17:大柿谷動物園へようこそ

 かくして、その週の土曜日。

 休みの日にもかかわらず、俺は不本意にも午前九時前に起床した。


 漫画の作画作業は、その日の明け方近くに切り上げた。

 なので一応、睡眠時間は五時間程度確保している。

 とはいえやはり少し眠い。


 返す返すも朱里に脅されて、動物園へ行くことになってしまったのが恨めしい。

 そんな予定さえなければ、もっと原稿も捗ったし、昼まで眠っていられたのに……。


 などと愚痴は尽きないものの、今更何を言っても仕方ない。



 クローゼットを開けて、外出用の衣服を取り出す。

 小ざっぱりとしたシャツとボトムスは、宅配便で一昨日届いたものだ。

 そう。あれは動物園に出掛ける予定が決まったその日のこと――


「外出時に着ていく服がない」


 俺が事実を打ち明けたら、朱里は勝手にネットショップで注文しやがった。

 最近はスマホ向けの便利な通販アプリがあって、気になった衣服を何着かまとめて取り寄せられるという。品物が届いたら試着して、欲しいものだけ改めて購入する仕組みだ。買う気になれなかった服は、あとから返送すればいいらしい。

 尚、代金は朱里のスマホに電子マネーを送金し、それで払うことになった。


 ええい、外出着がないと言えば、動物園へ行かなくても済むかと思ったのになあ……。

 発達しすぎた情報化社会は、必ずしも引き篭もりに優しいとは限らないようだ。



 気乗りはしないが着替えを済ませ、自室を出て一階へ下りた。

 洗面所で身形を整えてから、リビングに顔を出す。


 室内では父親がソファに腰掛け、新聞を広げていた。おはようと挨拶したら、こちらを振り返って物珍しそうな目を向けてくる。


「おう、今朝は早いな孔市。平日と勘違いしたんじゃないのか?」


「うふふ。今日はお隣の朱里ちゃんと、デートみたいなのよ」


 キッチンに立っていた母親が、そこへ口を挟んできた。

 外出することは特に話していないはずなのに、いつの間にか情報が伝わっている。隣家の幼なじみと母親のネットワークは、つくづく危険だ。

 おまけに俺が朱里と出掛ける意義を、誤解している節があった。


 ここは無用の勘違いを、強く否定しておかねばなるまい。


「別にあいつと外出するからって、デートってわけじゃねぇよ」


「やだもう、この子ったら。女の子と一緒に出歩くならデートでしょデート」


 注意されても、母親は一切聞く耳など持ち合わせていない様子だった。

 それどころか俺の指摘を、照れ隠しか何かと思い込んでいるみたいだ。

 かてて加えて、そこへ父親も便乗してきた。


「ほほう、なるほど孔市は朱里ちゃんとデートなのか。いやいや早起きしただけでも相当珍しいと思ったが、まさかそういう話だったとは」


「本当にねー。ときどき朱里ちゃんに『そのうち機会があれば、うちの子を遊びに連れていってくれない?』って頼んでおいて、正解だったわー」


 なぜか母親が感激の面持ちで言うと、父親も深くうなずく。


「うむ……長かったな……。まったくフラグを立てるのに親の手をわずらわせおって」


「いいこと孔市。漫画ばかり描いてないで、朱里ちゃんのことを大切にするのよ。あんな可愛くて気が利く子、そうそういないんだから」


 …………。


 何言ってんだこの両親。

 いつも共働きで家を空けてるくせして、たまに休日の朝に顔を合わせてみたらこれである。


 まあとりあえず、会話するだけ無駄っぽいのはわかった。



 俺は、何も言わずにキッチンへ入り、朝食の準備に取り掛かる。

 トーストを焼いてヨーグルトを器に盛り、コップには野菜ジュースを注いだ。

 母親が作った目玉焼きを譲り受けたら、ダイニングテーブルに皿を並べる。


 食べ終える頃には、午後九時五〇分を過ぎていた。

 いったん二階の自室に引き返し、肩掛け鞄の中身を検めておく。


 そのとき、一階でチャイムの音が鳴った。

 玄関ドアを開けて出ると、朱里が家の前に立っていた。

 本日は平時よりめかし込んで、ブラウスの上から緩いシルエットのアウターを羽織り、花柄のフレアスカートを穿いている。両脚は黒いタイツに包まれていた。

 いかにもガーリーで、清楚なお嬢さんといった装いだ。


「いつもの君なら寝ていてもおかしくない時間だけど、きちんと起きていたみたいね」


 朱里は、こちらを覗き込むようにして言った。


「それに私が選んであげた服も、それなりに似合っているじゃないの。悪くないわよ」


「うるせー。散々こっちを振り回しておいて、いけしゃあしゃあとよく言うぜ」


 いきなり調子のいい言葉を掛けられ、思わずイラッとしてしまった。

 ちなみに朱里の方から迎えに来たのは、事前に申し合わせた通りだ。

 そうしないと「当日になっても引き篭もって、外出しようとしないかもしれないから」だという。ちなみに約束の時刻は午前一〇時だったはずだが、一〇分近く早くやって来る辺りも、いかにも優等生らしい。


