20:絵を描く人間の病
いきなり何を、と抗議する間もなく、シャッターが切られる。
わずかな
朱里は、スマホの画面をこちらへ向け、写真の確認をうながしてくる。
液晶の中には、
まるっきり不意打ちだったせいで、俺は酷く間抜けな面持ちだった。
「――これでよし。背景がサル山なのは、ムードがないけど妥協するわ」
朱里は、笑顔でうなずき、勝ち
「それと仕方ないから、君の要望も
ちょっと呆気に取られて、俺は「お、おう……」とだけ返事した。
急に距離を詰められたせいで、まだちょっと動揺が治まっていない。
リア充女子、カジュアルにこういうことしてくるから心臓に良くないよな。
自宅で漫画を描いてるときも、突然背後から接近して原稿のぞいたりしてくるし。
実は春海が朱里のおっぱい揉む行為とかにも、根底に似通ったノリを感じる。
「とりあえず、あとはどうぞ好きに資料用のサルでも山でも撮影すればいいわ。いずれにしろあと少しで、園内もひと
そう言うと、朱里は身体を俺の
邪魔になるのを避けるように二、三歩
そんな挙措にやや虚を衝かれたものの、俺は何かしら言葉を掛けようとした。
……だが
それから再びデジカメをサル山に向け、またしばらくシャッターを切り続けた。
サル山で撮影を済ませたら、園内南西の区画から正面ゲートへ引き返す。
大柿谷動物園での見物を終え、敷地を出る頃には少し陽が傾きはじめていた。
スマートフォンで現在時刻を確認してみる。午後四時過ぎ。
陽乃丘から来る際に要した移動時間を勘案すると、遅くても午後六時前には自宅へ着くことができるだろう。
「こんなに長いこと一緒に外を出歩いたのって、例年の初詣以外だと何年振りかしら」
街路を歩いていたら、朱里が妙に感傷的な口調で言った。
二人で並んで、JR大柿谷駅を目指している途中だった。
「実は今、ちょっと試しに思い出そうとしてみたんだけど。小学校中学年ぐらいの頃まで
「……以前に二人で出歩いたの、わりとマジであの時期が最後なのかもしれんぞ。俺って小学三、四年生辺りで本格的にオタク化して、絵を描くようになったから」
微妙に考え込んだものの、俺もほぼ同じ結論に達した。
趣味が高じてあれ以来、俺はどんどんインドアな人間になったからな。
しかも丁度、年齢的にも異性を意識しはじめた時期だったように思う。
「お隣の朱里ちゃん」から遊びに誘われても、何となく気恥ずかしくて、素直に応じないことが増えたんだよな。
そのため家が隣同士ではあるが、互いに幾分距離ができた頃でもあった。
そうして親交が
朱里がうちの親に依頼されて、俺の部屋へ踏み込んでくるようになった結果である。
もうその頃には、朱里は立派なリア充で、俺とは異なる世界の住人だった。
「あ、あはは……。まさか本当にそこまでの引き篭もりと化していたとはね」
過去を
明らかに「もはや笑うしかない」と言いたげな反応だった。
だが軽く咳払いすると、仕切り直すように問い掛けてくる。
「えーっと。じゃあ六、七年振りかな……? とにかく久々に二人で外出して、動物園で半日遊んでみた感想はどうだったのかしら」
「うーん。まあ、そうだな……」
俺は、のんびり街路を歩きながら、暗くなりはじめた空を仰ぐ。
それから今日一日過ごして感じたことを、ありのまま述べた。
「思ったより楽しかったと言えば、楽しかったな。作画資料も確保できたし」
「……何それ、
朱里は、わずかに眉根を寄せて、問いを重ねる。
明快な回答が得られず、わずらわしく感じているようだ。
俺は、口の端に苦笑を刻み、溜め息混じりに返事した。
「物足りないってことはないが、長時間遊んでいて不安になった」
直後に一瞬、沈黙が生まれた。
また少し間を挟んで、朱里が「……不安?」と
困惑気味の口調から、言葉の意味を
俺は、街路の前方へ視線を戻すと、故意に軽い調子で話を続けた。
