2023年8月16日(水)


 家に帰って事件について調べてみると、やはりすべてが変わっていた。

 いや、すべてが、というと語弊がある。

 何しろ犯人が熊谷くまがい沙也人さやとという国語教師で、被害者は歩叶あゆかで、彼女の遺体は死後町外れのやぶの中に捨てられたという結末は変わらなかったのだから。

 ただ、事件の流れと発生日時は大きく変わってしまっている。


 歩叶が熊谷に襲われたのは二〇二一年の元日、未明。何でも彼女は高校最後の元旦だから、思い出作りに演劇部の皆で初日の出を見に行かないかという熊谷の提案に誘い出され、大晦日おおみそかの夜、家をあとにしてしまったらしい。

 ただ当日、白女はくじょ演劇部による初日の出を見る会は確かにあった。というのもこの企画は発案者こそ熊谷だったものの、参加者は白女演劇部のLINEグループで公然と募集され、だからこそ歩叶も高校最後の思い出にと参加を決めたらしいのだ。


 ところが熊谷は、平城ひらき家のすぐ傍にある益岡ますおか公園を集合場所に指定することで歩叶を油断させ、彼女が家を出たところを待ち伏せて車で拉致した。

 そのまま車内で首を絞めて殺害したのち、何事もなかったかのように他の生徒たちと合流し、神明社しんめいしゃでの初詣を済ませて日の出を見に行ったらしい。

 無論、当日参加した生徒の中には歩叶が急に不参加になったことをいぶかる者もいたが、熊谷は悪びれもせずに、


「体調不良で欠席すると連絡があった」


 と告げて彼女らを欺いた。

 さらに歩叶を殺したあと、彼女のスマホから自分に宛てたLINEメッセージまで送り、さも本人が自らの意思で不参加を決めたように偽装したのだ。

 ここまで事件の概要を調べて分かったのは、熊谷の犯行が俺の知る三年前の突発的なものから、綿密に事前準備された計画殺人へと変容を遂げていること。

 その理由は明白で、昼間交番で聞いた巡査部長の行動が熊谷の心理に変化を起こしたと見てまず間違いない。

 ネットで見かけたニュース記事いわく、当時白石しろいし駅前交番勤務だった巡査部長は、


「白石女子高等学校に通う平城歩叶という生徒が教員からストーカー行為を受けており、近々事件に巻き込まれるかもしれない」


 という匿名の通報を受け、まず学校へ連絡した。

 そこで問題の生徒と教員が実在する人物であり、どちらも確かに白女に在籍している事実を確認すると、当時たまたま電話を取った教頭に、


「熊谷という教員が特定の生徒に対し、つきまとい等の迷惑行為を働いているという通報があった」


 とだけ事情を告げた。


 恐らく巡査部長は、俺が二〇二三年からかけた通報がもし本当に緊急性のあるものだったらと懸念して、上の指示を仰ぐまでの時間稼ぎを学校側にしてもらおうと考えたのだろう。通報の内容が事実であれ虚偽であれ、学校がちょっとのあいだ熊谷を見張っておいてくれれば、事件が起きる前に警察も動ける。


 無論これは本官の独断によるもので、警察としてまず優先すべきは事件を未然に防ぐ努力をすることだと判断したがためのものだった──と当時、巡査部長本人もそう供述したらしい。ところが突然警察から思いもよらない連絡を受け、泡を食ったのが学校側である。教頭は巡査部長から電話口で、


「詳細は追ってまた連絡するので、それまで話を公にすることのないように」


 と忠告されたにもかかわらず、すわやと慌てて熊谷を呼び出した。

 で、周囲には話を内密にしたまま本人に面と向かって、


「ついさっき警察からこういう連絡があった」


 という事実を告げてしまったらしい。もちろんこのときの教頭の目的は、


「事実なら今すぐ生徒への迷惑行為をやめなさい」


 と警告することではなく、


「何かの間違いですよね、たちの悪い悪戯いたずらですよね」


 と笑って事実確認することにあった。

 熊谷沙也人という教員を全面的に信頼して、というよりは、


「事実関係がどうあれ今、間違いだということにすれば、大事にせず揉み消してやるから、学校われわれのためにも〝はい、間違いです〟と言え」


 という言外の恫喝どうかつとして。結果熊谷は教頭の望んだとおりの模範解答を呈出し、満足した教頭は次に警察から電話がかかってきた折り、


「本校としても迅速に確認を行ったが、今のところそのような事実は確認できていない。何かの間違いではないか」


 と回答した。それを聞いた警察も自らの名を明かさず、何故か頑なに110番を拒否した怪しい通報の信憑性を疑問視して、あとの対応は学校に一任した、というのが事件の顛末てんまつらしい。