「今更あれこれ不平を並べたって、はじまらないわよ」


 朱里は、悪びれる様子もなく微笑む。


「さあ、とりあえず出発しましょう。正午前には大柿谷に着きたいし」


 色々言いたいことはあるものの、ここはうながされるまま家を出ることにした。

 ぐずぐずしていると、うちの両親がリビングから出てきて、余計ややこしいことになるかもしれないと思ったからだ。




 そそくさと自宅前から離れ、住宅街を抜けて国道沿いへ出た。

 陽乃丘三条で地下鉄に乗車し、藍ヶ崎駅からは電車に乗り換える。

 JR大柿谷駅に到着したのは、午前一一時頃だった。予定通りだ。


 駅前のロータリーから星澄方面へ抜けると、にわかに街路を歩く人の数が増える。

 家族連れが目立つところからして、俺たちと同じく動物園に向かっているのだろう。

 そのあとに倣うように目的地を目指し、のんびりと道なりに進んでいく。


 やがて前方に「大柿谷動物園」という丸文字の看板が見えてきた。

 その下にある動物園の正面ゲートを、来園客が次々と潜っている。



「今になって思い出したけど」


 朱里は、正面ゲートの看板を見上げて言った。


「ここの動物園って、たしか小学生の頃に学校行事でも来たわよね」


「年一回の写生会だろ? 大柿谷動物園は小学一年か二年だったな」


 記憶を手繰って訊いてみると、すぐにそれだと同意が得られた。


「そうそう、他に雨柳うりゅう神社や鐘羽自然公園にも行ったじゃない……」


 俺と朱里が通っていた陽乃丘小学校では毎年、図画工作の校外授業が催されていた。

「写生会」という名目で、藍ヶ崎市内の各所へ出向き、児童に水彩画を描かせるのだ。

 たしかに幼なじみ同士でここを訪れたのは、あれ以来かもしれない。



 二人で順に正面ゲートまで歩み寄り、係員に例の招待券を提示する。

 半券を受け取って先に進めば、そこはもう大柿谷動物園の敷地内だ。

 円形の大きな広場に出たところで、いったん立ち止まった。その中央には掲示板が設置されていて、園内の地図が描かれている。


「――さて、ひとまず無事に入園できたわね」


 朱里は、掲示板を眺めながら言った。

 地図には、動物の飼育されている区画をはじめ、園内の各種施設が紹介されている。


「それじゃ、どこから二人で見て回ろっか?」


「いやまあ、どこからって言ってもなあ……」


 幼なじみの隣へ進み出て、俺も掲示板の地図を検めた。

 現在地は、大柿谷動物園の出入り口付近に位置する広場。ここは正面ゲートのすぐ近くで、園内の敷地でも南端に当たるらしい。


 地図に従うと、動物園はざっくり四つの区画に分かれているようだった。北東、北西、南東、南西の各エリアだ。この広場からは、東西と北へ舗装路が伸びている。

 現在時刻をスマホでたしかめると、午前一一時二三分だった。


「差し当たり東側の道を進んで、南東の区画から見て回ろうぜ」


 俺は、ちょっと考えてから提案した。


 園内で飼育されている動物すべてを見て回るなら、最初に南東か南西の区画を巡るのが効率的だろう。ただもうすぐ正午だし、途中で飲食可能な場所に寄りたい。

 カフェテリアがあるのは、園内北東の区画だ。然らば、南東のエリアで飼育されている動物を見物したあと、そこから北へ移動すれば都合がいい。



「なるほど、いい段取りね。――じゃあ、まずはこっちへ行きましょう」


 巡回経路を説明すると、朱里は賛意を示して歩き出した。

 俺もそれを追って、あとに続く。


「あ、早速ゾウの飼育されている囲いが見えるわよ」


 三〇メートルも歩かないうちに、朱里が弾むような声で言った。

 舗装路の左側を見れば、灰色の大型動物が三、四頭ばかり群れている。

 どの個体も非常に大人しく、のっしのっしと動作が重い。人間の耳には「ぱおーん」と聞こえるはずの鳴き声も、今は発する気配が感じられなかった。


 飼育場所は、来園客が通行する舗装路から、柵や堀で三重に隔てられている。

 一番手前の柵には、数人の子供が身を乗り出すように寄り掛かっていた。

 皆、食い入るようにゾウの姿を見詰め、興奮しているのがわかる。


 朱里は、その有様に目を細め、立ち止まって微笑した。


「こうして無邪気な子供を見ると、こっちまで嬉しくなってきちゃうわね」


「まあ動物というのは、老若男女問わず好まれる鉄板コンテンツだからな」


 俺も隣に並んで佇み、柵越しにゾウを眺める。


 そう、サブカルの世界でも動物を題材にしたものは強い。

 古くは特撮戦隊ヒーローのモチーフにも取り入れられたし、最近は競走馬を擬人化した美少女作品も人気だ。あと女性オタクにはワンコ系イケメンキャラ好きな人多いよね、まあ別にあれは動物そのものを模したわけじゃなく、犬っぽい性格だってだけの話だが……。

 とか何とか考えていたら、朱里が急に半眼になって俺の顔を見ていた。


「コンテンツってねぇ……。何だか君がそう言うと、純粋な動物の愛らしさまで娯楽産業の資源みたいに聞こえて辟易しそうになるわ」


「創作物における良質の素材であることは事実だろ。動物特有の愛嬌が特殊な才能を持つ人間の性癖と結合して、ネコ耳やイヌ耳が生まれたのだ」


「……本当に人間と来たら、業が深すぎるわね。どうしてこんなにけがれて残念な生き物が文明を築いてしまったのかしら」


「欲望は進化の原動力だからな。漫画も『絵が上手く描けないよぉ~(泣)』って言って小難しいデッサン教本読んでるやつより、案外本能のおもむくまま女の子のエロい絵を描いてへらへらしているやつの方がさっさと上達したりするから、そういうもんだ」


 尚、おまえも穢れて残念な生き物の一員なのは忘れないように――

 と補足してから、俺は肩掛け鞄の中へ手を突っ込む。


 そうして、あらかじめ用意してきたデジタルカメラを取り出した。

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