あさひは、のぼる

霜月かつろう

熱意は削られる

 ほんのあと少しすれば見えるはずの太陽をどうしてだか見たくなくて、少しだけ足早に歩みを進める。

 朝日が登る前の空が白みがかっている。冬の空気は吸い込めば痛いほど冷たく、太陽が顔を出すのもちょっぴり遅い。

 朝日を見ると気分が落ち込むようになったのはなんでだろうか。そう自分に問いかけるけれど。答えは出ないまま、足も止めることはない。


 見慣れた建物の前にたどり着くと、手袋を取ってシャッターを思いっきり上に押し上げる。錆が目立つようになってきたシャッターを人が入れるくらいの隙間を開けるにはちょっとした重労働だ。今にも雪が降ってきそうなくらい冷え込んだ空気が一気に店の中に吹き込んでいくのが分かる。


 シャッターを腰をかがめながらくぐってから、開店前にだれかが入ってこない様にシャッターをもとに戻す。そうすると空気が独特な匂いで包まれていることに気が付く。ゴムの匂いだ。

 太陽が顔を出したのか。外からの明かりが天井近くにある窓から漏れ始めた。心許ないが店内の様子を見渡せるくらいには光源にはなる。ぐるりと見渡してから、ふぅ。とため息を吐くとそれが白くなって店内に消えていった。まるで自らの憂鬱が広がっていっているように思えて、それを振り払うように作業に取り掛かるための準備を始めた。


 ずらりと500台近くの自転車が種類ごとに整然と並んでいる光景は壮観だし、その売り場を作って販売していることに覚悟も自信もそれなりにあったつもりだった。

 それなのにここに来るたびにため息がつい漏れてしまうのは、何かが自分の中から消えかけているのを自覚しているからだとそう思う。


 作業着に着替えたあと、売り場の端へ向かう。作業用に区切られたスペースにぽつんと一台だけ置いてある。その通学用の自転車の後輪のタイヤに触れて、空気が抜けていることを確認する。昨日帰る前にはちゃんとパンパンに入っていたはずの空気は一晩で漏れてしまっているようだ。


 昨日の閉店間際、お客さんもいなかったので修理道具も片付けてレジのお金の数を数えていた時のこととだ。息を切らして入ってきたのは制服姿の男子学生だった。自転車を引いていたし、タイヤを見れば空気がないことはすぐに分かったので、向こうが息を整える前にこちらから話しかけた。


『パンクですか?』


 しゃべるのも苦しそうなところ見ると閉店時間を知っていて、急いできたのだろう。こくりとうなずくだけだった。

 そこから修理に取り掛かっても時間はそれなりにかかるし、次の日の登校までに間に合えばいいと言うので一晩預かることにした。もしかしたら空気が抜けているだけかもしれなかったので帰る前に空気を入れておいたのだが、なくなっているところを見ると、やっぱりパンクしてしまっているみたいだ。


 タイヤの中に入っているチューブを取り出すためには専用のレバーを使う。片方の先端は太い釣り針のような形状をしていて、もう反対はヘラみたいな形状をしているものだ。ヘラの方をタイヤとホイールの間に突っ込む。それがいつもより硬く感じるのは寒さのせいでゴムが硬くなってしまっているからなのか、手がかじかんで力が上手く入れられないだけなのか自分では分からなかった。

 うまく隙間に入っていかないので、気合を入れなおす。ちょっとずつねじ込むように力を加える。強すぎるとタイヤ自体にダメージが行くので気を使いつつ、ゆっくりと力を込めていった。


 ポンッ。


 ゴムが反動で妙な音を店内に響かせているのを、他人事のように聞きながら、そのままテコの原理でぐぃっと差し込んだ方と反対側の釣り針形状の方をスポークと呼ばれるホイールを形成する細い鉄の棒に引っ掛ける。

 タイヤとホイールの間に異物を差し込むことで隙間が生まれる。その隙間に二本目のレバーを差し込むとそのまま徐々にスライドさせていく。ホイールに嚙み合っていたタイヤが外れていくのでそのまま一周させるとタイヤとホイールは完全に離れる。


 そうしてからタイヤの中に潜んでいるチューブを引っ張り出す。この工程でフレームからホイールを外すようなことはしない。パンク修理ぐらいならフレームとホイールの隙間でチューブの状態を見ることが出来るからだ。


 空気を入れてチューブに穴が空いているかどうか確かめるためにコンプレッサーから伸びる専用の空気入れをチューブのバルブに押しあてる。しかし、送り込まれるはずの空気が送り込まれない。


