2020年12月24日(木)


 結論から言うと、過去電話による意識の転送は一時的なものではなかった。


 二〇二〇年十二月。三年後の未来から飛んできた俺は今もここにいる。


 あれから歩叶あゆかと和解して、再び付き合うことになった俺はしばらくの間、いつまた意識が三年後に戻されるかとひやひやしながら日々を過ごした。が、待てど暮らせどそのときはやってこず、もしやこのまま未来に帰る日は永遠にこないのではと思い始めたのが、歩叶と再会してからふた月あまりが過ぎた頃だ。


 そしてあの日から半年以上が経過した今も、俺の心身に異常はない。

 ということは、俺は消失した三年間の記憶を抱えたまま、少しだけ人生をやり直すチャンスをもらえたようだ。結局俺が過去カメラと呼んでいたアレは何だったのかとか、どうして俺だけ過去に戻ってこられたのかとか、真相は何ひとつ分からずじまいだが、すべては文字どおり「神のみぞ知る」ということだろう。


 ちなみに俺の知る三年前の今日、歩叶を殺した熊谷くまがい沙也人さやとは夏の終わりに警察に捕まって白女はくじょを去った。やつは俺と歩叶がよりを戻したことを知るやますます言動が過激になり、誰が見てもおかしいと感じるレベルになっていたようだ。

 が、俺は敢えてそんな熊谷に対抗し、歩叶との関係を見せつけた。いや、見せつけようと思って見せつけたわけではないのだが、結果としてそうなった。

 何しろ平日の放課後は毎日歩叶を白女まで迎えに行き、休日も歩叶に登校する予定があるときは、決して送迎を欠かさなかったから。


 もちろん苛立つ熊谷の様子を見た歩叶は不安がったが、俺はその都度「大丈夫」と伝えて安心させた。いつ熊谷に襲われてもいいように自衛手段は講じていたし、のぞむ横山よこやまにも協力してもらって、俺も歩叶もとにかくひとりにならないことを徹底していたからだ。あの日、俺たちが未来からかけた電話がきっかけで、歩叶の抱えていた事情はふたりも知るところとなった。


 未来の軍師横山の読みどおり、二〇二〇年の望は例の電話が横山からだったという事実は決して口外せず、おかげで過去の横山にも自然な流れで話を通すことができたのだ。例の電話は間違いなく横山からのものだった、と望が強硬に主張していたらきっとまた話がこじれて、ややこしいことになっていただろう。

 しかし口が軽くて困ると思っていた悪友の意外な義理堅さに助けられ、ふたりの友人を名乗る謎の白女生から事情を聞いたというていで俺が話を伝えると、四人が一堂に会した休日のファミレスで、横山は泣きながら隣の歩叶を抱き締めた。


「やっぱり……ずっと変だと思ってたの。歩叶が急に清沢きよさわくんと別れたって言い出したのもだけど、熊谷先生のことも。先生も歩叶の部での活躍を知ってるから、それが理由で特別扱いするのかなって、そう思ってたけど……もっと早く違うって気づいて、声かけるべきだった。ごめんね、歩叶……」


 言うまでもないことだが、実の親が誰であろうと、正体が何であろうと歩叶は歩叶だ。だから一緒に暮らしている家族とは血がつながっていないとか、母親に疎まれているだとか、そんな話は俺たちには関係がない。

 むしろそのせいで歩叶が苦しんでいるのなら力になりたい。助けてやりたい。

 少なくとも俺はそういうつもりで、もう一度彼女とやり直すことを決めた。が、どうやら望や横山も同じ考えだったらしく、未来で見た手記の中で歩叶が恐れていたようなことは何ひとつ起こらなかったとも言い添えておく──もっとも望に限っては歩叶のためというよりも、どちらかと言えば横山のためだったのだろうけど。


 ともあれそういったいきさつがあり、俺たちはとにかく卒業まで結託して、熊谷から歩叶を守ろうということになった。

 学校では横山が常に歩叶の傍を離れず、登下校も俺や望が付き添う。

 歩叶はやはり、学校の教師と揉めていることを養父母には知られたくないと言うから、親に直接相談するよう勧めるのはやめた。代わりに白女と白石しろいし市教育委員会には、熊谷の裏の顔について暴露するメールを匿名で送ったり、警察にも益岡ますおか公園付近で不審者に追いかけられたという嘘の通報をしたりもした。


