纏う雰囲気と、携えた大鎌の威圧感にも似た煌めきが、彼にそれを許さなかったのだ。


「だとしたら、その死神様とやらが僕に何の用なんだ。……殺しに来たっていうのか?」


 ごくり、と音が鳴る。それが己の唾を飲み込んだ際の音だということにも気が付かず、彼は少女の一挙手一投足を見逃すまいと眉間に皺を寄せていた。そんな青年の張り詰めた様子が余程的外れで滑稽に映ったのであろうか。くすくす、と喉の奥を鳴らして少女は対照的な笑みを零す。


「まさか。わたしは唯の導き手。彷徨える迷い子の魂を或るべき場所へと連れてゆくのが死神の仕事。大体、殺しが目的ならこんな大仰で扱いにくい得物、非効率の極みでしょ? この大鎌は言うなれば羊飼いの使う笛、或いは騎手の振るう馬鞭のようなもの。象徴に過ぎないよ」


「なら、どうして」


 言い掛けた瞬間であった。はぁ、と呆れを滲ませた少女の溜息が彼の言葉を遮った。


「だから、言ったでしょ。貴方のお父さん、明日死ぬって。これで三回目。それを貴方に伝えに来ただけ」


「伝えに来たって……何の為に?」


「秘密。それよりほら、こんなところでのんびりしていていいの? 死の安らぎは万人に等しく、そして絶対なもの。決して避けることは出来ないけど、それでも今から向かえば家族と最期の刻を過ごすことくらいは出来るんじゃない」


 酷く他人事な口調で――彼女からすれば実際に他人事でしかないのだが――少女は青年へと語りかける。眼前にて月を背負い佇む少女の正体を死神だと認めた以上、その言葉を疑う余地はなかった。

 彼女の言う通り、きっと自分の父親の生命は明日終わりを迎えてしまうのだろう。あまりにも唐突で、脈絡のない終わり。然れども、死とは押し並べてそういうものだ。人であろうと、人に非ずとも。形ある限り、いずれ結末は必ず訪れるのだから。

 そんな終焉を予め知らされるということは、果たして幸運なことか、もしくは残酷なことか。少なくとも青年にとってはそのどちらでもなかった。ないと、己に言い聞かせ、彼は努めて平坦な声で言葉を紡ぐ。


「どうでも、いいよ。あの人が、どうなったって」


 彼の採択は父の死を嘆くことでもなければ、その死を喜ぶことでもなかった。ひたすらに無関心を貫くこと。それが彼にとっての『父親』という存在の価値だったが故に。


「……ホントにいいの?」


 その言葉が意外に聞こえたのだろうか。少女はきょとんと見た目相応の表情を浮かべて問いを向ける。


「ああ、良いんだよ。あの人は忙しいんだ。僕なんかが急に行ったって迷惑なだけさ」


 目を細め、何かを振り払うように青年は小さくかぶりを振るう。そうして再び油彩画の筆を取り、視線を死神の少女から引き剥がして無理やり描きかけのキャンバスへと戻した。


「後悔しない?」


「さあ、ね。後悔なんて、後からするもんだろ」


 その返答を聞いた少女の眉尻が、ほんの一瞬下がったことを、青年は気が付かない。


「……そっか。じゃあ、お節介だったね。さよなら」


 その言葉と共に、青年の部屋を一陣の風が駆け抜ける。先程とは違い、部屋の外から中へと入るのではなく、反対に中から外へと出てゆく向きの風だった。青年は横目で先程まで少女の佇んでいた窓際を見やるも、そこには人影など一切有りはせず、最初から誰もいなかったかのように来訪者の痕跡は拭われていた。

 死神を名乗る少女の残り香があるとすれば、開けた覚えのない窓が全開にされていることと、興味がないと今しがた自分が吐き捨てたばかりである筈の、父の死を告げた少女の透明な声が、どうしてか脳裏にこびり付いて離れないことだけであった。





 翌日、少女の予言は真言となった。青年の父は昼頃、自宅で倒れているのを家政婦に発見されたという。救急車に搬送されたものの時既に遅く、彼はそのまま帰らぬ人と成り果ててしまった。

