10







 天井のオレンジ色のライトがぼんやりと周囲を照らしている。


 かしゃかしゃかしゃ、と軽快な音が響き渡っている。


 視線を向けると、父がうれしそうに、しかしどこか疲れたように、ボウルの中で生クリームを掻き混ぜている。瞬間、妙な感慨に襲われる。ああ、この音を聞いたのはいつぶりだろう?手動の泡だて器が、アルミ製のボウルに擦れる音。


 不意に、この光景が現実ではないと気づいたのは、灰色とオレンジに染まった父と眼が合った瞬間だった。


 かしゃかしゃかしゃ。


 軽快な音が続いている。時折、固まりかけた生クリームが、泡だて器の隙間からとろりと顔を覗かせた。


 懐かしい光景。とうに過ぎ去った過去の幻影。


 しかしなぜか心は無情のままで、瞳はまるでカメラのレンズのように、無常にその光景を映している。


 壁に掛かったモノクロームのカレンダー。唯一印がつけられた日付は、僕――彼の一人息子――碑石直季の、十一歳の誕生日だった。


「――ケーキなんてさ」居間のソファに座ってテレビを見ながら、僕は憎まれ口を叩いていた。母は今、二階のベランダで洗濯物を取り込んでいるようだ。「買ってくればいいじゃん。わざわざ材料揃えて作るなんて、ほんと時間の無駄」


 誕生日。毎年この日に、家族の者がケーキを手作りするのは、この家の恒例だった。


「作るの、結構楽しいよ」父は、ずれた縁なし眼鏡――何か作業をする時だけ掛けている――をクリームで汚れた指でかけ直した。「去年はクレームアンジュだったから、今年はガレット・デ・ロアにしようと思って」


「どうでもいいよ」


 憶えきれない。クレームなんとかも、ガレットなんとかも、べつにどうだっていい。確かその前の年は、なんとかグレーゼだった。


「ガレットはね」言いながら、父は生クリームの入ったボウルの中に、柔らかい茹で豆らしきものを投入した。「古代ローマ時代の、とある習わしが起源なんだ」


 ふうん。


 かなりそっけない返事をしたが、彼はまったく気に留めていないようだった。


「そして…」透明な丸い器の中身は真っ白で、その表面には、無数の一センチ大の白い粒が散らばっていた。「この豆が表すのは、キリスト」


 白い茹で豆は、ボウルの中で泡だて器に潰され、白い生クリームと区別がつかなくなった。


「パリ地方では、アーモンドクリームを使うんだ。でもうちでは…」


「大豆クリーム?」


 ソファの上から、カウンターキッチン越しに父の顔を覗き込むと、彼は一瞬だけ視線をボウルから離し、僕の顔を見て、その赤い唇を歪めた。


 やっと豆入り生クリームが完成したのか、父は既に彼自身の手によって作られていた生のパイ生地の中に、それを流し込んだ。


「さあ。これをオーブンで焼いて、出来上がり」


 真っ赤な口を開けるオーブン。そこにパイ生地が無造作に置かれた。


 温度と時間調整を確認して、父は{小一時間ぶりに}ようやくキッチンを離れた。


「ねえ」僕はさっきの事が気になっていた。「豆がキリストって、どういうこと?」


 父がゆっくりと僕の隣に腰を下ろした。ものすごく甘い匂いがした。アーモンドエッセンスと、仄かなシナモンパウダーの香り。


「向こうでは、小さな人形を使うらしいんだけどね。ガレットを切り分けた時、その人形に当たった人間が、王さまになれるんだ」


 その眼は、いかにも興味なさそうにテレビの画面を見つめていた。


「…人形の代わりに、豆?」


「そう、豆」


 …変なの。


 ものすごく、変だ。お菓子のプロでもなんでもないくせに、この人のこの知識は、一体何なんだろう?


「じゃあ、これが焼きあがったら、始めようか」父は眼鏡を外し、白衣のようなエプロンを脱いだ。ちょうど母も階段を下りてきたようで、時刻は夕食時を指していた。「そうだ、プレゼントがあるんだ」


 プレゼント?


 こっちだよ。


 深緑のカーテンが捲れ、ベランダに続く扉が開かれる。一気に冷気が流れ込んできた。


 こっち。


 父に続いて慌てて靴をひっかけると、その足でベランダに飛び出した。


 ベランダを抜け黒い門を潜ると、見覚えのある――かつて散々この眼で見てきた――ガーデンが広がっていた。その一角に見慣れぬ花が咲いている。大きな掌が背に触れた。


あれは…。


「……で行った町に咲いていたんだ。寒い季節にも咲いていられるそうだから、一年中楽しめるよ」


 あれは……あの花は…。


「おかしな逸話が残る地域なんだ。悪魔が出る、なんて」


 違う。


 じくじくと頭痛を覚えていた。


 得体の知れぬ、倒錯する感覚。唐突に息苦しくてたまらなくなった。


「でも、どこかで、見た覚えがあるような花なんだよなあ。ああそうだ――」


 …そうだ。似てるんだ、朝顔に。


「そんなことより、父さん、僕――」


 息苦しくてたまらない。


 なぜかじんわりと眼の奥が熱くなった。押し寄せる感情の波に押し潰されそうになる。この場所が、光景が、懐かしいせいだけではない。


 ねえ、父さん。


 顔を見る。笑っている。忘れられない貌。


 咄嗟に脳裏に焼き付けようとして、途端にぐにゃりと視界が歪んだ。



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