第三夜 夜の露天風呂

 久しぶりの温泉旅行だった。

山間の渓谷に面していてせせらぎの音とトリの鳴き声が響く、小さいがとても静かな良い旅館だった。


 食事も良い。

ヤマメや鮎の川魚の焼き物に山菜の天ぷら、地元産の和牛の炮烙に陶板焼き。


 そしてうまい地酒。

なにより温泉が良い。


 大浴場は天然温泉で見晴らしの良い露天風呂がついており二十三時間入浴可能。

(夜中の十二時から一時の間は清掃時間だそうだ。)

そして午前一時で男湯と女湯が入れ替わる。

どちらも渓谷に面した清流の見える露天風呂だと言う事だ。


 夕食後も二回入浴し露天風呂を堪能したが、それで満足は出来ない。

夜中の一時を狙って女湯と切り替わった男湯の一番風呂と露天風呂を堪能してやる。


 売店で買ったワサビ漬けや鮎の甘露煮は次々と酒のつまみになっていった。


 …ここの地酒は美味いなあ。

本醸造の山廃でもこれだけ旨いなら純米大吟醸はさぞかし旨いだろう。

帰りに絶対買って帰らねば。


 さてそろそろ日付も変わって暫く経った。

一番風呂の準備でもするか。


 十分前行動だ!

手拭いとバスタオル、そしてよく冷えた吟醸酒の二合ビンの上にぐい呑みを乗せる。

露天風呂で一杯は温泉場のロマンだろう。


 テレビやアニメで良くやってるが大概の旅館は入浴中の飲酒は禁止で、旅館の人にバレたら叱られるだろうが夜中なら見つからないだろうと思う。


 春先と言うものの深夜の風は冷たい。

酒で火照った体を伝うよ風は心地良い。


 右手に酒を左手にタオルを抱えて深夜の廊下を大浴場に向かう。

真っ暗な廊下は足元に設置されたLED灯のセンサーが反応して明かりが灯る。


 俺が歩く後ろに光の道が出来る様で気持ちが昂る。

鼻歌交じりに大浴場に向かう下りの石段を下りかけると、真っ暗な石段の奥から不意に女の子が現れた。


 俺は驚いてたたらを踏む。

転びかけて慌てて石段の手すりを掴んだ為に、酒ビンが落ちてしまった。


「あーあ、イケないんだ。お酒の持ち込みは禁止だよ!」

女の子は俺に上から目線でそう告げるが、俺はそれどころではない。


 慌てて拾い上げた酒ビンは、割れてはいないが何故か殆んど空っぽになっていた。

「あー、せっかくの吟醸酒が…」


 蓋を開いてビンの底に残ったわずかな酒をひっくり返して口の中に注ぎ込む。

すげー旨い。

悔し―なあ。


「おじさん、そんなことしてお風呂でお酒を飲んで死んだ人もいるんだからね! 今回はそのお酒に免じて助けた上げたんだ」

女の子の説教が始まった。


「わかったよー。もう酒は空っぽだ。呑めないから」

「本当に気を付けなよ。酔っぱらって転んだら大怪我なんだからね」

そう言いながら女の子は真っ暗な石段を登って廊下の闇の中に消えて行った。


「ちっ! せっかくの吟醸酒が…」

ぐい呑みと空ビンを丹前の懐に放り込むと、石段の手すりに摑まりながら露天風呂に向かう。


 ガチン!!

脛に硬いものが当たってよろめきかけた。


 どうにか手すりに摑まってコケるのは免れたが倒れて石段を踏み外してたら怪我をしていたなあ。


 見下ろすと”清掃中”と書かれたプレートが張ってある通行止めのバリケードが置いてあった。


「スミマセーン! 今どけますから」

石段の下が明るくなって、旅館の清掃員が上がってきた。


「清掃終わりましたのでどうぞ」

そう言うと清掃員はバリケードを畳んで石段を上がっていった。

清掃員の後ろに光の道が出来る。


 ……さっきの女の子どこから来たんだ?

酒がこぼれたにしては匂いもこぼれた後もないぞ?

あの女の子、真っ暗な石段を上がってきて真っ暗な廊下に消えて行った。

なんで人感センサーが反応しない?

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