 死因は脳梗塞だった。この広い世界の何処にでも有るような、平凡で在り来たりの終幕。不摂生が祟ったのか、それとも父は純粋に不運であったのか。青年はそれすら知ることはなく、唯一の肉親であった父親を亡くしたのだ。母親は青年が幼い頃に事故で亡くなっている為、彼は天涯孤独の身となった。しかし青年はそれを哀しむことはなかった。

 生前から父とは殆ど交流がなかったからだ。中学生の頃までは同じ屋根の下で暮らしていた。とはいえその頃から世の家庭で交わされるような親子らしい会話はなく、青年の世話もその殆どを雇われた家政婦が担っていたが為に、青年の日常の中に父親との接点は存在しなかったと断言しても語弊はないだろう。絵という青年の夢、そのただ一点を除いては、の話になるが。


 青年の夢、それは絵描きとして大成することであった。父親の影響かと聞かれれば、きっと彼はそうではないと答えるだろう。けれども事実として、彼の父は絵画の世界では知らぬ者などいないという程の画家であったから、夢のきっかけが父であることは疑いようもない。ともかく、昔の彼は絵を描くことが何より好きだったのだ。

 だが、今もそうであるかと問われたら、きっと彼は言葉に詰まるだろう。何故か。父親が原因で、彼は好きという気持ちだけで絵を描けなくなってしまったからに他ならない。

 作品を仕上げたら、それを父親へと見せること。それだけが彼の家に存在する唯一のルールであった。そのルールは青年が父の前で将来の夢が画家であると公言した日から始まった。

 父親に作品を見せる度、彼が父親から受け取ったものは叱責と技術の稚拙さへの指摘のみ。確かに父からの指摘は、絵画の技術を向上させるという一点においては、それ以上に有用な教材など存在しないという程、的確な指摘ではあった。それがなければ、青年の技術が現在程に磨かれることはなかっただろう。しかしそんな父からの叱責が青年に植え付けたものは怯えと畏れ、そのふたつだけだった。

 偉大な父を失望させないように。そんなことばかりを考えて絵を描いていると、好きという気持ち一点で取り組んでいた筈の創作が、気が付けば枷となり彼の身体を雁字搦めに蝕んでしまったのだ。


 故に、青年は父親のことが苦手だった。思春期の頃には父を憎んだことさえある。

 ならばこそ、そんな自身の全てともいえる創作活動に対し、あまりにも大きな楔を打ち込んだ父が死んだということは、自分にとっては朗報ですらあった筈。


 だというのに、どうして心はこれ程までに寂寞として、世界は灰色がかって視えるのだろうか。


 父親の葬儀から数日が経った日の宵の刻。青年は独り、父親の遺品整理の為に訪れた実家の前に佇み、数える程にしかない父との記憶を振り返りながら、胸の中で独りごつ。


「何度見ても大きなお屋敷ね。神様の住んでる宮殿といい勝負してるかも」


 ぴくり、と青年の肩が跳ねる。反射的に声の主へと視線を向けると、そこには死神の少女があの日と同じように白いワンピースを靡かせて立っていた。違う点があるとすれば、握りしめた大鎌の刃の輝きが、月光の銀色ではなく夕焼けの橙に染められていることくらいであろうか。


「どうして君が此処にいるんだ」


「んー、なんでだろ?」


「僕に聞かれたって分かるわけないだろう。大体、その鎌振りかざして歩いてたってのに警察は呼ばれなかったのかよ」


「だってわたし、死神だし。貴方以外から姿が見えないようにするだなんて造作もないことよ」


「……なんでもアリって訳かい、死神様っていうのは」


「そうでもないよ? こう見えて死神の仕事って制約だらけだし。それはそれとして、早く用事済ませないと日が暮れちゃうよ」


 そう言って少女は我が物顔で青年の実家へと入ってゆく。どうして君まで着いてくるのか。なんて疑問か喉元まで出かかるも、人ならざる死神などという存在に倫理を説いた所で無駄だと悟り、青年も彼女の後へと続く。


