第41話 不安
「ごちそうさまでした」
清算を済ませた僕は、奥さんに頭を下げた。奥さんが、僕に微笑みかける。
「また来てね。おやすみ」
奥さんの声を聞きながら、僕は中華料理天津の入り口のドアを押した。湿り気を伴なった蒸し暑い空気が、店内に流れ込む。外に出ると、思わずゲップが出てきた。餃子の大蒜臭い息が吐き出される。ビールを飲んだせいか、気持ちがフワフワと軽かった。
「クスッ、ウフフッ……」
僕は思い出し笑いをしていしまう。子供たちが、貴子の肖像画を突きとめてきたのには、正直ビックリした。思わず動揺した姿も見せてしまう。でも、なんてタイミングが良いのだろう。奥さんのお陰でアリバイを作ることが出来た。このことが愉快でならない。お礼のつもりで、今晩は天津に立ち寄ることにした。お決まりの餃子定食を頼むと、奥さんからビールを勧められる。機嫌が良かった僕は、飲みなれないビールを飲むことにした。美味い、美味いじゃないか。餃子にビールは、思いの外、相性が良いことを知った。普段は、一人で黙々と食事をしているのに、奥さんや主人と話をして笑った。こんなにも陽気な気分になれたのは、いつ以来だろうか……。
トボトボと歩いて、家に帰る。窓には明かりが点いていない。夜も更けたというのに、両親はまだ帰っていなかった。鍵を差し込み、玄関を開ける。家はシーンと静まり返っていた。靴を脱ぎ家に入ると、真っ先に風呂場に向かう。服を脱ぎ、シャワーを浴びた。今日一日の汗が流されていく。気持ちが良かった。サッパリした僕は、パジャマに着替えて階段を上る。二階にある自分の部屋に向かった。
スイッチを入れる。暗かった僕の部屋が白く輝いた。壁の真ん中に、貴子の肖像画を飾ってある。ゆっくりと歩みを進め、立ち止まった。目を細めて肖像画の貴子を見つめる。口元が綻んでしまう。
――綺麗だよ。
ただただ、僕は眺めた。時間を忘れたように、貴子を眺めた。時間は止まらない。今も昔も、時間はただ流れていくものだ。しかし、この貴子の肖像画だけは、時間が止まっている。永遠の美しさが、そこにあった。愛おしい気持ちが、僕の中で膨れ上がる。両手で自分の肩を抱き、身もだえた。吐息を漏らしてしまう。貴子が僕の部屋に来てからというもの、自分の部屋に帰ることが、こんなにも楽しみになるなんて、考えてもみなかった。
僕は写真が好きだし、これまでにも数々の貴子を撮ってきた。しかし、僕の最高の一枚は、カメラを勉強する切っ掛けになった最初の写真になる。素人の僕が撮った、麦わら帽子を被った幼い貴子。海辺を背景にして、笑っている。技術は勉強してきたし、カメラの機材も最高の物を揃えてきた。それでも、この最初の一枚を超えるものを、僕は今も撮ることが出来ていない。貴子の愛らしさが、とても良く表現されている。何故だろう。
でも、その最初の一枚ですら、寺沢先輩が描いた貴子の肖像画には敵わないのだ。僕をこんな気持ちにさせてしまう肖像画に対して、今は嫉妬よりも感嘆の言葉しか出てこない。一体、僕の写真と何が違うのだろうか……。
貴子を見つめながらベッドに座る。そのまま寝ころび、尚も貴子を見つめた。貴子を見ていると、心が安らぐ。貴子に見つめられながら、目を瞑る。いつの間にやら、僕は寝てしまった。電気も消さずに……。
「マサル~」
階下から、母親の声が聞こえる。朝が来たようだ。僕より遅くに帰宅したはずなのに、僕より早くに起きている。元気な人だ。
「なに?」
ベッドに寝ころびながら、言葉を返した。
「朝食は、用意しているから、食べてね。それと、この週末はお盆だからお墓参りに行きますよ。予定を入れてはいけませんよ」
「分かった」
玄関の扉が開く音がした。父親と母親が、仕事に出かけていく。ベッドに寝ころびながら、墓参りの事を考えていた。高井田家の墓は、大阪の北部に位置する北摂霊園にある。墓参りには、父親の妹である西村の叔母さんも参列されるはずだ。という事は、貴子も来るだろう。その事を考えるだけで、嬉しくなってきた。記念撮影は僕の出番だ。久しぶりに堂々と貴子を撮ることが出来る。そういえば、フィルムのストックが少ないことを思い出した。今日も、伊藤カメラ店に行くことにしよう。
ベットから抜け出ると、服を着替えて、顔を洗った。テレビをつけて、食事をする。ブラウン管の中では、過日行われたダイアナ妃とチャールズ皇太子の結婚式の模様が、相も変わらず紹介されていた。ロンドンにあるセントポール大聖堂で行われた結婚式は、荘厳で浮世離れしていた。純白のウエディングドレスを身にまとったダイアナ妃の映像が繰り返し映し出される。このドレスには、一万個のパールが縫い込まれていて、長さが8メートルもあるそうだ。テレビの中では、そのドレスの素晴らしさを絶賛している。
――重くないのか?
