28:北京で蝶が羽ばたくとアシスタントが爆誕する

 昔SF映画で、複雑系とかいう科学分野を題材にした作品を観たことがある。

「些細な出来事がきっかけでも、それが周囲に有形無形の影響を及ぼし、大事件に発展する」という理論を、ストーリー展開に取り入れたやつだった。


 ところで俺は最近、朱里と幼なじみだという事実が身近で知れ渡り、実は商業漫画家として活動している素性も露見して――

 あれよあれよという間に成り行きから、漫研部員の藤花笑美子と知り合った。


 このよくわからない連鎖的事象も、複雑系では当然の帰結と証明するのだろうか。

 学業成績低調な俺にとって、こうした状況はいささか理解に苦しむものがあった。

 ただいずれにしろ、日常に変化が生じはじめているのは、たしかなことに思われる。


 具体例を挙げると、藤花とは藍ヶ崎の街中で初めて会って以来、明らかに学校の中でも顔を合わせる機会が増えた。

 毎朝の登校時には、昇降口で俺を待っている。そのたびに下駄箱の物陰から姿を現し、恥ずかしそうに挨拶を寄越す。

 昼休みには、いつの間にか学食に来ていて、同じテーブルに相席する。なぜか俺の真似をして、鶏肉料理ばかり注文していた。

 放課後も朝と似たようなもので、下校前に別れの言葉を掛けてくる。

 いつも俺はSHR後、かなり早々と教室を出ているはずなのだが、それでも藤花は大抵先回りして昇降口で待っていた。色々とおかしい……。




 さらにある日、自宅へ帰宅後のこと。

 朱里が部屋にやって来て、驚きの事実を口にした。


「近頃は藤花さん、授業の合間の休憩時間にも二年一組に来ているわよね」


 俺は、液タブの上でタッチペンを動かす手を、反射的に止めた。

 ゆっくり顔を上げると、腰掛けている椅子ごと背後を振り返る。


 朱里は、半ば屈むような姿勢で、ローテーブル周辺を片付けていた。

 栄養ドリンクの空き瓶を五、六本抱えながら、眉をひそめている。


「ちょっと最近、ドリンク飲みすぎじゃないの君。あまり服用しすぎると、こういうのは絶対身体に良くないわよ」


「〆切近くて、原稿が危ないんだよ。ていうかそれより――」


 栄養ドリンクの件は適当に受け流し、その前の話に関して問いただす。


「藤花がどうしたって? うちの教室に休憩時間も来ているって、マジか」


「ええ、たしかに来ていたわよ。何度か廊下の出入り口付近で会ったもの」


 朱里は、回収した空き瓶を、いったん部屋の隅へ置いて言った。


「引き戸の物陰に隠れて、君のことを遠目に眺めていたみたいだったわ。私が廊下側から近付いて一度挨拶してみたら、驚かせちゃってちいさな悲鳴を上げていた」


 それから何か用事かとたずねてみたものの、藤花は気にしないで欲しいとだけ言って、逃げるように自分の教室へ戻っていったという。


 ――国内ツアー中のアイドルを追い掛けるファン的なものだと考えて頂ければ。


 そう言えば、藤花は以前にそんなことを言っていたなあ……と、思い出した。

 あの言葉が事実なら、それでちょくちょく俺のことを眺めているんだろうか。



 ちょっと当惑していたら、朱里が掃除を続けながら問い掛けてきた。


「それで、どうするつもりなの藤花さんのこと」


「いや急にどうするって、何をしろってんだよ」


「……例えば、お付き合いしてみるとか?」


「は、はあ? なんでそんな話になるんだ」


 唐突に藤花との交際を提案され、狼狽ろうばいせざるを得なかった。

 しかも朱里は、他愛ない世間話でもするような口調だった。

 床の上に散らばるゴミを、手早く拾い集めながら続ける。


「なんでって。君が描く漫画のファンを名乗る女の子が、ことある毎に遠目から君のことを眺めているんでしょう。藍ヶ崎の街中で会ったときにも、明らかに君を慕っている様子だったし。ちょっと二人で会って告白すれば、恋人になってくれるわよきっと」