 故障のはずはないと思うのだが、とかそこまで考えて朝一番でコンプレッサーの電源を入れていないことに気がついて慌てて立ち上がるとスイッチを入れた。ひんやりと冷え切ったスイッチを触る指が少し痛くて逆恨みのようにスイッチを睨みつけていたらモーター音が店内に鳴り響いた。


 普段は賑やかな店内で気にならないその音もこれだけ静かな状況ではよく響き渡る。しばらくは空気を圧縮するために時間が必要なのでぐるりと店内を一周することにする。


 朝。開店前にわざわざ出勤したのはこの修理車を治すのももちろんだが、実はそれだけではなかった。

 店内をぐるりと見渡す。どうすればいいものか。漠然過ぎる問題が立ちふさがっているのを自覚して、またため息を吐いてしまう。それも全部、昨日突然現れたSVスーパーバイザーのせいだ。


 お店の売上が前期に比べて悪いのは当然知っているし、それに対してなんとかしなくちゃと色々画策もしていた。

 それでも目に見える結果は出せておらず、毎月のようにかさんでいく予算との剥離。

 それにしびれを切らしたSVがやってきて、ぐるりと店内を一周してから大きくため息を吐いた。それはまるで当てつけの様な大きなため息だった。

 そして何を言い始めるかと思えばダメ出しの連続だった。あれはダメ、これもダメ。そんなことばかり言われ続けては気分が沈まずにはいられない。

 家に帰っても、そのことが頭を離れてくれなくてずっとそわそわしてしまっていた。そうしたって解決策なんて生まれやしないのに忘れることなんてできなかった。


 こうやって朝の開店前から修理をしに早出をしているのだって、家に居たら悶々と頭を悩ませるだけだと思っていたのが八割くらいだ。むしろ昨日の夜に学生が急ぎの修理を持ってきたときはラッキーだと思ったくらいだ。


  結局どうしていいかわからないまま店内を一周した。作業場に戻ってきて空気が圧縮されたコンプレッサーから伸びる空気入れを再びチューブのバルブに押し当てて空気を入れる。


 タイヤという押さえつける存在がいないことで、どこまでもチューブは膨らんでいく。より膨らませたほうが空気の抜けている場所は見つけやすいが、膨らましすぎるとフレームとホイールに挟まれてチューブがうまく回転しない。


 適度なところで空気を入れる手を離すと膨らんだチューブに手をかける。タイヤよりひとまわりもふたまわりも膨らんでいるチューブはひと目で大きく穴が空いている箇所はないらしく、空気が漏れる音はしない。入れた先から空気が漏れていないのだ。


 ここからチューブを水に浸けながらゆっくりと空気が漏れているのを探す。これがまた慎重に見ていかないと見逃す可能性もある。一周して見つからなかったらもう一周だ。なにせ空気が一晩で抜けているのだ。どこかに穴はあるはずだ。

 するとある場所で気泡が一定間隔で漏れているのを見つけた。そこにマジックでチェックをつける。これを目印に修理用のパッチを貼っていく。


 穴の箇所がわかったからといって焦ってはいけないのは、生成されたままのゴムの表面はザラザラしていて、いくらゴムのりを塗りたくってもしっかりとくっつかないからだ。

 そのため、最初に専用の電動ヤスリで表面を削らなくてはならない。コケシのような形をしたそれを手に取る。スイッチを入れてコケシの頭の部分が高速で回転するのを確認すると一旦スイッチを切った。

 削るために空気を抜かなくてはならないのに気がついたからだ。しぼんでいくチューブを眺めながら教えてもらったときの言葉を思い出す。


『パンク修理は削りで7割が決まる。ビビって削りが甘ければ上手くくっつかなくてすぐに剥がれる。削りすぎればもちろん穴が空いてチューブごと交換だ。慎重に、でも大胆にそれがコツだよ』


 そう教えてくれた当時の店長は会社を辞めてしまった。今はどこかの小さな自転車屋にいるらしい。


 再びスイッチを入れると触れるか触れないかを探りながら慎重に回転している専用の電動ヤスリを近づける。触れた瞬間に抵抗が生まれそれ以上押し付けないようにゆっくりと印をつけた周辺を削っていく。


 ゴムが細かい破片となってあたりに飛び散っていく。最初の頃は顔に飛んでくるそれも気になっていたりもしたのだけれど、それに対してなんにも思わなくなったのはいつからだろう。