 学校側もこれを受けて三学期が始まり次第、生徒から聞き取り調査をする方針を固めていたようだが、残念ながら冬休みが明ける前に事件は起きてしまった。


 熊谷としても万一歩叶に余計な証言をされたらと思うと、ただ座して待つわけにはいかなかったのかもしれない。もっとも逮捕後の供述などを追う限り、殺害に及んだ一番の理由は、自分をストーカー呼ばわりして警察に通報したのは歩叶だと思い込んだがゆえの逆恨みだったようだが。


「つまり俺が、歩叶を殺した……」


 いや、歩叶だけじゃない。俺からの通報を無視することなく、真摯しんしに対応しようとしてくれた巡査部長もだ。彼が事件ののちに世間から責められ、間もなく自殺を図ったという話もまた、当時のニュース記事としてネットの海に残存していた。

 というのも警官として貸与された拳銃を使っての自殺だったからで、自殺までの経緯と相俟あいまってかなり世間を騒がせたようだ。


 彼が遺した遺書には、自らの軽率な行動がひとりの少女の命を奪った事実に対する謝罪と後悔がつづられていた。有名週刊誌がウェブ版の有料記事として今なお公開している遺書の全文を読み終えたあと、俺は力なくスマホを手放すと、ベッドに仰向けたままぼうっと部屋の天井を眺めた。


 ……交番であの警官が言っていたとおりだ。自殺した巡査部長は何も悪くない。

 彼は怪しさしかなかったはずの俺の通報を悪戯や世迷い言だろうと一蹴せずに、万一に備えて動いてくれた。つまり歩叶を守ろうとしてくれたのだ。

 だのに犯人である熊谷の狂人的思考回路と、当事者でもないくせに正義面をして悦に入ろうとした人々と、かつての罪をなかったことにしたいなんて身勝手な理由で過去を書き換えようとした俺が彼を殺した。


 ──こんなはずじゃなかったのに。


 せめて彼の死と引き換えに歩叶が助かった、という展開ならまだ救いようもあった。されど歩叶に降りかかった死の運命を変えられず、さらに犠牲者を増やしただけとあっては、いくら保身に走るのが十八番おはこの俺でも己をかばいようがない。

 結局、過去を変える力なんてものは幻想でしかなかったのか。

 そんな人の手には余る力を、何の取り柄も持たない凡人が自在に操れるだなんておごったのがそもそもの間違いだったのか。


 けれどもそれなら、あの神社は何故過去カメラこんなものを俺に掴ませた?

 理系の知識は高校時代からまったく更新されていない俺でさえ、過去を映し、あまつさえ電話までかけられるなんて代物が現代の科学力で作れるとは思えない。

 否、不可能だと断言できる。だが、だとしたら俺がいま手にしているこれは何だという疑問が立ち現れ、その回答として唯一考えられるのが「神の御業みわざ」だ。


 少なくとも俺の足りない頭ではそうとしか思われない。だからこのスマホが俺のもとへやってきたのも、歩叶の形見そっくりの姿をしているのも、すべては彼女の運命をあわれんだ神が俺に「救え」と言っているのだとそう解釈した。

 だというのに、まさか神の御心に従った結果こんなことになるなんて。

 過去を変えることで歩叶以外の誰かの人生までげてしまうリスクがあると分かっていれば、俺だってもっと他の方法を考えた。


 たとえば、他人の力を借りずに事態を解決する方法。事件のあった三年前ではなく、もっと前の時系列までさかのぼって、歩叶に「白女へは行くな」と電話するとか。

 ……いや、それはそれでどうなのだろう。歩叶が進学先に白女を選んだのは地元で唯一の進学校だからで、卒業後は大学へ進むことを既に見据えていたからに違いない。ならば足を伸ばして仙台の進学校へ通えばいいじゃないかと言う人もいるかもしれないが、歩叶の家庭環境を考えるとなかなかに難しい。


 何しろ日記を読む限り、歩叶は実の子でもない自分を育ててくれた養父母に対して、かなりの負い目を感じていたらしいからだ。

 だから家では決してわがままを言わず、平城家の厄介者にならないために、常に聞き分けのいい良い子であることを己に課した。そんな歩叶に「両親を説得して仙台の高校へ通え」だなんて無責任なことは、とてもじゃないが言えそうにない。

