8









 指紋で霞んだ窓ガラスを、思い出したように雨粒が弱々しく叩いた。


 真昼だというのに、急速に垂れ込めた暗雲が校舎の上部を覆っているせいで、周囲はまるで夕刻のような薄闇に包まれている。


 直射日光を避けるように設置された六十センチのキューブ水槽がひっそりと教室の隅に佇んでいるが、いまさら気にする生徒はひとりもいない。中にはハニードワーフグラミーという熱帯魚が十匹ほど泳いでいるが、彼らは水音ひとつ立てない。エアーポンプの唸るようなモーター音と、黒板を叩くチョークの音だけが、静かな教室に響いている。


 壁に掛かるデジタル時計もまた、無音のまま、湿度、温度、天候、時刻を寸分の狂いもなく刻んでいる。よく目を凝らすと、湿度と温度を示す数字の横に、哀しそうな表情をした人の顔のマークが表示されて――それが{風邪ひき注意}を意味することを、果たしてどれだけの生徒が知っているだろうか?――いて、無言の喚起をしている。


 午後一時三十分、日本史の時限。昼食休憩を済ませたこの時間帯は集中力も散漫になるのか、ペンを片手に机に伏してぐったりしている生徒の姿がちらほら窺える。


 教壇では、白髪頭におそらく仏頂面――気分を害しているのではなく、これが彼の真顔である――をした教師が、黙々と黒板に文字を連ねている。


 音が、無いな。黒板に眼をやりながら、直季はぼんやり思った。


 微かな雨音は閉じられた窓に遮られ、教室を隔てる向こう側――廊下――からは無人の静寂が占めている。時たま足音が聞こえることがあるが、それは生徒ではなく教師のもの――あくまで直季の勘であるが――に違いなく、それ以外に目立った雑音はない。


 当たり前の静寂、日々の光景。


 日常のことなのに、この時に限って妙にその静寂が気になるのには、理由があった。


 眼の前の、日本史教諭のことである。


 五時限目の開始時刻は十三時十分。この男性教諭が教室に入って来たのが、五分ほど遅れた十三時十五分。見る限り、必要以上のことは話したがらない性格で、直季はこの教師がこの教室で、授業に関する最低限の――つまりは彼の職務のための――こと以外の話を、彼の口から聞いたことはない。


 こつこつとチョークの音が響いている。ときどき止まり、またゆっくりと動き出す。授業が始まってから延々とこの動作が続いている。


 誰かが大きくため息をついた。意図してか、直季の前に座る生徒が咳払いをした。


 デジタル時計が静かに十三時四十二分を告げた。


 直季はふとペンを動かす手を止めた。


 そっと眼球だけで辺りを見渡すと、直季と同じようにこの{異変}に気づいていたのか、席の近い生徒同士で何かを耳打ちをしている姿が目に入った。クラスによっては喧噪が起こっていてもおかしくないと直季は確信していた。


 というのも、一言の挨拶もなく、教室に入るなりこの教師はじっと黒板に向き合ったまま、いまだに一度も生徒の方を見ていない。授業が始まってすでに三十分以上が経過している。この{異様な}事態に、声があがるのは恐らく時間の問題に違いなかった。つまりは、この教師は教室に入って来てまだ一言も口を利いていないのだ。


 こつ。唐突に黒板を叩く音が消えた。


 黒板は無数の文字で溢れていた。これ以上文字を連ねるためには、この細かく膨大な文字を消さなければならない。


 こつ。こん…。チョークを転がす音が聞こえる。肩をだらんと垂らし、ひどい猫背をして、日本史教諭はゆっくりと振り向いた。


 取り立てて特徴のない顔が覗いた。眼鏡は掛けておらず、骨ばった青白い貌をしている。


 確か年齢は四十代前半、妻子あり、核家族構成だったと直季は記憶していた。{だった}というのは、それがすでに過去の出来事であることを意味しているからにほかならない。


「先生」


 口をきったのは、教壇前の席に座る女子生徒だった。「…大丈夫ですか?」


 大丈夫ですか。


 おそらくは顔色が悪いのを危惧した発言に違いなかった。


 わずかに教室の空気が変わった。しかし彼女はそれ以上を発さず、教室は異様な静寂に包まれたままである。


 生気のない眼がぎょろりと動いた。


 直季は心臓を打たれたかのようだった。一瞬、その眼が合ったような気がしたのだ。


「――ああ、大丈夫」


 大丈夫。もう一度その口が言った。直季は思わずその貌を凝視していた。「大丈夫だよ、全然」


 表情が一貫している。淡々とした口調だった。


「…大丈夫?」我慢の限界といった調子で、直季の前に座る女子生徒が口を開いた。「なんか、おかしくない?大丈夫って、よくそんなこと――」


 一瞬の沈黙。


「ていうか、先生、今日トダマイコの三回忌だったんじゃないの?」


 教室が一斉にざわめき立った。


 …トダマイコ?