 バイトから社員になって売上を気にし始めたとき。


 店長にならないかと問われて、あの人みたいになれるのか自信が持てなかったとき。 


 気づいたら店長が会社から去っていたことを他人から聞かされたとき。


 売上不振でSVに改善策を出せと指示されたとき。


 毎日昇る朝日が日々が進むのを否応にでも押し付けてくると感じたとき。


 すべて違う気もするし、すべてそうである気もする。結局そういった積み重ねなのか。


 チューブについた削りかすを一通り雑巾でふき取るとゴムのりを塗っていく。丁寧にパッチよりも少し大きめに。薄く塗ったらそれをドライヤーで乾かしてく。張ってからだとうまく乾かずに剥がれの原因にもなるので、先にある程度乾かすのだ。


 パッチを張って少し押し付けてやればパンク修理は終了だ。あとはタイヤに異物がないか確認してもとの形に戻すだけだ。


 ふう。と一息ついて少しは気分転換になったような気がした。こうやって自転車を触っているときが一番集中できて心が落ち着く。ずっとこうやって修理をし続けていてもいいくらいだ。


 ガシャガシャッ。


 閉まっているシャッターを叩く音がコンプレッサーの駆動音が鳴り響いている店内に響いた。


 丁度いいところにやってきたらしい、はーい。と声をかけながらシャッターを勢いよく開ける。


「今、終わったところですよ」


 昨日とは違って落ち着いた表情の男子学生はポケットから修理代金を取り出すとありがとうございます。と丁寧に頭を下げてくれる。


「いってらっしゃい」


 通学に向かう姿を見送ると、開店時間までまだ早いのでシャッターを再び閉めた。



 しばらくするとスタッフたちが出勤してきて、普段通りにお店がオープンした。活気のある店でもないし、朝一番からやってくるのは通学や通勤中に故障した修理の依頼がほとんどだ。たまにある新車の購入は他のスタッフに任せて修理にいそしむ。


 これが日常。しかし今日はどこか集中できないでいる。それはSVから指示された売上改善案を出さなくてはならないからであり、それの期日が結構タイトというのだから不安は拭いきれるはずもない。


 しかし、今日も今日とてゆっくりと考える時間を作れる忙しさではなくて、自転車の整備と修理をしながらでは考えはまとまらない。


「あのー。忙しそうなところ申し訳ないのですが、自転車の相談してもいいですか?」


 修理に夢中になって下を向いていたのでびっくりして顔を上げる。そこにいたのは今朝の男子学生より少し年上だろうか、20そこらの男性の若者だ。いつからその年齢が若者になったのか、少しだけ頭に浮かんだことを振り払うように接客モードに切り替える。


「ええ。もちろん。案内いたしますよ。どういった自転車をご要望ですか」


 ちらりとスタッフたちの動きを見て、仕事を振れる状況じゃないのを確認して、自らが接客するしかないと珍しく気合を入れる。


 自転車なんて素人目にはどれも同じに見えるのはわかるし、こういう問い合わせはよくあるが、彼の場合は少しだけ事情が違うみたいだった。少し恥ずかしそうにうつむいてしまった。


「いや、そのー、それがですね」


 なにやら言い難い事情でもあるのだろうか、しかしここまできて言い難い事情なんて思い当たらない。単なる恥ずかしがり屋さんなのだろうか。先が詰まっているからと言って遮るのもよくないと思い、彼が何かを言うのを促す様に待ち続ける。


「日本一周に向いている自転車ってどれですか?」


 それを聞いて腑に落ちた。確かに知らない人にいきなり言うのは少し勇気がいるのかもしれない。もしかしたら笑われるかもなんて思っているのかもしれない。しかし、こちらとて自転車屋の端くれ。そう言う人は何人か見てきたし、傾向もそれなりに分かったりもする。


 それよりなにより、そういうことに興味があった時期が自分にもあったのだ。そしてそれは叶うことなく今まで来てしまってるいが、それを残念だと思うことも、もうなくなっていた。


「案内しますよ。過去に何人か案内したこともありますので」


 そう告げるとその若者の顔の緊張が和らいだ気がした。


 自転車で長距離を走るのに必要なことはいくつかあるが大事なのは自転車の耐久性だと思っている。通常ママチャリと呼ばれるものは耐久性はある。しかしそれは長年乗り続けることを想定されているのであって、短期間で長距離を走るには向いてるわけではない。