卵焼きを頬張りながら、そんな疑問が自然と湧いてきた。それでも、ダイアナ妃の美しさは間違いない。バージンロードを歩いて行くダイアナ妃を見つめながら、貴子と比べている僕がいた。負けていない。いや、貴子の方が美しい。そんな他愛もない妄想に耽りながら、朝食が終わった。
午前中をゆっくりと過ごした僕は、伊藤カメラ店に行くことにした。靴を履き、玄関を出る。少し暑さが和らいでいた。これまで三十五度を超えていた気温の事を考えると、涼しいくらいだ。商店街にやって来る。多くの買い物客で賑わっていた。馴染のお店である、伊藤カメラ店の入り口に立つ。
「いらっしゃいませ」
店主が、僕の顔を見て嬉しそうな表情を浮かべた。僕は、このお店で一番のお客だと自負している。僕も、店主に笑顔を向けた。
「こんにちは。フィルムを買いに来ました」
頭を下げた瞬間、僕の視界に貴子の似顔絵が目に入る。そういえば、小林君たちは店主と、この似顔絵で話をしていたと言っていた。少し気になる。
「今日は、どのようなフィルムになさいますか?」
僕は、陳列されているフィルムを眺めた。
「うーん、百と四百を三十六枚撮りで三つづつ下さい」
「畏まりました」
店主が、恭しく頭を下げる。
「あの……」
僕は店主に問いかけた。
「はい、何でしょうか?」
「昨日、小林君たちと、その似顔絵で盛り上がっていましたよね?」
店主が、似顔絵を飾ってある入り口付近に視線を向ける。少し、顔が曇った。
「ええ……何か、子供たちと言い合っていましたが、何かございましたか?」
僕は、澄まして見せる。
「いえ、ただの勘違いです。そのことは解決しましたよ」
店主の表情が和らいだ。
「そうでしたか。それは良かった。何か気を悪くされたんじゃないかと、気になっていたものでして……」
そう言った後、店主が悪戯っぽい笑顔を見せる。僕に向かって、小さく手招きした。僕は、店主に顔を寄せる。
「実はね、今度、テレビの取材を受けることになったんです」
僕は、目を開く。店主を見た。
「テレビですか!」
「ええ、そこのね、似顔絵の作者を知っている男が、たまたま、店に立ち寄ったんですよ。その男と意気投合しましてね、この商店街を取材させてくれって話に発展したんですよ」
「それは、凄いですね」
店主は、テレビに取材されることになったあらましを、僕に説明してくれる。更には、このテレビ効果で商売がうなぎ上りになることも、期待を込めて熱弁した。
「それでね、小林君にお願いしたんですよ」
「何を?」
「似顔絵のモデルである西村お嬢さんを、撮影日に連れてきて欲しいって」
「えっ!」
僕は、大声を出してしまった。店主が驚いて、僕を見る。
「どうかされましたか?」
僕は、顔を曇らせる。貴子がテレビで紹介されるのは駄目だ。きっと、良くない騒動が始まるような予感がしたからだ。それこそ、今朝テレビで見たダイアナ妃の様に、僕の手の届かないところに行ってしまうのでは……。
「テレビって……貴子を引っ張り出すのは、ちょっと反対です」
「えっ! そうなんですか。テレビに出れるんですよ。彼女、別嬪さんだから、話題になると思いますよ」
「いや、だから……」
駄目だ。店主に説明しても、無駄だ。何とか、貴子をテレビに出る事をやめさせたい。そうだ、今度の墓参りで貴子に会うことが出来る。何とか、その時に説得を試みてみよう。その上で、無理だった場合の、保険を掛けることにした。僕の言動に、不安げな表情を浮かべている店主に、僕は切り出した。
「あのー、お願いがあるのですが?」
「はい、何でしょうか」
「撮影日の当日だけ、僕をこの店で雇ってもらえませんか? 別に給料は要りません。貴子が心配なだけなんです」
僕の、真剣な表情に、店主が頷いた。
「高井田さんのお願いは、断ることは出来ません。分かりました。心配されるような騒動があるとは思えませんが、当日は何があるか分かりません。私も、テレビの取材で商売どころではないでしょう。私からも、お願いします。カメラに詳しい高井田様なら、私も心強い」
僕は、ホッと胸を撫でおろす。とりあえず店主から了承を得ることが出来た。当日、貴子が収録に来ないに越したことはない。でも、来ることになってしまったら、僕が直接に貴子を守るしかない。店主から、フィルムを受け取った僕は、再度店主にお願いをして頭を下げた。店を出るとき、立ち止まり振り返る。寺沢先輩が描いた、貴子の似顔絵をジッと見つめる。目を細めた。
――この貴子の似顔絵も欲しい。
そう、思った。
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