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 三黒が教師を勤めるこの学校では、校舎から歩いて十分ほどの別棟に、町立の図書館が併設されている。高校の敷地内に図書施設はなく、そのため教師や生徒は、必要があれば必然的にそこを利用することになる。


 切れかけたような蛍光灯が灯る薄暗い地下の資料庫で、直季はびっしりと埋め尽くされた本棚の中から{ガレット・デ・ロアの秘密}という本を引っ張り出した。隣には、ぼさぼさの髪をした直季の友人が、ペールグリーンのカーペットの敷かれた床にしゃがみ込み、いかにも興味がなさそうにぱらぱらと単調にページを捲っている。しかし、すぐにつまらなそうに本を閉じ、立ち上がった。


 決まった?直季が訊くと、いや、と友人は首を振った。

「……ガレット?」

「うん。フランスのお菓子だって」


 それにするのか、と訊かれ、直季は頷いた。


 階段とフロアを繋ぐ回廊から、無機質な笑い声が聞こえてきた。複数の足音が近づき、ゆっくりと去ってゆく。

「お菓子?」濃茶色の瞳が、単色のカバー表紙を一睨した。「なんで、料理本が{民俗学}のコーナーにあるんだ?」

「宗教だよ。ガレットの起源は、そこにあるらしい」


 笑い声が大きくなった。


 さくさくとカーペットを踏む音に続いて、フロアに十人ほどの女子生徒が入ってきた。楽しそうにひそひそと話す声が遠巻きに反響する。見ると、みんな直季と同じ学校の制服を着ている。直季はふと、一階のリビングフロアに、同じ制服を着た生徒たちが多数群がっているのを眼にしたことを思い出した。


「そもそも、あいつ無茶苦茶なんだよ」


 目の前の友人は苦そうに呟いた。「全国の高校探っても、こんな変な課題出すの、三黒くらいだぜ、きっと」


 期間一か月、テーマ不問の小論文作成を課した上、参考文献として最低五冊を掲げたのは三黒だった。


 無理難題なんだよ。


 学校でそう言ったのは阪上だった。


 休み時間に廊下で雑談をしている処に、タイミング悪く三黒が通り掛かった。互いに眼が合った瞬間、ふん、とこの教師は鼻で嗤ったのだ。


 難題ねえ…。一か月のうちに、たかが五冊ほどの本を読むことが難題か。そりゃすげえな。……

「どうしてネット使っちゃ駄目なんですか」

「そんな知識ばっかり当てにしてると、薄っぺらい大人になっちまうぞ」


 はあ。阪上は怠そうに返事をした。

「クソみたいな大人になるよりは、ましだと思いますけど」


 そりゃそうだ。と三黒は笑った。

「精々、おれみたいになるなよ」

「……べつに、先生のことを言ったわけじゃないです」

「ふうん。優しいねえ」


 優しいねえ。


 そう言った三黒の眼は笑っていなかった。


 薄暗い資料庫。不意に、頭上の蛍光灯がちこちこと点滅した。

「おい、それだけ借りて来いよ。もう出よう。息が詰まる」

「えっ。ああ、うん」


{ガレット}の本を一冊抱え廊下に出ると、既にエレベーターの前は賑わっていた。

「階段で行こう」


 阪上が言い、直季は素直に従った。


 メンデルスゾーンのオルゴールの音色に続き、館内アナウンスが流れ始めた。


 ……ご来館いただきまして、ありがとうございます。お知らせです。濃霧注意報が発令されました。恐縮ながら、本日は閉館時間を早めさせていただきます……。


 遠くから、やばーい、という声が聞こえてきた。

「……あのさ。阪上」

「うん」

「そういえば、ちょっと…気になることがあるんだ」


 先生のことなんだけど。


 階段を上る足が止まる。


 直季の前を行くため、表情はわからない。しかし彼にとって不意を突かれたのは確かなようだった。


「先生って…三黒?」ゆっくりと、再び歩行を進め始めた。「あいつに、何か言われた?」

「いや、そうじゃなくて…」


 窓の外が急激に暗くなった。まだ日は沈みきらないというのに、黒い雲が太陽を埋めてゆく。


「……先生って、もとからこの町の人?」


「どういう意味?この町の人間だよ、多分。いや、どうだったかな…」


「ふうん…。阪上は…先生のことが嫌いなのか?」


「…え?いや……べつに」


 そう見えるかと訊かれ、直季は生半可な返事をした。

「べつに好きじゃないし、嫌いでもない。でも、おれはあいつに、できるだけ関わりたくない」

「それは、なんで?」

「……冷たい人間だから」


 冷たい、という言葉の意味を考えていると、いつの間にか地上階に着き、促されるままに直季は持っていた本をカウンターに示した。


 図書館を出ると小雨が降っていた。隣で舌打ちが聞こえたが、直季は気にも留めなかった。

「傘持ってねえよ」

「僕持ってるよ。折りたたみだけど…」


 鞄の中から白い傘を取り出す。


 断られたが、直季は無理やり阪上の頭に半分傘を被せると、ゆっくりと霧の中を歩き出した。

「…ねえ、さっきの話だけど」少し迷って、直季は切り出した。「冷たいって、指導が厳しいってこと?」

「違う。そうじゃない」


 そうじゃないんだ。


 あまりの言い切り方に、直季は思わずその顔を凝視していた。

「一部のやつらは、あいつのことを別名で呼んでる。霧の中の住人って」

「き…霧の中の住人?」

「霧の中には悪魔が住んでる。この話はしたよな?…要は、悪魔のような人間って意味だ」


 言葉が見つからなかった。


 直季は、この友人が使う「冷たい」という言葉を、「非情な」という意味で使っていることを理解した。


 阪上は直季の眼を見ることなく――真直ぐ前を見て――早口に喋った。


「たとえば、眼の前に車に轢かれた人間――最低限の交通規則を守っていたことは前提だ――がいる。碑石なら、この被害者をどう思う?」


「えっ?ええっと…」直季は少し考えてから口を開いた。「…轢かれた人のことは、可哀想だと思うだろうし…もしその場にいたら、早く救急車を呼ばなくちゃって、焦ると思う。でも――」


「被害者を案じ、同情する。これが大半だと思う。でも、あいつは違う」阪上は直季の言葉を遮った。「あいつが{彼女}の葬式で口にしたのは、遺族の油に火を注ぐような発言だった。事故当日は深い霧が掛かっていた。そんな中を、ふらふら出歩くやつが悪い、と。被害者を悼み、加害者に非難の眼を向ける人間で溢れ返る中、あいつはそう言い切ったんだ」


 雨粒が大きくなり、ざらざらと傘を叩きつける。


 まるでスコールのような気象の変動に、直季たちは思わず近くの軒下に駆け込んだ。


 傘に付いた雨粒を払っていると、おもむろに直季はその動作を止められた。


「……おれも…碑石に聞きたいことがある」

「えっ、うん?」

「おまえ、三黒と知り合いなのか?」


 なぜそんなことを訊くのか、訊ねたかったが、言葉を呑み込んだ。

「いや…。僕は……知らない。ここに転校して来て、初めて知り合ったんだ」

 自分でも自信のない言い方だと思った。


 しかし阪上は小さく頷くと、それ以上は訊こうとしなかった。


 帰ろうと、どちらともなく言いだし、のろのろと軒下から出る。傘を差し出そうとして、今度は強く拒まれた。


 黒い雲はいまにも空全体を覆い尽くそうとしている。




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