放火犯の娘は無実を訴える

 リジオの治癒魔法により、少女の心はゆっくりと快方へと向かっている。

 行列の中に割って入った彼女は、あのとき多くの力をほぼ、使い果たしていた。


 体は健康になっても心はなかなか元には戻らない。

 少女が話をできるようになるまで数日を要した。


 その間、ルルーシェは献身的に少女に尽くし、介抱する。

 メイドの優しさは、少女の心にすこしだけの安息を与えていた。


 ◇


 暗い微睡の中にいた。

 あとほんの少しで光を掴めると手を伸ばしたらそれはあっという間に掻き消えてしまって。


「あっ!」


 そう声を上げたら、世界を崩壊した。

 泥沼の中心で支えを失うようにして足元が崩れていく。


「待って! そんな……違うの、お父さんは悪くないの! 誰か……」


 大声で叫ぶ。

 泥の中から何本もの手がこちらにやってきて、自分を引きずり込もうとした。

 体の各部を無遠慮にそれでいて獲物をとらえるように、手は恐ろしいぐらいの力強さで沼の底に引き込もうとするのだ。


 掴まれた所はとても痛く赤く腫れ上がってまるで炎にでも焼かれたかのように毒々しい色を見せていた。

 体が熱い。

 あの夜のようにむんむんとした熱気と、吸い込んだだけで肺が焼かれそうになる熱波が、どこからともなく押し寄せてくる。

 それはもちろん、沼を干上がらせたりしないで、的確に一人の哀れな存在を焼き尽くそうとする。


 目を開けていられなくなり、口を閉じて鼻まで抑えても、肌は痛くてその戒めから逃れることがない。


 誰か助けて!


 そう叫びたくても声を上げることを許されない。

 やがてどぷんっと沼底に引きずり込まれたら、そこには灼熱の光景が待っていた。


 あの夜の記憶だ。

 少女はそう理解する。


 見慣れた倉庫街。

 燃え盛る建物と断続的に上がる火柱と、爆発の音。

 そして、それに伴う衝撃。


 逃げ惑う人々をその波が遅い、少女も巻きこまれて身体を強くどこかにぶつけて気を失った。

 その記憶が何度も何度も、夢の中で再現される。

 あの日見た光景はどんなに頭を振り払っても過ぎ去ることはなくて。

 燃え盛る倉庫とどこから上がったか分からない炎を消そうとして、父親は懸命にそれと戦っていた。


 家から近い場所にあった倉庫が燃え上がるのを確認するのは簡単なことで。

 しかもついさっき店から戻ったばかりの父親にしてみれば、誰かが火をつけない限り、あそこが燃えあがることが信じられないようで。


「なぜだ! 中にはまだ調合していない魔石しか入ってないんだぞ!」


 その光景を見てどうしようもないと悟った父親が悲痛に叫ぶ。

 自分の管理が甘かったのか。


 それとも燃えるはずのない魔石が燃えたことを誰かの責任すればいいのか。

 父親はそんなことをなんどかぼやき、このままではいけないとふと顔を上げる。


「いいか、ライシャ。俺はあの火を消しに行く。このままでは炎が燃え広がってしまう。お前は逃げなさい。広場まで逃れることができたらどうにかなるはずだ。周りの人達に知らせて、みんなと一緒に逃げなさい!」