 効果のほどはあったのかなかったのか、正直外からは判然としなかったが、あるいは熊谷の逮捕はそうした工作がじわじわと効いた結果だったのかもしれない。

 何しろ熊谷は白昼堂々、校内で生徒を襲おうとしていたところを発見され、そこから芋蔓式いもづるしきに過去の所業も露見して敢えなくお縄となった。


 やつは常に大多数の女子からはやされ、実際に何人かの生徒をたやすくものにしてきたはずの自分が、たったひとりの、校内でもひと際目を引く生徒に見向きもされず、むしろ明確な意思をもって拒まれた事実に自尊心と頭をやられておかしくなっていたわけだ。だからよりにもよって横山を狙った。

 いつも歩叶の周りをうろつき、自分を避けるように振る舞う彼女のことが気に食わず、邪魔者として排除しようとしたのである。


 というのも横山は、校内で歩叶をひとりきりにしないことにはこだわったが、自分が単独で行動するときのことはあまり深刻に考えていなかった。ゆえに歩叶が自分以外の友人といる間なら大丈夫だろうと油断して「清沢先生が呼んでいる」という熊谷が仕掛けた嘘の伝言を信じ、ひとりで職員室へ向かってしまったのだ。


 結果、彼女は廊下の途中で人気のない特別教室へ引きずり込まれ、そこで待ち構えていた熊谷から暴行されそうになった。熊谷は過去にも「バラせば進学できないようにしてやる」とか「写真をネットにばらまく」とかいう脅し文句を駆使して関係を持った生徒を沈黙させ、不登校に追い込んだ実績があったそうだから、同じ手を使えば横山も学校から追い出せると踏んだのだろう。


 ところが助けを求める横山の声が校内を見回っていた他の教員の耳に届き、駆けつけた同僚によって熊谷は取り押さえられた。このとき異変に気づいて教室に乗り込んだのが俺の父だったのは、あくまでも偶然だ。

 何しろ俺は過去に転移してから、父には一度も熊谷の話をしていない。

 未来で過去改変による父の死を経験してしまったがために、余計なことを言うとまた同じことが起きるかもしれないという不安に駆られて言い出せなかったのだ。


 ところが結局熊谷を警察に突き出したのは父という展開になってしまい、話を聞いた俺はしばらく生きた心地がしなかった。

 父が命を落とした過去改変では、どうしてあんな風に歴史が変わってしまったのか詳しい経緯を調べないままリセットしてしまったから、ひょっとすると近く熊谷が報復にやってくるのではと不吉な想像が膨らんで仕方なかったのだ。


 けれども結果から言えば、俺の心配は杞憂だった。熊谷は逮捕されたのち、過去の悪事もすべて暴かれる形で起訴され、執行猶予つきの判決こそ勝ち取ったものの当然地元にはいられなくなり、夜逃げ同然に逃げ去ったという。

 噂によれば誰も自分を知らない新天地を求めて、遥か遠い他県に飛んだというから、これでもう二度と俺たちの生活が脅かされることはないだろう。


 かくして迎えた二〇二〇年、十二月二十四日。俺の知る過去では歩叶が儚く命を散らしたその日を、ついに何事もなく迎えることができた。

 あれから季節をまたぎ、無事高校三年に進級した俺は、人生二度目の大学受験に向けて勉学に勤しんでいる。おかげで当然のように冬休みは返上。

 今日もなつかしの母校にて、かつての未来ではほとんど疎遠になってしまっていた級友たちと一緒に冬季講習を受け終えた俺は、早々に下校しようと教室を出た。


 正直、歩叶に別れを切り出されたときと同じかそれ以上に憂鬱だった大学受験をもう一度やり直さなければならないという現実は、そこそこに応えている。が、これも歴史を変えた代償だと思えば仕方のないことだ。しかしどうせ受験をやり直すなら、いっそのこと進学先も変えてしまおうかと真剣に考えた時期もあった。何しろ過去を変える以前の俺は特に何がやりたいという目的もなく、将来のためにはとりあえず大学を出なければという義務感だけで父の母校を選び進学したのだ。


 ならば二度目の人生では、もっとちゃんとした目標ややりがいを持って大学に進みたい。そう考えた結果、俺はやはりもといた未来と同じ、東北学院大学の歴史学科を目指すことに決めた。ただし志望する学科こそ同じだが、入学後の専攻は日本史から民俗学へ変えようと思っている。民俗学とは簡単に言えば、日本の土着信仰や民間伝承の歴史ルーツについて研究する学問だ。


 そして日本の古い信仰や言い伝えは往々にして地域の神社やほこらなど、神道との関わりが深い。だから各地の伝承に語られる神々について調べていけば、俺はいつか時間を超えて過去を変えたという自身の体験について、何かしらの答えを得られるかもしれないと思った。そうして俺は俺に証明したい。


