浮気

「ええ!」


 そう叫びながらベッドから起き上がったのは、夜の10時を回った頃だった。


「兄ちゃん?」


 俺の叫び声にびっくりしたのか、部屋に籠ってるはずの弟が扉越しに声をかけてきた。


「すまん! 何もないから!」

「そう?」

「ああ、ごめんごめん」


 そう言うと、隣の弟の部屋の扉が閉まる音が聞えた。


「はぁ、それより、これ何だよ」


 弟が来て一瞬だけ忘れてしまったけど、俺はスマホであのアカウントを見ていたんだ。

 いつもなら、素っ気なく返信はくれる蓮子だけど、今回は2日経っても来なかった。既読はついてるのに……おかしいと思って俺はあのカウントで何か更新されていないのか確認した。

 そしたら、こんな呟きを見つけてしまった。


『彼氏が浮気してる』


 と。


 俺はびっくりした。びっくりしすぎて叫んでしまった。

 浮気……? 俺が……?

 そんなことをした覚えは全くない。まず考えたのは、やっぱりこのアカウントは別人じゃないのかということ。

 だって俺は蓮子のことが大好きだし、浮気なんて少しも考えたことはない。そこは胸を張って言い切れる。


「どうして……」


 浮気してるから既読無視されてるのか……でも浮気なんてしてないし……。蓮子に訊いた方が早いのはわかるけど、そもそもなんて訊いたらいいのかわからない。


 結局、俺は何もできなくて、このモヤモヤがずっと残ったまま次の日を迎え、そして学校が終わり、コンビニのアルバイトが始まってしまった。


「いらっしゃいませ~」


 夕方の5時を過ぎたこの時間帯は少しばかり忙しい。

 それでも、俺の頭の中は、既読無視されていることと、俺がいつ浮気したのかというこの2つで回っていた。

 ピークを過ぎ、客もいなくなった店内はBGMだけが適当に流れている。


 特にやることもなく、レジの前に立っていると、同じアルバイトの白崎彩しらさきあやさんが近づいてきた。

 黒髪ショートヘアの白崎さんは、パッと見は美男子のように見えるけれど、小柄ながらに胸は大きく、白くて綺麗な肌をしてる可愛らしい女の子だ。


「誰もいないですね~」


 白崎さんは客のいない店内を軽く見回してそう言った。

 歳は俺と同じで、15歳の高校1年生だ。なのに、なぜか敬語で話しかけてくることに違和感を覚えてしまう。


「だね、さっきまで忙しかったんだけど」


 レジに立っているのは俺と白崎さん。ちなみに裏には小さな事務所があって、そこで店長代理の岡本さんという四十代くらいの男性が何やら作業をしている。

 たぶん発注してるか、シュークリームを食べてるか。俺が出勤のタイムカードを押そうと事務所に入ったら、シュークリームを頬張っていた。だからいつまで経っても痩せないんだ。


 白崎さんはおもむろにコンビニの制服を脱ぎ始めた。


「私ちょっと1番行って来ていいです?」

「あ、いいよ」


 1番に行ってくる、とはトイレに行くという意味だ。お客さんの前でトイレという言葉を使わないための隠語である。

 白崎さんはカウンターを出ると、小走りでトイレへと向かった。


 レジひとりになってしまった。

 特にやることもないので、カウンターを出て商品棚を整理することくらいしかない。

 奥に入っているプリンを前に出したり、傾いたお菓子を立てたり、地味な作業が続く。


 それから白崎さんが戻って来たタイミングで、お客さんがやって来た。

 俺はすぐにレジに戻った。


「いらっしゃいませ~」


 と挨拶をしてお客さんを見ると、学生さんだった。2人組の女子高生で、ひとりは肩までの黒髪ストレートヘアで清楚系な感じなんだけど、スカートが短いのが気になった。

 そしてもうひとりは、黒髪ショートヘアの毛先がふわりと曲がっていて、小さくて可愛らしい顔を包み込んでいる。

 というか、蓮子だ。

 隣にいるミニスカートの女の子は友達だろうか。

 一瞬、蓮子と目が合ったのだが、すぐに逸らされてしまって、何事もなかったかのように友達と話し始める姿は、ただでさえ浮気という身に覚えのないことで悩んでいる俺の気分を落ち込ませるには絶大だった。