 スポーツ車と呼ばれるクロスバイクやマウンテンバイク、ロードバイクの方が軽くて扱い易い。

 その中でもそれぞれ特徴が異なる。マウンテンバイクは本来山道を走るものでこれまた長距離を走るようには想定されていない。クロスバイクはロードバイクとマウンテンバイクの中間みたいなもので、普段乗りから軽い運動までを想定されているので、扱い易いが日本一周ともなると少しだけ不安だったりする。

 というわけで基本的には走ることに特化したロードバイクを勧めるようにしてはいた。なにせ競技にも使われるくらいだ。それ専用と言ってもいい。ただ、荷物をたくさん載せるのであればそれはそれで色々と選ぶ基準もあったりするのだ。


 若者もロードバイクを求めているようだったのでその中で適切な物を順番に説明していった。

 自転車のフレームの素材やその特徴、積載量や対応するバッグ、乗るときの格好から、さらには修理に必要なものまでひととおり説明したところで、若者は大きく息を吐いた。


「あ、ありがとうございます。なんだかイメージ沸いてきて興奮してきました」


 そう真っ直ぐな瞳で自転車を見つめる若者が眩しく見え、少しだけ羨ましく思う。


 この熱意が自分に無かったのかと思い返すがそんなことはなかったような気もする。ここまで来る間に徐々に削られていってしまったような感覚だけが残っている。それが自分だけのものなのか同世代のみんなが抱えているのかは気になりはしたけれど、これまでだれかとそんなことを話したことはなかった。そんな感覚はないと言われるのが怖かったからだ。


 若者はひととおり必要な物を注文すると嬉しそうに帰っていった。今から発注しても自転車や必要なパーツが届くのはまだしばらく先の事だ。しかも自転車の組み上げを含めキャリアやバッグの取り付けなど、様々な作業を行わなくてはならない。そういった特殊な作業は心躍る。

 そう思えるだけまだ熱は自分の中に残っているのだはないか。そう思い、作業に戻る。そうして閉店してから事務仕事をしているとSVからのメールに気づき、開いてから後悔する。打開策をまとめた資料を早く送れとの催促だった。


 家に帰るのはいつのことになるのだろうかと、気が重くなりながら残っている熱が更に削られていくのを感じた。



 それからしばらくは忙しい日々が続いていた。忘れた頃に発注しておいた日本一周用の自転車が納品されたとき。忙しさに更に熱が削られているのを実感してしまって気分が落ち込む。ちょっとだけ特殊な作業を億劫に思ってしまったのだ。


 納品されたのはクロモリフレームと呼ばれる鉄製のロードバイクだ。アルミフレームより、カーボンフレームより、丈夫で長距離での走行は疲れにくいと思っている。細くてまっすぐなそのフレームは見ていてすがすがしいほどに自転車と言う存在を感じさせてくれる。


 梱包されていた段ボールや緩衝材を取り除くと、まだまだ不完全な自転車が姿を現す。基本的なパーツは付いているが整備はされて無いのだ、ハンドルのセッティングや追加で付けるパーツを含めて整備に取り掛かる。


 自転車の整備は人の命に関わるものだ。その作業は慎重に行わなければならない。それも入社したてのときに叩き込まれたことだ。それが日本一周するのであればなおさらのことだ。


 新品のゴムの匂いが辺りに漂うのは単に今整備している新車だけが原因ではないのだが、それでも納品したてで段ボールから現れた自転車を触っているときが一番強く匂う気がする。これが苦手な人もいるみたいだけれど、これが何より好きな匂いかもしれなかった。いい匂いだとか嗅いでいたい香りとも違う。胸が躍る匂いなのだ。


 ブレーキ、変速機、ペダルにホイール、空気圧。そのすべてに異常がないか確認しながら作業を進める。毎日行っている作業だ。しかしやはり、長距離を走ると分かっていると気合も自然と入る。