「広いお家ね。人ひとりが住むのにどうしてこれ程の空間が必要なのかしら」


 しん、と静まり返った廊下を暫くのあいだ進んでいると、ふと少女がそんな言葉を漏らす。


「さあね。成功者ってヤツは分かりやすい形で自分の地位を誇示したくなるものなんじゃないの」


 学生の身分でありながら都内の高層マンションに住むなどという贅沢の恩恵に肖りながら言うことではないと、自嘲気味な溜息が青年の口から漏れ出る。


「ふぅん。そういうものなのかな。わたしにはよく分からないや」


「僕にだってよく分からないよ。昔、この実家に僕も住んでた頃は、ここまで高級そうな美術品だらけではなかったと思うんだけどな」


 豪奢な装飾が施された壺。ひと目で本物だと分かる絵画。終いには虎の剥製と来たものだ。父のことは殆ど知らないが、これ程までに節操がなく統一感のない趣味をした人であっただろうかと疑問に思う。


「まあ、いいか。価値のあるものは価値の分かる人に譲って、そうじゃないなら処分するだけさ。今日はその為に来たんだから」


 とはいえ、この量が一日二日で終わる筈もない。あくまで今日はそれらの概算を付ける為。それを早く終わらせて、父という存在がこの世に在ったという痕跡を消し去ったのなら、己が胸に巣食う灰色の靄は晴れるのだろうか。


「さて、と。ひと通り回ったし、あとはあの人の……アトリエだけか」


 大きな邸を一周して、青年は地下へと続く階段を前に小さく呟いた。ただでさえ地上部分ですら並の豪邸よりも遥かに大きいというのに、あまつさえ彼の実家は地下にも部屋が存在している。その地下部分を殆ど丸々、生前の父親は仕事場、即ちアトリエとして使っていたのだ。

 そのアトリエへと続く階段。その一段目へと足を踏み出そうとして――出来なかった。この先には、厭な思い出ばかりが詰まっているから。実家を出る前、彼もまたこの場を創作の場として使っていたが故に、この先のアトリエは好きだった筈の絵を描くことに対する純然たる情熱を喪った場所でもあるのだから。


「気、進まない? やっぱり、この先に行くの」


「別に。大体、何がやっぱり、だよ。知ったようなこと言ってさ」


「……ごめんなさい。軽率だったね」


「いや……僕の方こそ、ごめん」


 意外にも少女は素直に頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。死神といえども見た目は遥かに歳下の女の子。そんな少女に気を遣わせた挙句、八つ当たりにまで及んでしまった。その事実が、酷く情けないものとして青年の心にのしかかる。

 半分、やけくそだった。そんな情けなさを振り払うように、彼は早足で地下の階段を降りて行く。


 アトリエへ続く扉を開いた途端、部屋から溢れ出てきたのは揮発した油彩絵の具特有の、如何にも人工物らしい臭いであった。そんな臭いが青年の鼻腔をくすぐった瞬間、彼の脳裏に次々と記憶が瞬いてゆく。

 渾身の出来だと思った一作が、父の厳しいひと言に斃れた記憶。父の指摘を反映させたつもりの作品が、しかし全然駄目だと一蹴された記憶。遡るように浮かぶ記憶のフィルムの中に、楽しい記憶はただのひとつも見つからないのだ。


「……僕は、どうして絵なんか、描き始めたんだろうな」


 アトリエの真ん中で、青年は俯きながら、ぽつりと漏らす。死神の少女は口を噤んだまま、静かに彼の隣で寄り添う様にそっと耳を傾けていた。


「昔は、さ。純粋に好きだったんだよ。絵を描くの。それ以上に、あの人の……父さんの作品を見るのが、好きだったんだ」


 薄暗いアトリエの空間に、青年の独白が木霊する。


「何時か、父さんみたいな絵を描きたいって、そう思ったんだ。……子供って、馬鹿だよな。憧れの対象がどれだけ偉大で、雲の上の存在なのかも知らないで、そういうことが言えちゃうんだからさ。はは」


 キャンバスの上の描きかけの油彩画を一瞬見遣り、乾いた笑いを口の端から滲ませる。漏らした笑いは虚空へ静かに溶けて消え失せた。

 描きかけの作品からでも如実に伝わってくるのだ。まだまだ、父の技術には遠く及ばない。そしてきっと、もう父に追い付こうなどと思うこともない。


「多分、さ。父さんは、誰よりも絵を描くことが好きだったんだろうね。じゃなきゃ、こんなに凄い絵を描ける訳がないからさ。……好きだったからこそ、誰よりも真剣だったからこそ、僕に対しても、手を抜けなかったんだと思う」