「おい待てよ。まだ俺と藤花って、初めて会ったのこないだの日曜日なんだぞ」


「女の子が第一印象でとっくに好感を持ってそうな状況のくせして、何ヶ月も待ってから付き合いはじめるつもり? そんなの、ラブコメ漫画の中だけじゃないかしら」


 わりと現実的な意見をぶつけられ、口篭くちごもってしまった。

 恋愛の基本尺度がラブコメ漫画な俺としては、若干ダメージを自覚せざるを得ない。

 これぞリア充の感性だわ。まあ言うほど朱里に恋愛経験があるとも思えないが。

 仮に俺の知らないところで誰かと付き合っているとしたら、この部屋に来て掃除なんかしていないだろうし。


 ていうか世の中には案外、長期間に渡る純粋な恋愛だってあるんじゃないかと思う。

 何年も傍で過ごしているけど、身近な間柄で逆にそうとは打ち明けられないようなやつ。

 いやまたそれこそラブコメかよってツッコミ入りそうだから言わないけどな……。



 などと次に何を言うべきか迷っていたら、朱里が尚も続けた。


「いいじゃない藤花さん。可愛らしくて、君の仕事にも理解があって。共通の趣味もあるみたいだし、逆に何が不満だっていうの」


「……そうは言うが、もし実際に藤花と付き合ったら漫画家がファンに手を出したことになるだろうが。世間的にどうなんだよそれ」


「むしろ芸能人やスポーツ選手なら、自分の肩書きを利用してファンの女の子をホテルへ連れ込んだりしているものじゃないの? 漫画家だけが駄目ってことはないでしょう」


「おまえは全世界の芸能人とスポーツ選手と漫画家に土下座しろ。偏見がありすぎる」


 しれっと無茶苦茶な話を持ち出してきたので、叱責せずにいられなかった。


「そもそも根本的な問題なんだがな、いつも俺は漫画を描くので忙しいんだ。そのせいで恋人はおろか、友達でさえ作る気になれない」


 ひとつ咳払いしてみせてから、俺は提案をきっぱり退けた。


「おまえだって、知ってるだろ? 毎日引き篭もって作業していても、さっき言った通り今月は商業漫画の〆切が危ないぐらいなんだ」


「……ふうん、そう。まあ君がそれでいいなら、別に私はかまわないけど」


 朱里は、こちらを静かに見据えてから、素っ気無く言った。

 満杯になったゴミ袋の口を締め、部屋の外へ運び出す。

 ほどなく引き返してくると、両手で掃除機を抱えていた。

 コンセントをつなぎ、床の上のちりほこりを吸い取っていく。

 そうして、室内の清掃に淡々と取り組んでいた。


 ――いや何なんだよ、その微妙なリアクションは……。


 朱里のつかみどころがない反応に接し、またもや戸惑わずにいられなかった。

 差し当たり不機嫌そうじゃないみたいだが、俺にどうしろというんだ。

 深く呼気を吐き出し、かぶりを振る。無駄に悩むのは止めよう。


 俺は、作業机に向き直り、漫画原稿の作画を再開した。

 ただでさえ進捗が良くないんだし、もう作業に集中せねば――……。




 かくいうわけで、液晶タブレットに向き合い続けたわけだが。

 今月は〆切三日前になっても、商業漫画の原稿が予定の範囲まで進んでなかった。

 過去最悪に由々しき事態である。ここまで作業がはかどらないのは、初めてだと思う。


 一番の原因は、最近ネタ出しが不調なことだ。

 それで、プロットやネームにも手間取っちまうんだよな。

 あとは先月の試験で生じた作業の遅れが、まだ尾を引いているのもある。

 そのくせ休みの日に街中で藤花と会って、つい話し込んでしまった……。


 ――こりゃ本気でいかんなあ、このままじゃ今日から〆切まで寝る暇もないぞ。


 そんなことを、その日の俺は朝から学校でずっと考えて続けていた。

 今月の連載原稿は、辛うじてキャラの下描きまでひと通り終了している。

 だがペン入れは半分も進んでないし、背景作画は手付かずだ。やばすぎ。



 ところが意外なかたちで、そこへ救けの手が差し伸べられた。


「あの。もし鵜多川くんさえよければ、エミがお手伝いしましょうか……?」


 昼休みの学食で、藤花がためらいがちに申し出てきた。

 何気なく仕事の話題になった際、助力を持ち掛けられたのである。

 俺は、チキンカレーを食べる手を止め、同級生の顔を二度見した。

 テーブルの向かい側で、藤花は頬を桜色に染める。


「あの。そんなふうに見詰められると、恥ずかしいです……」


「あ、いやすまん。そんなつもりはなかったんだが、つい」


 指摘されて軽挙に気付き、あわてて目を逸らした。

 自らの迂闊うかつさを呪いながら、会話を仕切り直す。


「あー。それで、藤花が俺を手伝うっていうのは、つまり――」


「はい、作画のアシスタントをしましょうか、ということです」


 藤花は、あとを引き取って言った。


「たぶん、せんせ――じゃなくて、鵜多川くんが納得できるぐらいの背景を描いたりすることは、エミの画力じゃ無理だと思いますけど。ベタ塗りとかトーン貼りとか、ごく簡単な作業ならお助けできるかもしれない、と考えまして」


「……俺はデジタル作画なんだが、漫画原稿制作アプリは使えるのか?」


「それならひと通りは。同人誌作りでも、エミはデジタル入稿ですし」


 藤花の言葉を聞いて、少し考え込んでしまった。


 商業漫画のアシスタントは、友達同士で同人誌を作るのとはわけが違う。

 作画業務の外注扱いだからな。きちんと対価も払わなきゃいけないだろう。

 あとはそう、業務上の守秘義務に関する問題だってある。


 しかし三日後の〆切までに契約書を用意するのは、間に合いそうにない。

 となれば、ここで申し出を受け入れるのは、やや躊躇ちゅうちょしてしまう……。


 そうした事情を説明すると、藤花はちょっと間を挟んでから言った。


「あの。エミは正直、鵜多川くんからお給料を頂こうなんて考えもしてませんでした」


「え、何言ってるんだよ。こういうことはきちんとしておかなきゃダメだろ」


 なんと無償で働くつもりだった――

 そうした意思を伝えられ、俺は眉をひそめずにいられなかった。


「でも正規の仕事として関わるのは、今月は契約書の都合で無理なんですよね?」


 藤花は、引き下がることなく話を続ける。

 学食のテーブルの上へ、小柄な身を乗り出すような姿勢になった。


「でしたら今回はひとまず、単に同級生が物好きでお手伝いするということにしておいてくれませんか。エミとしては、その、憧れの漫画家さんの原稿を生で見られるっていう、それだけでも充分なご褒美ですから……」


 藤花は、なぜか「ご褒美」という言葉に妙なアクセントを置いて言った。

 左右の手のひらで、自分の頬を挟みながらうつむく。いつもすぐ赤くなる顔が、余計に真っ赤になっている。


 俺は、思わず低くうなった。

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