2023年8月15日(火)


 歩叶あゆかの家からどこをどうやって帰宅したのか、まるで記憶がなかった。

 気づけば蔵王山ざおうざんの方角に日は暮れかけていて、俺は自転車のハンドルを掴んだまま、実家のカーポート脇に突っ立っている。

 ……のぞむ横山よこやまはどこへ行ってしまったのだったか。

 ああ、そうだ。八幡町はちまんちょうにある古い日本家屋で歩叶の生い立ちを聞いたあと、俺は望の車に乗せられて長寿庵ちょうじゅあんまで引き返し、駐車場を間借りしていた自転車にまたがって、ふらふらこぎつつ何とか家路に就いたのだった。


 ただやはり平城ひらき家を出てからの記憶は判然としない。長寿庵を目指す車中でも、夢遊病者みたいな足取りで自転車のサドルを跨いだときも、すぐ傍で望が何か喚いていたような気がするものの覚えているのはそれだけだ。

 やつが何を騒いでいたのだったか、また長寿庵からどういう道を通って自転車をこいできたのだったか、どうやっても思い出せない。こんな状態でよくガードレールも何もない田んぼに落ちることなく無事帰ってこられたなと、人間の帰巣本能とでも呼ぶべきものにぼんやり感心しながら、俺はようよう実家の玄関をくぐった。


「あら優星ゆうせい、お帰り。遅かったわね。望君たちとどこか出かけてきたの?」


 そうしてまっすぐリビングへ足を向けると、L字型のソファに腰かけた妹のゆいが何か飲みながらくつろいでテレビを見ている。

 そちらに気を取られたところへ、今度は対面キッチンの向こう側から夕食の支度に追われる母に声をかけられ、俺は束の間、亡霊のごとく戸口に立ち尽くした。


「どうしたの、ぼーっとして。久しぶりに友達とはしゃいで疲れちゃった?」

「うん……まあ、そんなとこ」

「だけど優星、今週末には仙台に帰るんでしょ? その前に家族でどこか食事にでも行くかって、今朝お父さんが言ってたよ。あんた、何か食べたいものある?」

「いや……今は、特に何も」

「じゃあ明後日くらいまでに考えといて。お父さんももう帰ってくると思うけど」

「うん」

「すぐに夕飯できるから、寝ちゃわないでね」

「うん……」


 と終始上の空な返事をしながら、俺は母のいる台所に背を向けて、リビングの隅から伸びる階段を上がった。そんな俺の横顔をソファの上の結が怪訝けげんそうな面持ちで見つめるのにも気づかず、やはりおぼつかない足取りで自室へ戻る。

 勉強机やベッドなど、大きすぎて仙台へ持っていくのが億劫だからと置いていった必要最低限の家具しかない部屋は、入り口に佇んで見渡すと、何だかがらんどうの牢獄に見えた。今朝まではごく普通の部屋に見えていたのになと思いながら、汗と共にまとわりつくサコッシュを体から引き剥がし、そのままベッドへ座り込む。


 ──あなたたち、歩叶がうちにもらわれてきた子だってことはもう知ってる?


 徐々に薄暗さを増す室内で、俺は電灯やエアコンといった文明の利器の存在をすっかり失念したまま、脳裏に響く未華子みかこさんの声を聞いていた。


 ……知らなかった。歩叶があの人の実の娘じゃなかったなんて。


 未華子さんの話によれば、何でも歩叶は平城夫妻が親族里親として引き取った遺児だったらしい。血縁上の母親は、未華子さんの夫である恒雄つねおさんの姉のあいはらという人で、父親は彼女のヒモだったそうだ。

 このふたりは当初仙台で同棲していたが、佐由梨さんが妊娠したのをきっかけに籍を入れた。ところが臨月が近づいてきた頃に、相手の男が突然行方をくらませて、ひとり残された佐由梨さんは心を病んだ。


 ただでさえ生まれて初めての妊娠でたくさんの不安を抱え、精神の均衡を欠いていたところに、夫の蒸発という悲劇が重なったのだから無理もない。結果佐由梨さんは無事元気な女児を出産したものの、入院中の産院から忽然こつぜんと姿を消し、以後行方が分からなくなった。そうしてたったひとり残されたのが、歩叶だ。


 父親にも母親にも捨てられた彼女は、一旦仙台の乳児院へ預けられ、遺児として役所から「歩叶」の名と戸籍をもらった。その後、行政の調査で母方の親族として恒雄さんの名前が挙がり、市から連絡が入ったそうだ。

 恒雄さんはそこで初めて姉が結婚していたことや、我が子を産みっぱなしにして失踪した事実を知った。というのも佐由梨さんは十代の頃から素行に問題があり、家族との不仲を理由に家を飛び出して以降、やはり消息不明となっていたそうだ。