 人智を超えた神なる存在は確かに実在し、俺たちに微笑んでくれたのだと。


「おーい、ユーセー!」


 そんなことを考えながら廊下に出ると、正直聞き飽きたなと思うくらい聞き慣れた呼び声がする。見ると同じく隣のクラスで授業を終えたらしい望がそこにいて、俺の姿を見つけるや、何やら妙にニヤつきながらやってきた。


「おー、望。おまえももう帰るのか?」

「おう、帰る帰る。けどユーセーは、どうせこのあと平城ひらきちゃんとデートだろ? いいねえ、イヴにデートの予定があるなんて羨ましいやつめ」

「いや、デートっつっても別に、今日はふたりでケーキ食いながら今度の休みの予定を立てるだけだし……何ならおまえも一緒に行くか? 光のページェント」

「あー、そういやおまえら、次の土曜はアレ見に仙台行くって言ってたっけ。けどせっかくのデートにオレがついてったら絶対邪魔だろ」

「いや、横山も呼んで四人で行ったらどうかなって。おまえも最近、せっかく横山といい感じになってきたんだしさ」

「お、おぉ……いや別にオレらはまだそういうんじゃないけどさ……」

「けど、卒業まであと三ヶ月もないんだぞ。東京行く前に何とかしないと、会えなくなってからじゃ余計にタイミング失くすだろ」

「そ、そーだけどさぁ……ってかなんでユーセーはオレと横山ちゃんがそういう感じなの知ってるわけ!?」

「いや、歩叶から筒抜けだから。つーかおまえら、誰がどう見ても両想いのくせにいつまでモタモタやってんだよ」

「だーっ、うるさいうるさい! お互い受験が終わるまではって心のどこかで思ってんだよ! ていうか女子のことでユーセーにあれこれ言われんの、なんかちょっと心外なんですけど!?」

「悪かったな。ま、おまえが一方的に俺をからかえる時代は終わったってことだ」


 中三の終わりに歩叶と付き合い始めてから、今日まで散々俺を飯のタネにしてきた悪友への報復のつもりで、昇降口を目指しながら俺は鼻で笑ってみせた。

 ところがいつものノリで憤ってみせるかと思いきや、望は何やら急に神妙な顔をしてまじまじとこちらを見つめてくる。こいつが会話中にこんな反応をすることは滅多にないので、俺も意外に思う反面、ちょっと気味が悪い。


「何だよ?」

「いや、前から思ってはいたんだけどさ……ユーセー、平城ちゃんと元サヤに戻ってからなんかキャラ変わったよな」

「そうか?」

「うん。なんつーかこう……ちょっとは男らしくなったって感じ?」

「……それってつまり、前の俺はじめじめして女々しかったって言ってんのか?」

「ぶははは、バレた!?」

「まあ実際、自分でもそうだったと思うけど……でも、だった俺よりはだいぶマシになったろ」

「お。なんだ、ユーセーも自覚あったわけ?」

「いや、おまえに言われた」

「え。オレ、そんなこと言ったっけ? いつ?」

「二〇二三年の八月二十一日」

「へ?」

「いや、忘れたんなら別にいい。俺が大事に墓まで持ってくから」

「……どゆこと?」

「何でもないよ、気にすんな。じゃ、俺、今日はこっちだから」


 やがて辿たどいた校舎裏の昇降口でさっさと靴を履き替えた俺は、怪訝けげんそうに首を傾げている望を置き去りにして、正面に伸びる益岡公園の歩道へ入った。

 学校の敷地から直接公園に入れるというのはやはり便利だ。

 昨夜降った雪を被り、うっすら化粧した芝生を横目に広場を抜けて、冬空を仰ぐ白石城の城門をくぐる。目指す先は言わずもがな、神明社しんめいしゃだ。


 今日も今日とてあの神社を待ち合わせ場所に指定した歩叶も、今日は冬季講習を受けるために白女へ登校しているはず。

 そういえば今回の横山は風邪をひかずに済んだのだろうか、なんてなつかしい記憶に思いをせながら、相変わらず閑散とした参道を通り、境内へ入った。

 しかして益岡天満宮前まで行ってみるも、歩叶はまだ来ていないらしい。

 まあ、授業終わりの時刻は白高はっこうも白女も変わらないはずだから、じき姿が見えるだろうと思いつつ、俺は改めて二本ののぼりに飾られた小さな社の前に立ってみた。


 燈籠型の賽銭箱にじっと目を落としても、そこにはもう三年後の俺が手にした歩叶の形見が挟まっていることはない。もっともこの世界での歩叶は死を免れたのだから、形見が存在しないのは当然と言えば当然だ。結局俺が過去カメラと呼んでいたあのスマホはどこから来てどこへ消えたのか、すべては今も謎のまま。