「だって今日、まるっきり漫画描いてないからさ。――原稿用紙か液タブの前で何かしら絵を描いていないと、気持ちが落ち着かなくて仕方ないんだよ俺は。きっとこれ、ある種の病気みたいなものだとは思うんだけどな」
――そう、俺はずっと創作の病に心を侵されている。
漫画やイラストを描いていないと、不安でそわそわしてしょうがない。
いつも朱里は学校の定期考査前、勉強してなくて不安じゃないのか、と訊いてくる。
俺にとっての「漫画を描かないことによって生じる不安」というのは、たぶん平均的な高校生が試験前に勉強していない場合のそれと、ほぼ同じようなものだと思う。
ペンを一日握っていないと画力が下がったように感じたり、SNSで自分以外の絵描きがハイレベルな漫画やイラストを投稿していると焦りを覚えたりする。
趣味と割り切って創作活動したり、相当な売れっ子絵師になったりすれば、もっと余裕を持って絵を描けるのかもしれないが――
今のところ、そういう心理には至ったことはないんだよな。
しかも学校の試験と違って、期間が過ぎればひと息付ける性質のものじゃない。
「え、じゃあ孔市って、何かそういう――ええと、強迫観念みたいなもの? そんな心理に取りつかれながら、常に漫画を描き続けているの……?」
朱里は、
信じられない、と言いたげにかぶりを振る。
「びっくりした……。君って、いつも楽しく好きなことしてると思ってたから……」
「いや、たしかに漫画を描くのは好きだし、楽しいぞ。でもそれだけじゃないって話だ」
俺は、誤解を
「例えばスポーツ選手だって、最初は面白くてはじめた競技だったとしても、本気で結果を出そうとしたら毎日トレーニングするだろ? そこにはおそらく、仮に一日サボったら『パフォーマンスが落ちる』とか『他の選手に後れを取る』って意識があると思うんだ。いつも俺はそれに近いものを感じてる、ってことだな」
やがて
横断歩道の前で立ち止まって、そのまま歩行者信号が青に変わるのを待つ。
そのとき、朱里がおずおずと謝罪の言葉を口にした。
「あの。今日は無理に遊びに誘って、ごめん」
「何を今更
奇妙なおかしさを感じて、ツッコミながら少し吹き出しそうになった。
朱里のやつ、本当に無駄に真面目で、余計な気遣いばかりしてくるな。
「いましがたも言ったけど、今日はちゃんと楽しかったぞ。絵が描けないと落ち着かないのはたしかだが、わりと漫画を描く上でいい取材になった部分もある」
「……そう。だったら、いいんだけど」
朱里は、小声で返事すると、幾分安堵したみたいだった。
目の前の車道で自動車の流れが止まって、信号の色が青になる。
俺と朱里は、そろって横断歩道を渡り、大柿谷駅に到着した。
スマホ決済で改札を潜って、藍ヶ崎方面行きのホームに立つ。
「あのね孔市。君は私に動物園まで連れてこられて、迷惑だったかもしれないけど――」
電車を待っているとき、朱里がすぐ
「私は君と一緒にここへ来られて、本当に楽しかったから」
その口調はいかにも優等生らしく、殊勝だった。
俺は「そうか」とだけ言って、もう同じ話題を続けまいとした。
朱里はうちの母親に頼まれ、引き篭もっている幼なじみを外へ連れ出しただけだ。
にもかかわらず「今日一日が互いにとって有意義なものであったか」に関し、気に病む必要なんかない。そんなことを気にしなきゃいけないのは、俺や朱里とは異なる関係性にある者同士のはずだ……。
ほどなく、電車がホームへ滑り込んできた。
二人で乗り込み、藍ヶ崎まで車内で揺られる。
その後は余計な言葉を交わすことなく、夜になる前に帰宅した。
こうして、動物園で過ごした長い一日が終わりを告げた。
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