3









 この日は朝からさらさらと小雨が降っていた。


 朝方とも夕方ともつかぬ鈍色の空の下を歩きながら、学校へ向かう。


 自宅から学校までは徒歩三十分ほどである。自転車――以前にいた町ではよく使っていたものだが――は一度だけ使用して以来、倉庫に眠ったままだ。この町に来てから気づいたことだが、自転車を使ってもスピードが出せず、時間にすると徒歩とたいして変わらないのだ。


 二年九組の教室に入ると、一人の生徒が待っていたかのように直季に話しかけた。


「碑石。昨日、無事に帰れた?」


 下ろそうとして鞄にやっていた手をふと止める。


「帰り道わかった?」


「……えっ?」


「昨夜は、霧が濃かったから」


 さらりとそう言った彼は、真顔だった。彼はふざけて言っているわけではないのだ。


(――帰り道はわかるかな?)


 頭の中で声が重なる。


 三黒の声だ。そう、彼も自分に、そう訊いたのだ。


(――霧の中を歩くのが怖いなら、送って行ってやろうか)


「昨日は…」


 言いかけ、しかし何となく、車で帰ったという言葉を呑み込んだ。無意識に、昨夜車のウインドウから眺めた景色を思い出していた。


「……いや、べつに、大丈夫だったよ」


 あからさまに眼の前の友人の貌が曇ったのを直季は見逃さなかった。


 ゆっくりと疑念が頭を擡げていた。


 濃霧が一体何だというのか?確かにいつもより密度はあったようだが、決して帰り道が解らなくなるほどのものではない。


 友人がわずかに何かを言い淀み、改めて口を開いた。


「あんまり霧が深い夜には、見失い易くなる。だから……いや、ちゃんと帰れたならいいんだ」


「見失うって…」


 咄嗟に思案したが、やはり浮かぶものは何もなかった。「そんなに複雑な道があったっけ?」


 怪訝そうな、睨めつけるような視線が、直季の顔を舐めた。


「いや……」


 一体彼は何を言い迷っているのか、なぜ迷っているのか、何一つわからなかった。「ああ、そうだな。この辺じゃ、複雑な道も多いから」


 静かなドアの開閉音とともに、生徒がばたばたと席に着き始め、喧騒が治まる。


 黒いファイルを指先から教壇に放り投げ、三黒がぐるりと教室を見渡した。


「おはよう。朝礼の前に、みんなに一つ、話したいことがある。今朝のニュースだ。隣県に住む八五歳のばあさんが昨夜、脳溢血で死亡した。医療関係者によると、発見が早ければ、彼女が助かった可能性はゼロではなかったとの見通しらしい」


 挨拶も等閑(なおざり)に、三黒は口早に喋った。「地方新聞の端に、小さく載った記事だ。よく見落とさなかったと、おれ自身を褒めてやりたくなる。そのばあさんには孫がいて、おまえたちと同じ高校生らしい。そう、この話の要はそこにある。ひょっとしたらばあさんは、この学校、クラスの誰かの家族だったかもしれないってことだ」


 しかし、いいか。三黒は素早く眼鏡を指で押し上げた。「脳溢血には、前触れがない。直前になんの兆候もない時点で、周囲がそこに気を配るってのは言うまでもなく難しい。たとえそれが医療関係者でもだ。おれが言いたいのはつまり、こういうことだ。要するに、彼女は天命を全うした。なにも複雑なことはない。単にそれだけのことだ」


 ここまで言って一息つくと、三黒は黒いファイルを開き、出席を取り始めた。


 思わず直季は周囲を見渡していた。まるで話の要領が掴めなかったからである。


 ふと、隣の生徒と眼が合う。さきほどまで話していた直季の友人である彼は、決して整えられているとは言えないぼさぼさの黒髪をひと掻きし、ぼそりと言った。


「…あいつの話は聞かなくていい。まともに聞くだけ無駄だ」


 言ったきり、彼は黙って正面に向き直った。




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