 けれども俺は、あれはここにいる神様からの贈り物だったのだと信じて疑っていなかった。ゆえに今日もコートのポケットに忍ばせた小銭を取り出して賽銭箱へ放り込み、歩叶を待つ間にと社に向かって手を合わせる。


 ──神様。


 ひょっとするといつか歩叶が言っていたとおり、神様も寂しかったのかな。

 歩叶は分霊の仕組みを知らなかった頃の勝手な妄想だと言って笑っていたけど、かつての俺がそうだったように今の時代、心から神々を敬い、手を合わせに来る人間なんてそうそういなくなった。

 そうやって人々から忘れ去られていく孤独を一時いっときでも忘れさせてくれたのが歩叶だったなら、彼女を助けたいと願った神様の気持ちが、今は俺もよく分かる。


 だから、神様。歩叶の──俺たちの願いを叶えてくれて、本当にありがとうございました。ご恩は一生忘れません。おかげで俺たちはもう、大丈夫です。


 ここへ来るたびに繰り返す感謝の念を、今日も心の中で捧げる。無神論者だった頃の俺が見たら馬鹿馬鹿しいとわらうだろうが、あの頃の俺はもうどこにもいない。

 俺たちが実在すると信じる限り、神様はそこにいる。今は不思議とそう思える。

 そしてこれからもこの町で生きてゆく俺たちを見守ってくれるのだろう。

 一二〇〇年前から連綿と続く、歴史という名のゆりかごの中で。


「清沢優星ゆうせいだな?」


 そのとき不意に、背後でざり、と砂利を踏む音がして、俺はつと顔を上げた。

 直後に低く名を呼ばれ、誰だと思いながら振り返る。聞き覚えのない声だな、と内心首を傾げたが、案の定かえりみた先にいたのは知らない男だった。

 というか見知った顔か否かを論じる前に、そもそも相手の顔が見えない。

 男は黒いダウンジャケットのフードを目深まぶかに被り、唯一覗いた口もとをニヤリとさせて、次の瞬間──ドッ、と。


 気づいたときには俺の胴体に深々と、一本のナイフが突き立っていた。


 ほとんど体の真ん中、若干右へずれたくらい。

 そこから黒い柄を覗かせた刃物は、たぶん俺の予想よりずっとデカい。何せそこそこ厚手のチェスターコートと重ね着された数枚の衣服を突き抜けて、しっかり体の奥まで刃先が届いているからだ。が、あまりに突拍子なく非現実的な事態に遭遇したためか、自分が刺されたのだと理解したあとも俺は妙に冷静だった。


 ああ、そうか──そういうことだったのか、と。


「やっと会えたな。おまえとおまえのオヤジのせいで俺の人生はめちゃくちゃだ。だからここで死んで詫びろや、クソガキ」


 ニヤつきながらそう吐き捨てた相手が誰なのかは、名乗られなくても分かる。

 馬鹿な男だ。せっかく大金をばらまき、猛省するふりをして勝ち取った執行猶予を、こんなくだらないことのためにふいにするなんて。これでこいつの豚箱行きは確定だな、と他人事ひとごとのように思っていたら、刺さったナイフを思いきり抜かれた。

 途端にフィクションじみた量の血が噴き出して、へえ、わりと着込んでいても噴水みたいに血が出るもんなんだな、なんて思っているに力が抜ける。


 痛いとか怖いとか苦しいとか、不思議とそういう感想はなかった。

 ただ重力に引かれるままに地に倒れ、右の頬をしたたかに打ちつける。

 ああ、やばいな。本当に、思ったより血が出てる。

 俺の体から流れ出た血液が、乾いた砂に吸い込まれるよりも早くじわじわとあたりに広がって、あっという間に趣味の悪い水溜まりを作り上げた。なのに俺はうつぶせに倒れたまま、そのさまをぼんやり眺めていることしかできない。


 もしかして、俺──このまま死ぬのかな?