 疑問が浮かぶ。直季の中では初めて聞いた名前だった。


 教師の息を呑む音が聞こえるかのようだった。


「ありえなくない?その三回忌をさぼって、授業選ぶって」


 些少だった雨音が激しくなった。


 教師はまるで表情を変えなかった。


「…同感」どこかで大きなため息が聞こえた。「ていうか、なんで学校来れんの?普通の神経してねえだろ。今日、自主って聞いてたのによ」


「三黒、嘘言ってんじゃん」


 喧噪が大きくなる。


 激しく窓が鳴る。いつの間にか小雨はどしゃぶりに変わっていた。


 ざわめきの中、直季は周囲の喧騒の理由――トダマイコとは誰なのか?生徒がなぜこの教師をこんなにも責めるのか?――がわからずに、この青い貌をした教師から目が離せなかった。


 ふと隣の席に眼を移すと、友人――阪上がそれを予期していたように口を開いた。


「……戸田舞子。隣町の高校に通っていた生徒で、二年前に自殺している。当時記事にもなった。先生は今年度になってこの高校に赴任してきたけど、それまでは彼女の学校にいて、彼女のクラスの担任だったって話だ」


 小さな声だったが、直季にはしっかりと聞き取れた。


「戸田…、彼女は、どうして死んだの?」


「ありきたりだけど、いじめが原因らしい。噂じゃ、先生はそれを知っていながら、見て見ぬふりをしていた」


「…僕が……」


 意識を教壇に戻される。


 教師が何かを言いかけた。


「……僕が、今日、授業をしに来た理由は……」喉奥から絞り出すような声だった。一瞬、喧騒が静まる。「……授業が遅れて……きみたちが、それじゃ…困るだろうから…」


 不器用な人だな、と直季は直感していた。


 何かを含んだような言い方。途端に静寂が怒りの声に変わった。


「は?あたしたちのせいにするわけ。マジありえない」


「つうか、授業しに来たってさ、全然授業になってねえじゃん。黒板にただ文字書いてるだけだろ」


 荒い声が飛び交う。こんな状況の中、阪上が面倒臭そうにひとつあくびをした。


 唐突に教室のドアが開いた。


「なんだ、うるせえぞ」隣の教室で数学の授業をしていた三黒が顔を出した。「静かにしないと、先生が授業できないだろうが」


「いやいや、そもそも授業になってないんすよ」


「三黒先生、日本史の時間、自主って言ってましたよね」


「三回忌だったのに」


「おいおい、よくわかってんじゃねえか」口調に反して三黒が宥めるような仕草をした。「{たかが}、三回忌だ。仕事を優先して何が悪い」


 阪上が小さく舌打ちをしたのを直季は聞き逃さなかった。


「…たかが三回忌ですよねえ」三黒の眼が蒼白い貌をした教師を映した。「ねえ、倉持先生」


 クラモチ。


 決して忘れていたわけではない。確かにその名を知っていた筈なのに、ちゃんと発音されてはじめて、直季は今さらながら、このひどく顔色の悪い日本史教諭の存在を認識したような感慨になった。


「たかが?うわ~…冷酷」間延びしたような声が響いた。「さすが、霧の中の住人」


 明らかな三黒に対する生徒の一言。


 皮肉に違いなかった。しかしその声色には、冗談混じりの一笑を含んでいるのが直季には感じ取れた。さすがに三黒を担任にもつ生徒たちだけあって、大半が彼に対する扱いには慣れている。


 三黒の貌に視線をやる。しかし直季と眼が合うことは一度もなかった。


「続けてください、倉持先生」


 授業終了時刻を十分ほど残して、再びドアが閉じられた。


 誰にも見られることがないまま、デジタル時計の{哀しい貌}のマークが、無言で点滅した。





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