2019年10月13日(日)


 真留子まるこをアメリカ行きの船に乗せてくれた老婆は、のちに横山よこやまから聞いた話によると、身売りする女たちの仲買人だったらしい。

 いわゆる「女衒ぜげん」というやつで、出稼ぎと称して杏奈あんなをアメリカへ売り飛ばしたのもやつだった。どうりで底意地の悪そうな喋り方をするわけだ。


「ふん……母親を探しにアメリカへ行きたい? いいだろう。そういうことならおまえの孝行心に免じて、船代はタダにしてやろうじゃないか。向こうに着いたら、あたしの知り合いの乱助らんすけってやつを訪ねな。きっと歓迎してくれるだろうからさ、ふぇっふぇっふぇっ」


 という下卑げびた笑い声を聞くだけで、こいつが何かよからぬことを企んでいるのが瞬時に分かる。けれども無論、演じているのは白女はくじょの演劇部員で、その正体は悪擦れした老婆などではなく華の十代を謳歌する女子高生だ。

 だというのに腰を曲げて杖をつき、醜いしわがれ声で話すさまは、ひと目で昔話によくいる意地悪婆さんを連想させた。つまり演技が堂に入っている。横山は常々、


「白女の演劇部でも一番の役者はやっぱり歩叶あゆか。正直、歩叶の演技はプロの女優レベルだよ。あんなの誰も敵いっこない」


 と、まるで自分の手柄のように誇っていたけれども、素人の目から見ると、白女演劇部は脇を固める役者まで粒揃いだなという印象を受けた。ともあれそんな意地悪婆さんの策略とも知らず、汽船に乗った真留子は意気揚々と太平洋を渡る。ふた月近い船旅を経て、彼女が辿たどいたのはアメリカ東海岸──そう、東海岸だ。


 真留子を乗せた船はわざわざ北米大陸の南を回り込み、パナマ運河を経由して、ノーフォークという港町へ到着した。このノーフォークとは、何でもかの有名なペリー提督が日本へ開国を迫るべく、黒船に乗って出港した町……らしい。

 らしい、というのは歴史家の父を持つ子にあるまじき伝聞調だが、実際劇中で真留子が「ここからペルリがお江戸に来たのかあ」と感嘆の声を上げるまで、まるで知らなかったのだから仕方がない。


 しかしアメリカの地理についてはからきしの俺でも、横山が『母をたずねて三千里』をジャパナイズするに当たって、日本人にも馴染みやゆかりある地名を使おうと工夫したのであろうことは想像に難くなかった。劇を見ながら歴史や地理の知識まで得られてしまうとは、まったく大した脚本だなと、いま思い返しても感心する。


「こんにちは! あの、私、日本から来ました真留子といいます。二年前、日本からアメリカへ働きに行ったきり、手紙が途絶えたお母さんを探しに来ました。私を船に乗せてくれたおばあさんから、アメリカに着いたら乱助さんって人を頼れと言われて来たんですけど……あなたがその乱助さん、ですか?」


 やがて真留子が訪ねた先に待ち受けていたのは、一瞥いちべつしただけで「カタギじゃないだろ」とつっこみたくなる人相の男だった。

 と言ってもやはり彼を演じているのも白女生なわけだが、舞台の上でもよく目立つ十字傷を頬につけ、しどけなく革の腰かけに沈みながら、すぱすぱと葉巻を吹かす仕草をされれば嫌でも正体を推測できてしまう。

 これには船の上でも元気いっぱい、常に明るく前向きな言動を見せていた真留子も、ちょっとばかり怯えたていだ。男は大袈裟に葉巻の煙──無論、本当に火がついているわけはないので息を吐くだけの演技だが──を天へと吹きかけると、


「ああ、話は聞いてるよ、お嬢ちゃん。母親を探して日本から遥々海を渡ってくるたあ、チビのくせに見上げた度胸だ。早速おまえさんの母親が働いてた宿に送ってやろう。あそこでならきっと母ちゃんの消息も掴めるだろうさ」


 と、もはやつくろう気もないと見える邪悪な笑みを浮かべて言った。

 が、大人たちの醜い嘘に騙されているとも知らない真留子は無邪気に大喜びだ。

 結果、真留子は男の言葉どおり、かつて母親の働いていた宿へ送り込まれた。

 無論、母を探してやってきた幼い客人ではなく、宿のとして。


「えっ……私がここで働くって、どういうことですか? 私はお母さんを探しに来たんです、働くためじゃありません! 誰か、誰か私のお母さんを知りませんか? 名前は杏奈といいます。日本にいる家族を養うために来た、とっても優しいお母さんです!」


 宿に着いてようやく事態を理解した真留子は、必死になって母の行方を聞き回った。ところが宿の女たちは、乱助に騙されてやってきた真留子をあわれみこそすれ、誰もまともに取り合ってはくれない。


「まだあんな子どもなのに、かわいそうにねえ。自分が乱助に売られたとも知らないで。どうしてこんなボロ宿にあたしら日本の女が押し込められてるのか、何にも知らずに来たんだろうね。あの子が探してるっていう母親も、きっともう……」


 という女たちのひそひそ話が、膝を抱えてうなだれた真留子の小さな背中に降りかかる。劇中ではっきりとは明言されなかったものの、恐らく彼女が売られた宿というのは、いわゆる春をひさぐ宿だったのだろう。その証拠に真留子はすぐに客の接待をするよう命じられ、とあるアメリカ人の前へと差し出される。


 アメリカ人、と言っても、実際には金髪のカツラを被ってつけ鼻をしただけの白女生だが、驚いたことに彼女の台詞はみんな英語だった。

 何でもあれは横山が白女の英語教師に頼んで台詞を翻訳してもらい、脚本に組み込んだものだったらしい。とはいえ演じるのはあくまで高校生であって、それゆえ英語の発音まではさすがに上出来とは言い難かったが、一方、早口でまくてるような演技には感服させられた。


 高校生が外国語の台詞を覚えるだけでも相当苦労しただろうに、それをあんな早口でそらじてみせるだなんて並大抵のことではない。おかげで知らない言語を機関銃のように浴びせられながら、強引に腕を引かれた真留子が恐怖のあまり、男の手を振り切って逃げ出す展開にこの上ない説得力が生まれた。


 そうして宿から脱走した真留子は以後無一文でアメリカをさまようことになる。

 何故なら宿へ売られるときに騙されて乱助に荷物を預けてしまい、父が苦心して集めた金から何から、すべて盗まれてしまったからだ。

 誰ひとり頼れる者のない異国の地で、ひとり。

 信用していた者たちに裏切られ、寄る辺も失くした真留子の心情を表すように照明は落ち、一本のスポットライトだけがうずくまった彼女を照らした。


「ああ、どうして……どうしてこんなことに。私はただもう一度、お母さんに会いたいだけなのに……!」

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