 酷いよなぁ、とたったひと言、言葉にならない嘆きを紡ぐ。それはきっと父への怨嗟。幼き日の夢を決して拭えぬ呪いへと変えた張本人への呪詛。

 ――嗚呼、そうだ。あの日、少女の告げた父の死を聞いて尚、僕が父の下へと向かうことをしなかったのは、この胸に秘めた恨み節をぶつけずにはいられなくなっていただろうから。


「父さんはさ、画家としての自分と、父親としての自分を天秤に掛けて、きっと前者を選んだんだよ。だから僕の夢を、踏み躙ったんだ」


 実力もないのに自分を目標にしていると言われたって目障りなだけ。それは青年自身がそれなり以上の実力を持った絵描きだからこそ分かる感覚でもあった。


「違うよ。それはきっと、違う」


 けれどもそんな青年の下した結論に、真っ向から立ち向かう者がいた。澄んだ瞳に今にも泣き出しそうなくらいの感情を宿して、死神の少女は青年の歪んだ双眸を真っ直ぐに見据えていた。

 どうして君の方が泣きそうになっているのか。青年は不思議に思うも、口から飛び出てゆくのは刺々しい人を遠ざける為の言葉だけ。


「……煩いな。軽率だったんじゃなかったのかよ」


「何も知らない癖に、って言うんでしょう。でもね、それは貴方だって同じ。貴方のお父さんのこと、貴方は殆ど何も知らない。なのにどうして、そう決め付けられるの?」


「煩いって言ってるだろ!! 絵を描くことは僕の全てだったんだよ!! 唯一楽しいと思える事だった!! それを奪われて、恨まずにいられるかよ!! 畜生……! 畜生、畜生……っ!」


 一度決壊した感情のダムはとめどなく。胸の奥底にしまい込んでいた筈の恨み辛みが、次から次へと溢れてゆく。悪意の奔流が少女を傷付ける為に襲いかからんとする。その刹那のことであった。


「貴方のお父さん、本当は亡くなった日の前日に死ぬ予定だったの」


「……え?」


 少女の口から放たれたのは、予想だにもしない方向からの真実であった。意識の外から言葉によって殴られた青年は、正気を取り戻したかのように、間抜けな声で彼女の言葉を聞き返すことしか出来なかった。


「わたしは貴方のお父さんの魂を導く為に、この地上まで降り立ったの。最初は勿論、定刻通りに彼の魂を運ぶつもりだった。でもね、彼は今際の際、薄れゆく意識の中でひとつの後悔をわたしに語ってくれたの」


「後悔、だって?」


「そう。全部、貴方のこと。貴方には絵の才能がある。それこそ磨き上げれば自分すら超えるくらいの才能が。だからこそ、その原石を中途半端な場所で燻らせてはいけないって。その為に、貴方のお父さんは貴方に嫌われる覚悟で厳しく接していたんだって、そう語ってた。でもそれが結果的に息子から絵を描く喜びを奪ってしまったってこと、ずぅっと懺悔してたの」


「なんだよ、それ」


「今際の際だよ? もうすぐ死んじゃうって時に、貴方のお父さんは自分の死を嘆く訳でもなく、ただひたすらに貴方への懺悔と後悔だけを繰り返してた。そんな人が、本当に貴方のことを嫌っていたと思う? それがあんまりにも可哀想で、本当はいけないことだけど、わたしは彼の死を無かったことにして、終わりをたった一日だけずらしたの。……貴方に、会わせてあげたかったから」


 ――そんなことは、言われなくったって薄々気が付いていたさ。

 本当に自分のことが疎ましいのであれば、自分の貴重な時間を割いてまで技術の指南などする筈もないのだから。


「……嘘だ」


 されど、その事実は青年にはどうしても認め難かった。何故か。父に絵を描くことを奪われ、苦しんで生きてきたという歳月が、彼にとってのアイデンティティと化してしまっていたからだ。

 奥底で父を憎み、そうすることでしか絵を描くという行為に自分を紐付けることが出来なかったのだ。言い換えれば、絵を描くという呪縛を正当化する為には、父を憎むという行為が不可欠だったのである。