 ましてや中三の時点では、俺と歩叶は付き合ってさえいないのに。


「……かと言って演劇部に入るなとか、熊谷に気をつけろとか言ってもな……」


 中学時代、既に横山よこやまとふたりで「白女に行っても演劇部に入ろう」と約束していたという歩叶に、親友を裏切れと告げるのはさすがに酷だ。第一、演劇部へ入ることを諦めさせたところで、白女の教職員に熊谷沙也人という狂人が紛れ込んでいる事実は変わらず、やつがいる限り歩叶の身の安全は保証されない。

 だとすれば俺は歩叶ではなく、熊谷を変える努力をすべきなのか?

 たとえば事件を起こすよりずっと前のやつに電話して、改心を促すとか?


 ……いや。見知らぬ他人に説得されて考えを改めるような男なら、そもそも殺人なんて凶行に走るわけがない。

 カッとなって突発的に生徒を殺めてしまっただけならともかく、今回の過去改変によって、やつがその気になれば明確な殺意と綿密な計画でもって人を害し、直後に平気な顔をして神前にもうでるという異常な精神の持ち主であることが判明した。


 なら、他にどうすれば過去を変えられる?


 どうすればこれ以上の犠牲を出さずに歩叶を救える……?


 考えれば考えるほど一分の光も射さない泥の中へ沈んでいくようで、俺は身動きひとつ取れなかった。夕闇に包まれつつある自室で目もとを覆ったまま、力の入らない体をベッドに預けて沈黙する。


優星ゆうせい


 そうして一体どれほどの間、見えざる泥の底に沈澱していただろうか。

 ふと部屋のドアがノックされる音で我に返った。ぼんやりしながら腕をどけてみると、いつの間にか部屋は真っ暗になっている。今、何時だ?

 頭の横に投げ出していたスマホを手に取り確認してみる。十九時十六分。ああ、どうりで父の声だと思った。声をかけられるまでとんと気づかなかったが、一階から微か漂う調味料の香りが、間もなく夕飯の時刻であることを物語っている。


「優星、いるか?」

「……うん。何?」

「悪いな。寝てたか」

「いや……大丈夫。もう飯?」

「ああ。だが夕飯の前に少し話がある。ちょっと仕事部屋まで来てくれないか」

「……話って?」

「すぐに済むよ」


 子どもの質問に答えないという教師にあるまじき返答をしてから、父は歩き去ったようだった。教師という仕事はどうも持ち帰りの業務が多いらしく、我が家には父専用の仕事部屋がある。新築時の設計図には「書斎」と書かれたその部屋は、今や学校のプリントやら教材やら、父が趣味で集めた歴史小説やらでいっぱいだ。


 ゆえに父はあの部屋に滅多なことでは家族を入れない。どこに生徒や父兄の個人情報が転がっているか分からないし、ひとたび母を入れようものなら「片づけ」と称して、趣味のものと教材の区別もつけずにごみ袋へ放り込まれてしまうから、留守にする間は厳重に鍵をかけているほどだ。そんなところに呼び出されるなんて、きっとただの話ではないなと清沢きよさわ家の息子の勘が言っている。かと言ってもうしばらくこの家に滞在する身の上で、父の機嫌を損ねるというのもばつが悪い。


 そう判断した俺は観念して父の待つ書斎へと向かった。

 二年半ぶりどころか、もっと長いあいだ立ち入った記憶のない父の仕事部屋は、相変わらず書類や本の山だ。しかし父の性格上、それらは種別や目的ごとにきちんと分類され、整然と積み上げられているおかげで不思議と乱雑な印象は受けない。

 もっとも性格は大雑把なくせにきれい好きな母に言わせれば「見たら片づけずにはいられないほど汚い」らしいのだが。


「……で、来たけど、話って何」

「うん。ちょっとそこに座れ」


 と、机代わりに使っているらしいカウンターの手前に座った父が、壁際にある別の椅子を顎で示す。普段父しか使わない部屋に何故二脚も椅子があるのか、俺は眉をひそめながらも渋々向かい合う形で席に着いた。室内に漂う紙のにおいと父の肩書きが、まるで学校の二者面談だな、という感想を脳裏に運んでくる。

