空洞を満たす






 得意先への報告は、終始ちくちくと差し込まれる嫌味を、どれだけ心を無にして耐えられるかという競技になった。最後にはなんとか了承を得られ、それじゃあ週明け早々に修正案をメールで送ってください、という一言で終了する。サンプルは十個持っていったが、「ディレクターに渡すぶんだけでいいんで」と、できの悪い七個を突き返され——持って行った十個も、あがってきたサンプル三十個から比較的いいものを十個選んだのだ——、それを抱えてタクシーに飛び乗った。

 本当なら帰社して置いて帰らないといけないが、今日の私にそんな余裕はなかった。大荷物で駆け込んだ閉店間際の電器屋で、発送もできますが、と心配そうに言う店員さんを制して小さな加湿器を買う。それを片手にぶら提げて、店の前に停めてもらっていたタクシーに再び乗り込んで、住所を告げた。とんだ出費だが、気にはならなかった。


 マンションのエレベーターを待つことすらもどかしい。箱の中で、鍵を取り出しパンプスのストラップを外す。わずかでも早く押し入れに到達するために。ドアを開けるなり鍵もバッグもサンプルの袋も加湿器の箱も投げ出して、転がるように押し入れに駆け寄ると、息を殺してふすまを細く開けた。その動作だけは、それ以前の動作のどれよりも丁寧で、静かだった。白い蜘蛛の糸のシーツがぼうっと浮かぶその先に、蜘蛛はひっくり返っていた。思わず息をのんだ。


「ひっくり返ってる」


 どうやってひっくり返ったのかは分からないが、背中を下にして、脚先を上にして、お腹の裏側をおもてにして。ひどく無防備で、不自然なものに思えた。この状態で何ものかに襲われようものなら、ひとたまりもないだろう。すべてを投げ出して、蜘蛛はあおむけになっていた。死んだように動かなかった。


 私は慌ただしく加湿器を箱から取り出してきては、コードを目いっぱい伸ばしてスイッチを入れる。ぬるい蒸気が薄く立ち昇って、ほんのわずか空間を潤した。押し入れが傷むかもしれないが、背に腹は代えられぬ。そして細く押し入れを開けたまま、私はそこでじっと蜘蛛の様子に見入った。蜘蛛は私がごそごそするのにも構わず、死骸のようにぴくりとも動かないでいる。コオロギが鈴の転がるような音で空気を震わせた。こうこうと明るい蛍光灯も蜘蛛の安寧に悪い気がして、明かりを落とす。腰を下ろして、膝を立て、膝の上に頬を乗せる。次第に私の目も暗闇に慣れ、青い粒子でざらつく視界に裏返った蜘蛛の脚先だけが見える。


 死んでないだろうか、本当に脱皮なんだろうか、不安になって手を伸ばしかけては、冷静なほうの私が——だいたいは死にますね——という蜘蛛屋の店主の言葉を取り出してきて、不安に怯えるほうの私の手に握らせる。下手に触って、その結果死なせてしまっては元も子もない。握りしめた手を、そっと胸のあたりに寄せた。そしてまた蜘蛛の脚を見上げる。私に圧し掛かってやさしく囲った脚の、ふさふさとした毛のことを考える。私のうなじを貫いた鋭い牙のことを考える。


 ——蜘蛛は糸を分厚く敷き詰めてベッドを作ると、ケージの壁やとっかかりを利用してあおむけに寝転がります。幼体の場合は寝転んですぐに脱皮を始めますが、成体に近い場合、半日その状態のままであることもあります。脱皮が始まると、背中から外皮が破れ、脚先に向かって外皮を押し上げるようにして脱ぎます。ちょうど、寝転んで手を使わずにズボンを脱ぐような感じです。——



 インターネットで見た飼育の手引きの文章だ。目を閉じると、まぶたの裏側の暗がりに文字が白っぽく泡みたいに浮かんでは、ぷつぷつと消えていく。


 ——蜘蛛が脱皮を終えると、脱皮殻がケージに残されます。外皮は殆どの場合、完璧な状態で残ります。初めて脱皮殻を見たときには、まるで同じ個体がもう一匹いるかのような不思議な気持ちになるはずです。——