 故に彼女の語る真実は、そんな青年の歪なアイデンティティを、根幹から揺るがしかねない劇薬なのだ。父を憎めなくなってしまったら、後に残るのはからっぽの自分と白紙のキャンバスだけなのだから。


「嘘なんかじゃない」


「嘘だッ!!」


 叫び、衝動に身を任せ、青年は猛る感情を拳に乗せてアトリエの壁を思い切り殴り付けようとする。物に当たり、自らの身体を傷付けることでしか、この昂りを抑えることは出来そうにもなかったから。

 しかしそんな後先考えない行為が、彼の憎しみの息根を止めてしまう。それはあまりにも出来過ぎた偶然だった。

 彼の視線の先、アトリエの壁に飾られた一枚の絵。この空間に存在する様々な技巧が凝らされた至上の絵画達とはあまりにかけ離れた、稚拙という言葉ですら言い表せない、切り取られた自由帳にクレヨンで描かれただけの子供の絵。

 その作者は紛れもなく、幼き日の青年その人であった。この絵がこんな場所に飾られている。その意味を悟った瞬間、まるで憑き物が落ちたかのように、彼の肢体から憎しみの色が抜け落ちた。


「どう、して」


 この絵を認めて、彼はようやく思い出すことが出来た。記憶の奥底の更に奥。憶えていることが不思議なくらいの幼き日。父親に買ってもらった自由帳とクレヨンで、初めて描いた父の似顔絵。それを父にプレゼントした時、彼は屈託のない笑みを浮かべて青年のことを褒めたのだ。


 ああ、そうだ。どうして今まで忘れていたのだろうか。僕が絵を描くことを好きになった一番の理由。それはあの日、褒められたから。父親に喜んでもらえたから。だからこそ、絵を描きたいと、思えたのに。


「言ってくれなきゃ、分からないじゃないか……なにも……」


 力なく、膝から崩れ落ちる。青年の目尻に光るものが浮かび、次の瞬間にはゆっくりと頬を伝って流れてゆく。それは彼の感情の発露。先程までの激情とは違う。唯々静かに、最早二度とは逢えぬ父の真意を知った男が、後悔に打ちひしがれて流す追悼の涙。


「不器用、だったんだね。貴方の、貴方のお父さんも」


 少しの時間が流れた。アトリエに響く青年の嗚咽が収まったと同時、優しげな声色で少女は青年へと語り掛ける。


「そう、かもね」


「もう、大丈夫?」


「ああ、大丈夫だよ」


「そっか。……じゃ、わたしはもう行くね」


「最後にひとつ、教えてくれないか?」


「なに?」


「どうして君は、こんなことを? 死の定めを一日だけとはいえ歪めたんだ。君自身がさっき言ってた通り、いけないことなんだろ?」


 その問いを受け、少しの間悩む素振りを見せた後、少女は小さな声で答えを返した。


「だって、あまりにも哀しいじゃない。すれ違ったままだなんて。生命はね、流転するものだから。何時か魂は形を変えて転生する。だから死は終わりでありながら始まりでもあるの。でもね、遺された方にとっては……終わりでしかないから、かな」


「……そう、か。優しいんだな、君は」


「さあね。さ、今度こそもう帰らなくちゃ。勝手なことしたから、神様にこっぴどく叱られるだろうなぁ。あーやだやだ」


 なんてことを冗談めかして呟きながら、くすりと悪戯っぽく微笑みを浮かべて、彼女は青年へと向き直る。


「それではさようなら、人間さん。いずれ、また逢いましょう。次は貴方の、今際の際に」


 その言葉が最後であった。刹那、アトリエに一陣の風が舞う。突如として吹き荒れた有り得るはずもない突風に、青年は虚を突かれて思わず顔を覆ってしまう。

 次に彼の視界がアトリエを映し出した時、その空間に死神を名乗る少女の姿は何処にもありはしなかった。


「今際の際に、か。……僕はまだまだ死ねないな」


 何故ならば。今の自分にはやらねばならぬことがあるのだから。壁に飾られた幼き日の自分が描いた父の似顔絵に向かって、青年は慈しむように微笑みかける。


「何時かまた、こういう絵を描けるようになりたいから、ね」

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幻想奇譚集『人妖協奏録』 霜月遠一 @november11

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