「そんな、父さんは? 危険だよ!」

「いいから早くしろ! 俺はここで逃げるわけにはいかないんだ」


 力強く時間がないと半ば乱暴に引きずられて、少女は家から出された。

 周りの人達に知らせるまでもなく、時間はまだ夜の帳が降りてそんなに経っていない頃だったから。

 誰もが夕食の支度をして、もしくはテーブルでそれを囲んでワイワイと賑わい始めた、そんな頃。


 だから近所のおじさんやおばさん達が家から飛び出てきて、

「おい! すまないが娘を頼む! 俺の倉庫が燃えているんだ、俺はあっちに行かなきゃならん」

「正気か、フリオ! 死にに行くようなもんだぞ! あそこは倉庫街だ……」

「分かってる……」


 なにがどう分かっているのか、少女には理解が及ばない。

 近所の人々はみな、父親と同じ商人ばかりで。

 彼らはそこに何が詰まっているかをよく理解していた。 


 鉱石ランプの動力源となるもの。

 加工された魔晶石だ。


「俺たちも行きたいが、もう手遅れだ……。一度燃えあがるとあれは治まらん。こうならないように気を付けていたのに」

「すまない……」

「ギルドは何をしていたんだ! 管理を任せていたのに……なんてことだ!」


 商人仲間たちは口々に悲しそうに叫び、しかし、フリオを責めることはない。 

 倉庫の管理は彼らが言ったように商人ギルドがやっていて、そこを間借りして商品の原材料を置いているフリオですらも、許可なしには入れない場所だからだ。


 入るにも管理官が必ず付いて回るし、数を数えるくらいのことしかできない。

 合鍵すらも与えられていないのだから。

 誰もその責任をフリオに求めることはなかった。


「燃えるはずのないものが燃えてしまった。消せる見込み何てないが、俺が逃げるわけにはいかない。娘を頼む」


 責任者として。 

 その倉庫を借りている借主として。

 商会の看板を預かる者として。


 そこから逃げるわけにはいかなかった。


「……わかった。気を付けろよ?」

「父さん、嫌だ! 待って」


 娘のあげた頼みは聞き入れられることはない。

 フリオはその頬を愛おしそうに撫でると、ゆっくりと首を振る。


「娘を、頼む」

「父さん!」

「行っちゃだめだ! 早く避難しないと、魔石の倉庫まで火が広まったらえらいことになる」


 ぐいっと引き寄せられ、抱き上げられて隣人に救われた少女は、熱気が押し寄せて来たその場で父親の背中を見送った。


 ドン。ドドンっと腹の底に響く重い音に伴われて、視界の隅に幾本もの火柱が立ち昇る。

 天を焦がす勢いで登ったそれに気づいたとき、自分の身体に誰かが覆いかぶさってきたのを覚えている。 


 隣のおじさんが咄嗟に庇ってくれたのだ。

 そして、理不尽なほどに強い力が後方から身体を叩きつけた。

 不思議なことに自分の身体が木の葉のように宙を舞う光景が脳裏に浮かぶ。

 やがて言いようのない痛みが全身を襲い……少女は爆風によってどこかに叩きつけられる。


 暗転、暗転。


 鼻の奥から鉛のようにねっとりとして、厚みのある痛みが脳を襲う。

 目を開けることができなくて、全身のこわばりが瞬間、力を感じなくなる。

 途端、これまでに味わったことのない激痛が全身を襲った。


 意識が薄くなる。

 ふっと、脳と体を繋いでいた道が途切れるのを感じる。

 気を失う前に見たその光景のなかで、自宅に掲げられていた看板がはるか天を舞っているのが見えた。


 リグスビー商会。

 そこにはそう書かれていた。


「――っ!」


 そんな夢を見た。

 少女、ライシャは大きく息を吸い込み、生きていることを確認する。

 シーツの感触と柔らかいマットレスの弾性が跳ね返ってくる。 


 目を大きく見開き、瞳孔が途端、収縮して風景を映し出す。

 そこにあるのは見慣れない天井で。

 だが、ここ何日か目を覚ます度に向かえてくれた光景で。


「大丈夫?」


 耳慣れた声が隣でして、仰向けのまま視線だけでその方向を見ると、そこにも見知らぬ……というには数回以上は目にした顔があった。


 ルルーシェだ。

 確かそう名乗っていた。

 ライシャはああ、ここは安全な場所だ、と無意識のうちに心に安堵を覚えた。


 本当に安全かどうかは分からないけれど、そう告げられて一人ではまともに動くこともできない身では、そう信じるしかなかった。


「水でも飲みますか? うなされていたから、心配していたの」

「……」


 ライシャはメイド服の獣人を一瞥し、そのまま足元の壁に目を移す。

 窓の外は明るくまだ太陽があることを教えていた。

 壁にある時計は昼の三時を指し示している。

 少し過ぎたところだった。

 ……また寝ていたんだ。

 そう理解する。


 前に目を覚ました時は、朝方の五時くらいだった。

 目覚めるたびにルルーシェは側にいてくれて、優しく介抱してくれた。

 メイドの優しさを覚えるたびに、記憶に刻むように時間を確認するのはライシャの癖になっていた。


 あれから何日経過したのだろう。

 火災の夜からもう一月近くは経っていると思われた。

 父親が武警に捕まったと聞いてからも同じくらいの時間が経過している。

 助けて欲しい。


 その一言を誰に言うべきか、ライシャはいつも迷っていた。

 ようやく得たチャンスをあの男に……ああ、でも。自分はあのとき救われたのだと、思い返す。

 姫巫女様が預ける、と直接言い、彼の庇護下に入ったのだとも。


「……ロディマスさんは?」

「え?」

「話が……したい、の」


 水差しでライシャに水を与えようとしていたルルーシェの獣耳が驚いたように跳ね上がる。

 ピンッと立ったそれを見て、ああ、中の毛は白なんだ。とライシャはつい思っていた。


「呼んでくるわ! 待っててね!」


 ルルーシェは頼みを聞いてくれた。

 あわただしく席を立ち、扉の向こうに消えていくその背中がありがたかった。


 話をしよう。

 父親を救うために。

 ライシャがそう心に思った時。


 耳にしたくもないがなり声とともに、数名の男たちが向こうの部屋に押し入ってきて「ロディマスはどこだ!」、と叫んでいるのが聞こえてきた。

 

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