夫はすれ違う心に気付く

「いいから、通せ」


 扉の前で制止しようとした侍女たちを恫喝し、アーネストは部屋の中に踏み入った。

 途端、ふわりと柔らかい乳香が彼の鼻腔を擽るも、アーネストはとても穏やかな気持ちにはなれそうにない。

 それはこの香りに慣れている侍女たちとて同じだ。


 いくら顔が綺麗であろうと、鋭い目付きをし、軍でよく鍛えた体をしたアーネストから発せられる怒声は、侍女たちを震え上がらせるには十分だった。


 侯爵家お抱えの騎士団をまとめ上げ、敵国の城を攻め落とした功績は称賛されるべきものであったが、そのやり方が冷酷非道であったという噂が囁かれ、今や帝国内でもっとも恐れられている男となったアーネストである。

 その怒気を孕んだ声は、とても夜分に聞くものではない。


 奥様、おいたわしい。

 熱で魘され、辛いときにまで、こんな目に合わされて。


 と、同情した侍女らは、逃げ出したい気持ちに耐えて、それぞれ壁際に控え、心で主人と想うただ一人の女性を見守った。



「リーナ、どうだ?」


 意外にもアーネストの声は柔らかく、待機となった侍女らは思わず顔を見合わせてしまう。

 いつも妻を蔑ろにしていた彼が、一体どういう風の吹き回しだろう。


 ベッドで横になっていたアーネストの妻リーナも、先の声に驚いて、目を覚ましていた。

 煌々と灯るランプの明かりで、部屋は夜分とは思えないほどに明るく、アーネストはリーナの顔色の悪さをすぐに見て取った。

 熱が高いと聞いていたが、顔は青白く、血の気が引いていて、よほど状態は悪いと見受けられる。


「……だんなさま?」


 掠れた声は、部屋にアーネストがいることを信じられないと暗に語っていたが、侍女らも同じ気持ちにあった。


 結婚式後の初夜以降、アーネストとリーナは部屋を別に過ごしている。

 用意されていた夫婦の部屋は初夜を最後に使われることもなく、わざわざその部屋を挟んで、それぞれ隣の部屋に移ったくらいに、この夫婦は心を通わせてはいなかったはずだ。


 それがどうしたか。

 今のアーネストの様子は、妻を心から心配する夫に見えなくもない。



「あぁ、俺だ。今、医者を呼んでいるぞ。何か欲しいものはあるか?」


「いいえ」


 アーネストは目を瞠った。

 短い返答のあとに、リーナの瞳が見る間に潤んでいったからだ。


 いつも凛と澄まし、口元に微笑をたたえ、淑女の見本のような存在、それがリーナだ。

 あのリーナが泣くほどに辛いだと?


「おい、医者はどうなっている!まだ来ないのか!」


 ちょうど報告をしようと部屋の前に辿り着いたところだった執事長は、室内に飛んで来た。


「連絡が付き、家を出たことは確認出来ております。時間的には、もう到着しても良い頃合いなのですが。この雨ですから、馬車移動に難儀しているのではないかと」


「……だんなさま」


 執事長を助けるように発せられたリーナの掠れた声を、騎士をまとめるべくよく鍛えてきたアーネストは聴き洩らさない。


 たった今、執事長に怒鳴っていた同じ男とは思えない様相で、アーネストは今までに出したこともないと思われる穏やかな声で、リーナを励ました。


「大丈夫だ。すぐに医者を呼んでくる。なんなら俺が自ら呼びに──」


「なにがいけなかったのでしょう?」


「は?」


 ぽろり。

 ついにリーナの瞳が決壊した。

 ひとたび涙が溢れれば、次々と雫が頬を伝っていく。


「わたくし、このとおりですもの。すかれないことはよくぞんじておりますの」


「何を言っている?」


「ですけれど、だんなさま。どうしてだんなさまからそこまできらわれてしまったのか、いくらかんがえてもわからないのですわ。わたくしのどれがいけなかったのでしょう?あのひ、わたくしはなにかまちがえてしまったのでしょうか。おこらせるようなことをしてしまいましたか?もしもすべて……わたくしのすべてがきにいらないとおっしゃるのであれば、わたくしはもう……」


「リーナ、どうしたのだ?熱が辛いか?」


「どうかおしえてくださいまし。なおせるものかはわかりませんが、どりょくくらいはいたしますわ。わるいことをしてしまったのでしたら、せいしんせいいあやまらせてもいただきたいのです。だんなさまはさようなことをおのぞみでないかもしれませんけれど、わたくしにできることがあるならば」


 アーネストは絶句した。

 熱に魘されたリーナのいつにない、たどたどしい言葉ではなく、自身のこれまでの愚かさに衝撃を受けたのだ。



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