「それですか」


 頭上から降ってきた声に少しだけ驚き、それでもなんとなく現れる気がしていた自分に気がついて心が躍る。この自転車の相棒である若者がそこにいた。


「これですよ。どこまでも連れて行ってくれる頼もしい相棒です」


 少しだけ自慢気になってしまうのは何故だろう。買ったのは彼であり、作ったのはメーカーであり、自分は組み上げているだけだ。


「ありがとうございます」


 若者が急にお礼を言ってきて困惑する。まだ納車もしていない。それにお代はしっかりいただいているのだ。お礼を言うのはこっちの方ではないのか。


「ここに相談に来て良かったです。おかげでこんな頼もしい相棒に出会えた」


 お返しとばかり笑顔でそう返してくる若者の顔をまっすぐ見ることが出来なくなって思わず作業に戻ってしまう。ちょっとずつ胸が熱くなっていくのを感じる。


「もう少しで終わりますので、待っててください。そしたら試乗もできますから」


 その胸の熱からくる震えが若者に気付かれていないか少し不安に思いながらもそう促す。


「あの、見ていていいですか。きっと何かに役立つと思うので」

「ええ。どうぞ」


 まるで初めて自転車を買ってもらえた子どもの様に作業場の前で目を輝やかせながらこちらを見ている。それが、すこしだけこそばゆい。


「あのっ。どうして日本一周しようと思ったんですか?」


 そのくすぐったさに耐えられなくてこちらから話題を振ってしまう。珍しく接客に緊張してしまったのは、言葉に熱がこもっているからだ。


「実は言葉にするの難しいんです。それで両親を説得するのも苦労したんですけど」


 その声はその質問が来ることがわかっていたみたいな諦めが含まれているように感じた。そして何度か答えているであろう答えを自分の中で反芻するかのようにゆっくりと言葉を吐き出し始めた。


「恥ずかしいとかじゃなくて、きちんとまとまってないというか。なんとなくやらなきゃって気がしてるだけで。あっ、でも細かいのは色々あるんですよ。知らない場所を見てみたいとか、自分になにができるのだろうとか、遠くに引っ越していった友達に会いたいだとか、そういうものの積み重ねではあると思います。でも、根本はもっとなんか湧き出てくる熱なんだと思います」

「熱ですか」

「何度か周りから説得されて、諦めたこともあったんです。そのたびに熱は冷めていきました、いや削られると言ったほうがいいんですかね。自分の中で何かが小さくなるんです。でも、気がつくと元に戻ってる。それで思ったんです。やっぱ、やらなきゃ気がすまないんだなって。理屈じゃないんです。やってみたいからやる。それだけなんです」


 話を聞きながら仕上げとして自転車を布で磨いていく手に力が込められていくのが自分でもよくわかった。しっかりと走るんだぞと願いを込めながら、自分が出来なかったことを成そうとしている若者に自分の夢を託すようにゆっくりと。自転車に願いを込める。


「カッコいいですね」


 口が滑った。そんなことを真顔で言う日が来るなんて思ってもみなかった。


「カッコいいのは店長さんの方ですよ。不安で仕方なかった僕の背中をあんなに簡単に押すなんてズルすぎます」


 なんのことだろうか。身に覚えががない。


「自転車で日本一周なんて正直笑われると思ったんです。でも、そんなことはまったくなくて。むしろ何人も案内したことあるって言われて笑っちゃいました。特別なことをしようとしてるんだって自分でも思い込んでたみたいです。でも違うんですよね。おかげでやってやるんだって熱が大きくなった気がします」


 まったくそんなつもりなかったのだけど、そんなふうに捉えてくれていたのだと思うとなんだか嬉しくなる。


「あの。日本一周が終わったら、またここにきてもいいですか?」


 そんなことは聞くまでもないと思う。そもそもこっちは客商売の店だ。断る理由なんてない。


「ええ。そのときは日本一周の話を聞かせてください」


 返事を聞いた後の若者の顔は一生忘れられないのだろうと思った。そして、そんな笑顔が自分の周りには溢れていたんだと今更ながら気がつく。


 土日の慌ただしい中で感じる新車のゴムの匂いの中、で真剣な顔して新しい自分の自転車の整備が終わるのを待ってるときだったり。


 平日の朝の学生たちの油の切れたチェーンが回転する音に見てられなくて声をかけたときだったり。


 閉店間際の駆け込みで来たパンク修理のお客さんの不安そうな顔を、大丈夫ですよと安心させたときだったり。


 日本一周をする前の希望に満ちた若者の背中を押してるときだったり。


 そういうのも全部。自分の削られた熱で誰かの背中を押せてるのだとしたら。


 たとえ熱が削られ続けたとしても、ここにいる意味はあるのだと思う。


 それにちゃんと熱は戻ってきているのかもしれない。


 そして今度は自分のこの背中を押してくれている。


 そう感じて。


 だったらもうちょっと削られ続けてもいいかなと。


 そう思えて。


 明日の、朝日はしっかりと受け入れようと。


 そう決意したんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あさひは、のぼる 霜月かつろう @shimotuki_katuro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