14

   





「今年は、ボーロ・レイにしようか」


 …ボーロ・レイ?


 どことなくぼやけた、灰色の空間。


 薄暗い電灯だけが灯る、寂れたリビングの一室。


「何それ?」


「ケーキだよ、ポルトガルのクリスマスケーキ」


 座り慣れたしなやかなソファ。心地よくはないが、悪くもない。


 薄白く発光しているテレビ画面を正面に、いつからか、二人並んで腰掛けている。


「クリスマスケーキ…?」直季はまるで男の言うことがわからなかった。「何?何の話…?」


 生白い顔をテレビ画面に向けたまま、男は答えた。


「今年の誕生日だよ。毎年迷うんだよ。何を作ろうか……」


「買ってくればいいじゃん。わざわざ材料揃えて作るなんて、時間の無駄」


「作るの、結構楽しいよ」


「楽しい…?」


「楽しいよ」


 ……誕生日ケーキ。


 昏迷から意識を取り戻してゆくように、ようやく直季は、この人物が自らの父親であることを理解した。


 恐る恐る、顔を隣に座る男の方へと向ける。


 膝に置かれた縁の歪んだ眼鏡。白衣のようなエプロン。付着した焦げたようなシミ。体に染み付いた甘い匂い。アーモンドエッセンスの香り。ゆっくりと、視界が色付いてゆく。


 焦点が顔に差し掛かろうとする時、突然に男は立ち上がった。


 その後を、慌てて目で追いかける。


 テレビ画面から放たれる光が、いやに眩しい…。思わず直季は目の前を掌で覆った。


「…決めた……」


 光の中から声がした。


 視界が霞んで、よく見えない。まるで深い霧の中にいるようだ。


「去年はクレームアンジュだったから、今年は…」


 今年は……。


 波打つ心臓。全身の毛穴から汗が滲み出した。


 体が、激しい期待と落胆に震え出す。


「ガレット・デ・ロア に 」


 やはり。


 やはり、変わらない。


 変わらない。ずっと。終わらない。


 思い切り、鼻から空気を吸い込んでみる。変わらぬアーモンドエッセンスの香り。そこに、微かに何かが燃えているような臭いが混じった。


 ぱちぱちと、鉄板に油が弾けるような音が聞こえている。


 声を上げる間もなく、たちまち光の霧は煙となり、口や鼻の中に潜り込んだ。刺すような痛みが目に走り、堪え切れずに直季はぼろぼろと涙を溢した。


 酸素を吸い込もうとして、途端に咳込む。


 目が、鼻が、喉が、痛い。凄まじい熱気に器官を覆う粘膜が爛れ始め、焼け付くような激痛に涙が止まらない。


 怖くない。


 怖い。


 終わって欲しい。


 終わらないで。


 混然とした思考が、ばらばらに頭の中を駆け巡る。


 直季。


 名前を呼ばれたような気がした。


 煙は再び霧へと変わり、ゆっくりと甘い香りが強くなる。直季は泣きそうになりながら、焦ったようにその白いベールの中に腕を伸ばした。


 何かが、指先に触れたような気がした。しかし何も掴むことができない。堪らない焦燥感。


 ――待って。


 どうして、何も掴めないのか。


 言いようのない想いに胸が詰まる。


 あまりの苦しさに、息ができない。


 ――待って。


 心の中で、幾度も叫んできた言葉。どれだけ唱えても、色褪せることはない。


 待って。


 怖い。


 怖くない。


 終わらないで。


 行か な




 言葉が終わる前に、目の前がドロドロに崩れて行った。





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霧の街 見上げた先にあるもの @gooat

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