 だけどこんな風に一対一で父と向き合ったのはいつぶりだろう。

 物理的にはほんの一メートル程度の距離だというのに、実家を離れていた二年半という歳月が間に横たわっているのもあって、何やら妙に据わりが悪かった。


「優星。おまえ、今、何か困ってないか」


 おかげで対座を正視できず、意味もなく室内の観察を続ける俺へ、父がそう声をかけてくる。途端にぎゅっと心臓を掴んだのは「そんな話だろうと思った」という納得と「なんで分かったんだ?」という疑問、ふたつの矛盾した感情だった。


ゆいも昨日、心配してたぞ。ちょっと前からおまえの様子がおかしいってな。久しぶりに白石に帰ってきて、昔の友達と何かトラブルでもあったのか?」

「いや……別に、何もないけど」

「そうか。おまえももう子どもじゃないし、多少のことは自力で解決できるだろうから、必要ないって言うなら余計な口は挟まないが……もし何か困ったことになってるなら、いつでも家族を頼っていいんだぞ」

「……」

「まあ、母さんはおばあちゃんを亡くしたばかりだから、あまり心配をかけたくないっていうのは分かるけどな。そういうのを気にして言えずにいるなら、俺も母さんには黙っておくから」

「いや……だからほんとに、そんなんじゃなくて……」


 とつい否定しかけたものの、実際困り果てているのは事実だから、俺は二の句を継げなくなった。父は恐らく昨日の時点で、俺の様子が妙なのを確信している。

 が、だからと言って素直にお言葉に甘えられるかといえばそうもいかない。

 何しろ「過去に干渉する力を手に入れたから、今、三年前に殺された歩叶を救おうとしている」なんて洗いざらい白状したところで、久方ぶりに帰省した地元の酷暑に息子がやられた、と思われるのがオチだろうから。


「……あのさ」

「ん?」

「縁起でもないって言われるかもしんないけど、あくまでたとえ話として……父さんはもし母さんが、ある日突然事故かなんかで先に逝っちゃったとして、それを過去に戻って助けることができるとしたら助けに行く?」


 ゆえに俺は数瞬迷ったあげく、突拍子もない質問を投げかけてみた。

 すると父は眼鏡の向こうで片眉を上げ、何とも怪訝けげんそうな表情をする。


「なんだ? ずいぶん突飛な質問だな。まあ、仮に過去に戻ってやり直すことができるんだとしたら、もちろん助けに行くだろうが」

「じゃあ、過去を変えれば母さんは助けられるけど……代わりに誰か別の人が犠牲になるって分かったら?」


 父の眉は正直だった。

 今度は明らかにひそめられ、不審のていで俺を見つめているのが分かる。

 まあ、無理もない。息子がいきなりこんな話をし出したら、やはり夏の暑さで頭がどうかしたのだろうかと疑う方が正常だ。されど父はしばしの沈黙ののち、


「……そうだな。それでも最後には、やっぱり助けに行くだろうな」


 と答えた。瞬間、俺が驚いて思わず「えっ」と息を呑むと、今度は父の眉が八の字を描いて笑い出す。


「なんだよ、えっ、て。俺が母さんを助けに行くのがそんなに意外か?」

「い、いや、そうじゃなくて……てっきり父さんならもっと悩むと思ってたから」

「まあ、悩むだろうな、実際そういう状況になったら。だけど母さんを助けたい気持ちはどうあっても変わらないだろうから、とにかく端から色々試して、可能な限り誰も犠牲にすることなく叶える方法を探すと思う。そこまでやってもダメだったら、さすがに諦めるかもしれないが」

「母さんを助けるのを?」

「いいや? 誰かを犠牲にしないで済む方法を探すのをさ」


 という父の答えがまたも意外で、俺は声を呑んでしまった。

 つまり、父は母を永遠に失うくらいなら、誰かを身代わりにしてでも助けに行くということか。それが他人を殺すに等しい選択だとしても?


「やっぱり〝意外だ〟って顔だな」

「い、いや、うん……だってふたりって、お見合い結婚だろ。だから正直、そうまでして母さんを助けに行くとは思わなかったっていうか……」

「確かに出会ったきっかけは見合いの席だったが、俺だってちゃんと母さんを好きだと思ったから結婚したんだぞ。知り合ってから二年くらい付き合ったし、歴史の話ができないことと何でも勝手に片づけようとすることを除けば、今でも好きだ」

「……性格も正反対のような気がするけど?」

「だからいいんじゃないか。というより、むしろ正反対だからこそ惹かれたんだろうな。いつでも石橋を叩いて渡ろうとする俺と違って、母さんはたとえ石橋が崩れ始めても、走って渡り切るから気にしないって感じの人だろ?」