 けれども事情を知った恒雄さんは、生まれた途端ひとりぼっちになってしまった姉の子を憐れみ、平城家で引き取る決意を固めた。

 折よく、と言ってしまってよいものかどうか、平城夫妻は当時子宝に恵まれないことに悩んでいたところだったから、これも何かの縁だと思い切ったらしい。


 かくして歩叶は平城家の養子となり、叔父の恒雄さんを父として、その妻である未華子さんを母として育った。十歳を数える頃には既に自分が夫妻の実子でないことも承知していたらしい。未華子さんからそう聞かされたとき、俺は生前の歩叶の言動すべてに合点がいったような気がした。


 どこか大人びていて、されどときどきひどく寂しそうで、誰にも言えない秘密を抱えていた女の子。それが平城歩叶という少女の正体だったのだ。彼女の生い立ちについては俺はもちろん、親友の横山さえ「知らなかった」と青ざめた顔をしていたから、きっと家族の他に知る者はひとりとしてなかったのだろう。


 そんな秘密と孤独を抱えたまま歩叶は死んだ。


 十八歳と言う儚さで、たったひとりで。


 気づけば窓の外の日は落ちた。周りは山と田んぼと畑ばかりで、ほとんど車も通らない白石しろいしの宵は静かだ。この季節、窓の外ではかえると虫とが競うように声を張り上げているはずなのに、閉め切った密室の中にいると何も聞こえない。

 そうして一体どれほどの時間、無音の闇の中に座り込んでいただろうか。

 俺は不意に、長いあいだほこりを被ったまま置かれていたネジ巻き玩具のようなぎこちなさでベッドの上へ目をやった。そこには窓から射し込む外灯の明かりをにぶく照り返す、死体に似たサコッシュがある。俺はわずかな光源を頼りにそいつを手繰り寄せ、ジッパーを開けて、中から例の手帳を取り出した。


 たかだかA5サイズの、どこにでもある普通の手帳だというのにそれは重い。


 とてつもなく、重い。


 ひょっとするとこれが人の魂の重さだったりするのだろうか。

 だとすれば、かつて世界には死人の体重測定を繰り返し、魂の重さは二十一グラムだと割り出した医者がいたそうだがそいつはとんだヤブ医者だ。

 この手帳に染みついているのは、歩叶が俺と別れてから世を去るまでの、ほんの数ヶ月間の記憶たましいでしかないというのに。

 それだけでこんなに重たいものが、たったの二十一グラムであるはずがない。

 人ひとりの人生とは、命とは、そんなに軽いものじゃない。


 いや、あってたまるか。


「……くそっ」


 そういう感情から生まれた行き場のない悪態が、いよいよ俺の背中のネジを巻いた。埃にまみれた体を奮い立たせて、部屋に昼白色の明かりをともし、家の前の道路に面したカーテンを閉める。そこでようやくエアコンの存在も思い出し、ほとんど自分に言い聞かせるような気持ちで、起きろ、とリモコンを叩いた。


 途端にエアコンが吐き出した「ピ」という返事に背中を押され、俺もついに覚悟を決める。再びベッドを椅子代わりにして座り込み、一度深呼吸をしてから、息を止めて手帳を開いた。何も呼吸を止める必要はないだろうと自分でも分かってはいたのだが、限界まで膨らませた両の肺で圧迫しておかないと、恐怖と緊張で心臓が破裂してしまいそうな、そんな予感が働いたのだ。


 ところが俺の惰弱な心臓は、無惨に弾け飛ぶ未来こそ避けられたものの、手帳のページを数枚繰ったところで早くも悲鳴を上げてしまった。

 まるで歩叶の人柄から滲み出たインクでつづられたような、なつかしい筆跡が俺の手をぶるぶると震わせる。そこに記された彼女の記憶が、想いが──真実が。


 次の瞬間、俺は打たれたように息を吸い、立ち上がると同時にサコッシュを引っ掴んだ。開いたままの口に手帳を突っ込み、ジッパーを閉める間も惜しんで部屋を飛び出す。階段を駆け下り、母と妹が談笑するリビングを突っ切って玄関へ続く廊下へ出た。直後、


「えっ。ちょ、おにい、どこ行くの!?」


 と、面食らったような結の声が追いかけてきたが振り向かない。

 そのままスニーカーを両足に引っかけて、自転車の鍵をひったくり、まとわりつくような夏の湿気の中へと走り出た。夜のとばりはすっかり降りたあとだが構わない。

 サドルを跨ぎ、爪先で蹴り上げるようにしてライトのスイッチをオンにするや、俺は思い切りペダルをこいだ。力の限り──あの神社を目指して。

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