「れんれん、これ美味しそうじゃない?」


 れんれんと呼ぶのは友達だ。ってか、蓮子がれんれんなんて呼ばれてるのを今初めて知った。

 その友達はこんぶ、梅、かつおと3種類の具が入った大きなおにぎりを蓮子に見せた。


「ジュース買いに来たんじゃないの?」

「だってお腹すいたんだもん」


 蓮子は友達に、小馬鹿にしたような顔を向けた。

 蓮子ってあんな顔もできるんだな。

 俺に対しては無愛想の一言で済むくらい表情がない。もしかして俺は友達以下なのか……。そう思うと何だか虚しくなってくる。

 そんな俺をよそに、蓮子はキャラメルラテを持って近づいて来た。

 身構える俺。既読無視されてる上に、蓮子らしきアカウントの浮気されているという呟きがあるからか、変に緊張してしまう。


 だけど、この緊張は無意味に終わる。

 真っ直ぐ俺のいるレジに向かっていた蓮子は、俺の顔をちらっと見ると、方向を変えて白崎さんのいる方のレジに行ってしまったのだ。

 思いっきりバットを振ってボールにかすりもしなかった感じの虚しさに襲われて、てっきり蓮子がくると思っていたこともあり、恥ずかしさで今すぐ事務所に籠りたかった。


「テープをお張りしますね~」


 隣から白崎さんの声が聞える。


 完全に避けられてる……。

 やっぱり怒ってる……? それとも浮気……? でもした覚えはないんだけど……。

 なんてことを考えていたら、蓮子の友達が俺のいるレジのカウンターに、シュークリームと3種類の具の入った大きなおにぎり、それから紙パックのカフェオレを置いた。

 蓮子と変わらないくらい小柄でほっそりしているのに、食後のデザートまで決め込むとは、見た目によらずよく食べる。


「袋はお付けいたしますか?」

「けっこうです」


 蓮子の友達はめちゃくちゃ投げやりな感じでそう返してきた。ってかなんか怒ってる?

 蓮子と話していた時は楽しそうだったのに、この短時間でここまで態度が豹変するのか……と呆気にとられつつも、カウンターの上に置かれた商品のバーコードを全て読み取った。


「全部で597円になります」

「これで」


 蓮子の友達はスマホに表示されたバーコードを見せてきた。電子マネーでの決済である。

 バーコードを読み取って支払いを終え、レシートを取り出す。


「レシートは要りますか?」

「それより、れんれんの彼氏でしょ?」

「え……そうだけど」


 レシートを渡そうとしていた手が止まり、俺は蓮子の友達を見つめる形で固まってしまった。

 急に何を……。というか俺が蓮子の彼氏だって知ってるってことは、蓮子がこの友達に言ったってことだよな。それかデートしているところを偶然見かけたか。

 にしても、蓮子の友達は明らかにムッとしていた。

 俺なんか気に障ることをしたか……?

 

 蓮子の友達は俺の顔を凝視すると、不満げにふ~んと鼻を鳴らした。

 その間に蓮子は会計を済ませていて、友達を置いて店を出ていた。

 それに気がついた友達はおにぎりとシュークリームを鞄にしまい、紙パックのカフェオレを手に持った。


「浮気とか最低」


 去り際に、俺にだけ聞こえるような声で吐かれた捨て台詞。

 俺は聞き間違いかと思ったが、蓮子の友達は嫌悪感の籠った視線を俺に向けた後、すぐに向き直りコンビニを出て行った。

 浮気……。だから俺はした覚えがないって! だけど何でだ……自分が怖くなってきた。自覚症状なしに蓮子以外の女の子と付き合っているというのか俺は……。

 最近、女の子と会ったことなんて……学校は男子校だし、あと1年で共学になるけど、今は男しかいないから……となると、後輩の畑部くらいだ。


 もしかして、畑部と一緒に歩いているところを蓮子が見かけたのか……? でも、あれはたまたまゲーセンで会っただけで、やましいことは何一つない。ましてや浮気なんて。


「今の人めっちゃ可愛かったと思いません?」


 白崎さんは俺に同意を求めるかのように言ってきた。俺が蓮子と付き合っているのはバイト先の人には言っていない。ってか言う必要がないし、わざわざ彼女いるアピールしても、実際は上手く行っていないのだから悲しいだけだ。


「可愛かったと思うよ」

「ああいうタイプの人ってモテますよね、髪伸ばしてみようかなぁ」


 白崎さんは女子にしては短い髪型で、額を出すように左右に掻き分けていて、その上、美男子のような顔立ちをしているからパッと見は男性と勘違いしてしまう。現に俺も初めて会った時は、可愛い男の子だと思った。けど、よく見ると胸は大きく、全体的に華奢なのがわかる。

 例え伸ばしても似合うだろうけど、白崎さんは今のままでも十分に可愛いし、モテると思う。


「今のままでもいいと思うけど」

「え、本当ですか」


 白崎さんは前髪を手櫛で少し整えながら、どこか恥ずかしそうに笑った。


「でも何でそんなに短くしてるの?」

「あ、単に邪魔だったんで。洗うのとか短い方が早くて、それに乾かしやすくて楽なんですよ」

「そういうことね」


 そんな雑談をしている内にお客さんが徐々に増えて行き、お互いにレジ前から離れなくなるほど忙しくなった。

 だけど、俺の頭の中は『浮気とか最低』という言葉がずっと反芻はんすうしていて、今すぐその誤解を訂正したい気持ちで焦りが募るばかりだった。

 

 






 

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