「……まあ、うん。否定はしない」

「俺は美結希みゆきのそういうところがいいな、と思ったんだ。何でも考えすぎて立ち止まってばかりの俺を、そんな細かいことをいちいち気にするな、人生何とかなると言って、いつもぐいぐい引っ張ってくれてな。見方によっては無責任な振る舞いに映るかもしれないが、俺はそういう美結希のに何度も救われたんだよ。おかげで乗り越えられたことも、ひとつやふたつじゃなかったからな」


 ──ああ。ひょっとすると父も俺と同じように、眼鏡の向こうには在りし日の幻が見えたりするのだろうか。思わずそんな空想がよぎるほどなつかしそうな顔をして、父は目の前にいる俺ではない、どこか遠いところを見ていた。

 そのまぶしそうな眼差しに、何故だか俺の方が赤面してしまいそうになる。

 だって、父が息子おれの前で母を名前で呼ぶなんて今までになかったことだ。母に直接名前で呼びかけるところは何度か見た覚えがあるものの、当人不在の状況ではいつも「母さん」とか「妻」とか「家内」とか、母のことを二人称で呼んでいた。


 だから俺もてっきり、ふたりはお見合いの末にお互い割り切って結婚したのだろうと思っていたのに。意外にもうちの両親は今も互いに愛し合っているのだと見せつけられて、何やら面映おもはゆいような居心地が悪いような、むずがゆい気持ちにさいなまれた。けれど父の話を聞いて、同時に思ったことがある──俺も同じだ。たぶん俺が歩叶に惹かれたのは、彼女が俺にないものをたくさん持っていたからだ。


 容姿も、才能も、勤勉さや明るさも。

 全部全部、どこまでいっても平凡な俺が憧れていたものばかり。

 そういう歩叶の隣にいると、俺も「特別」になれたような気がした。こんな俺でも歩叶が「特別な人だ」と言ってくれたから、顔を上げて前を見られた。

 そう、歩叶がずっと「普通」になりたがっていたように、俺も「特別」な何かになりたかったんだ。顔も学力も平凡で、特筆すべきものも夢もない、退屈な自分を変えたかった。歩叶や横山やのぞむのように、俺も輝いてみたかった。


 つまり俺も歩叶も、求めていたのはまるきり逆のものだったけれど、だからこそ互いが互いの足りない部分を補って、満たし合えていたということ。


 それくらいかけがえのない存在だった。きっともう二度と、歩叶のような相手ひととは巡り会えないのだろうと確信できてしまうほどに。


「優星」


 そう思ったら、不意に何もかもがすとんと腑に落ちた。父の声が俺を呼ぶ。

 理由は分かっていた。けれどもすぐには顔を上げられなかった。

 こらえる間もなく溢れた涙が、静かに頬を伝ってゆくのに気を取られて。


「優星、大丈夫か?」

「……父さん」

「うん?」

「俺、歩叶が好きだ。今でもずっと、好きなんだ……」


 やっと誰かの前で、ちゃんと言葉にして言えた。

 そうしたらさらに涙が溢れて、しかし俺は、今度は拭うこともしなかった。

 これが俺だ。弱くて情けなくて身勝手で、嘘偽りのない俺の姿。

 それを隠さず、覚えておこうと思った。するとそんな俺を見て父が言う。


「そうか。なら、今のおまえにできることを全力でやりなさい」

「……うん」

「生きられなかった平城さんの分まで、って話じゃない。彼女のためにできることを、全力でやりなさい」

「うん」

「そのために傷つく人がいるのなら、焚きつけた俺のせいにするといい。おまえがひとりで全部背負うことはないんだ。他人の人生まで背負い込むには、おまえはまだ少し若すぎるしな」

「父さん──」

「さっき、おまえは話の例に母さんを挙げたけどな。相手がおまえや結でも、俺はきっと助けに行くよ。そう思えば、子の責任を親が肩代わりしてやるくらいどうってことない。おまえは好き好んで人様を傷つけたり迷惑をかけたりするようなやつじゃないって、ちゃんと分かってるしな」


 そう言って笑ってくれた父の顔を見たら、また泣けてきた。

 でも俺の父親はこういう人だ。

 だから俺も、そんな父の子を名乗るには凡庸ぼんようすぎる自分が恥ずかしかった。

 おかげでずっと、父とこうして向き合うことを心のどこかで避けてきたけど。

 もしもすべてが終わったら、一緒に酒でも飲めるだろうか。

 父と子ふたりきりの、親子水入らずで。

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