「優星くん……!!」


 刹那、まるで分厚い布でも被せられたみたいに遠くから、俺を呼ぶ声がした。

 ああ、歩叶。歩叶だ。ダメだ。来るな。いま来たら君まで殺される。

 そんな不安がほんの一瞬、怒濤どとうのごとく思考を押し流したものの、それもすぐに杞憂だったと分かった。何故なら近づいてくる足音がひとつじゃない。

 すぐ傍から、熊谷が慌てて逃げ出した気配もする。

 やつを追えとか逃がすなとか、叫んでいるのは複数の男の声。警察だろうか。

 生憎あいにく体が動かないから状況を確かめることすらできないが、熊谷が町に戻ってきているのを見つけた住民が通報でもしたのかもしれない。ざまあみろ。

 田舎における世間の狭さを甘く見るとこうなる、という好例だ。


「優星くん、優星くん……!!」


 俺がそうして内心やつの失態を嘲笑っていると、すぐ近くから泣き叫ぶ歩叶の声が聞こえてきた。同時に彼女の後ろで誰かが「救急車!」と叫んでいる。

 かと思えば、ほんの束の間意識が途切れた間に体をひっくり返されていた。

 視界いっぱいに映るのは、冬の曇り空と枯れ木の枝。

 その下で俺を覗き込み、何か叫んでいる警官と泣きじゃくる歩叶の顔。


 ああ、驚いたな。よくよく見たら警官の方は今から三年後、俺の最初の過去改変が失敗に終わったことを教えてくれた、あの親切な交番の人じゃないか。

 どうやら傷を押さえて止血してくれているらしく、胸のあたりににぶい重みを感じる。ただ、やっぱり痛みはない。

 されどそれよりも不思議なのは、しきりに何か言っている警官の声は聞こえないのに、泣きながら俺を呼ぶ歩叶の声は辛うじて聞き取れるということだ。


「優星くん……優星くん、死んじゃやだ……! なんで、こんな……私の……やっぱり、私のせいで……!」


 違う。違うだろ、歩叶。君のせいなんかじゃない。

 強いて言うならたぶん、俺のせいだ。こうなってみてやっと分かった。

 過去カメラだ。あのカメラが何故だかずっと頑なに、過去の俺の姿だけは画面に映さなかった理由。あれはきっとこうなると分かっていたからだ。

 かつて俺が君を救うために試みた過去改変では、必ず誰かが死んでしまった。

 同じように、俺が俺の手で君を救う選択をするとこうなる、と。

 だから神様はカメラにフィルターをかけた。俺が俺に連絡を取れないようにするためのフィルターだ。なのに俺が抜け穴を見つけて、それを破った。


 だったらこれは俺のせいだ。俺が自分で選んだんだ。


 ああ、だけど神様がそうまでして俺を守ろうとしてくれたのは、きっと。

 たぶん、きっと俺のためじゃない。どちらかと言えば君のためだ。

 歩叶、君が願ったから。

 あの日──俺が三年後の未来からやってきた日、君は社に手を合わせてこう祈った。どうか優星くんを幸せにして下さい、と。だから神様は君との約束を守ろうとした。俺を守って、未来を与えようとした。けれどそれができなかった。

 君を失った世界には、俺の幸せなんてどこにも存在しなかったから。


 ゆえに俺は戻ってきた。君を取り戻すために。

 だけどダメだ。これじゃダメだ。だって、俺も約束したんだ。

 必ず君を救い出して幸せにしてみせると、他の誰でもない、俺自身に。

 なのにここで死んだりしたら本末転倒だ。俺が君を失ってからの三年間、抱え続けたあの苦しみを、今度は君に与えることになってしまう。そんなのは嫌だ。

 絶対に嫌だ。しかし俺にはもう過去を変える力はない。


 ただ、唯一この手に残ったものがあるとすれば、


「あゆ、か」


 だから俺は君を呼ぶ。思ったより声量が出ない。けど、それが何だ。

 俺はまだ生きている。生きているということは、伝えられるということだ。

 君に伝えるべきことを、俺の口から、俺の言葉で。


「歩叶……ごめん……こんな、はずじゃ……なかった……今度、こそ……君を……ひとりにしない、って……思ったのに……」

「優星くん……!」

「だ、けど……俺……約束する、よ。もう一度、必ず……迎えにくる、から。絶対に……絶対に、君を、迎えにくる。だから……信じて、待っててくれる?」


 俺を見下ろした君の瞳から、大粒の涙が溢れた。

 それがぼろぼろと零れ落ちて、まるであの日の雨みたいだ、と俺は思う。

 そんな俺の手を握って、君は言った。

 やっぱり舞台の上では決して見せない、へたくそな笑顔を作って。


「うん……待ってる。ずっと待ってるよ、優星くん」


 ああ、歩叶。やっぱり俺は、そういう本物の君が好きだ。


 だから俺は俺の選択を、たとえ死んでも、後悔しない。

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