 そうだ、抜け殻を取り上げて、やわらかいうちに広げて、壁にかざろう。次も、その次も、蜘蛛が脱皮をするたびに大切に広げて、壁にかざろう。

 びゅうと風が吹いて、私ははっと覚醒した。うとうとしていたようだ。ゆっくり立ち上がって、しびれる脚をかばいながら腕を伸ばす。指先がカーテンに触れて、めくれた向こうに青い青い夜が迫っている。隙間から青い夜のあかりが細く伸び、それはまっすぐに押し入れを指していた。窓は開いていなかった。どくどくと、耳の後ろで拍動が速まるのが聞こえた。歩くたびに床板が小さく軋む。それとは別に、ぱきぱきと、枯れ葉の砕けるような音がうっすらと聞こえてきた。ぱき、ぱき、と、それは硬い外皮がひび割れる音に聞こえた。


 息をとめて、のぞき込む。


 暗がりのなかに、ぴんと脚を伸ばした蜘蛛の姿がある。ひゅっ、と喉が鳴った。


 蜘蛛は、脚をゆっくり屈伸させながら、器用に外皮を脱ぎ進めていく。脚の付け根がほんの少し覗いている。白っぽく、うっすら半透明だ。その脚に通う血の流れまで見えるようだった。


 蜘蛛の血は白いのだ。だからその透けたからだは、真っ白だ。真っ白の糸で織ったシーツの上で、真っ黒の抜け殻を脱いでいくそのからだは、光るほどに真っ白だった。

 醜い私しか食べさせていないのに、真っ白で半透明で、赤ちゃんよりもきよらかに思えた。私の情念や嫉妬や執着が、蜘蛛のからだを通って、その白い血管や臓器に濾過されて、今、赤ちゃんよりもきよらかな存在に生まれてきたみたいだ。蜘蛛が屈伸をするたびに、外皮の砕ける小さな音が鳴る。ぽたりと足の甲に涙が落ちる。蜘蛛がまた脚を伸ばして、ほんの少し抜け殻を脱ぐ。


「がんばって」


 私は思わず、呻くように呟いた。蜘蛛はまたゆっくり、脚を折りたたむ。


 ああ、と私はまた呻く。


 まるでなにごともなかったみたいに、なにひとつ汚れてなどいなかったみたいに、こんなにきれいなものに変えてもらえるのか。


 花井という女への呪い、しおりちゃんへの嫉妬。ヒロキと過ごした十年への執着。産まなかったことへの後悔。懺悔。取返しのつかない裏切りへの憎悪。嫌悪。泣いても吐いても決して消えなかったものたち。重たくて汚くて、捨ててしまいたかったものたち。——捨ててはいけなかったかもしれないものたち。もうそれらはいっしょくたになって、白いからだの中を巡っている。ただただ美しい血になって。今すぐにでも蜘蛛にすがりつきたい気持ちを堪えて、私は顔を覆って座り込んだ。不用意に捨ててしまったものを惜しんでではなく、ただただ蜘蛛のからだが美しくて、神々しくて、うれしくて、私は顔を覆った。


 何時間そのまま眺めていたのか、気付けば私も座り込んで寝入ってしまっていたようで、次に覚醒したときにはカーテンの隙間から白い朝日が帯状に部屋を照らしていた。陽光がオレンジ色のカーテンを透かして、あんなに青かった部屋を黄色く暖めていた。

 下敷きにしていた左肩がひどく痛んだ。よぼよぼ起き上がって、押し入れをのぞき込む。そして、あっ、と声を上げた。そこには、まさしく蜘蛛がそのままの姿で転がっているみたいに、ほとんど完璧な状態の抜け殻が残されていた。脚に生えた毛もそのままだ。そっと触ってみると、紙のように軽く空虚な触り心地。とうの本人は、いまだ少し透けたままの全身を縮めて、押し入れの隅で縮こまっている。


 ——脱皮直後は、まだ体が固まっていません。動いたりすることさえ負担になります。体がしっかり固まって色が戻るまで、絶対に刺激しないようにしましょう。——


 手引書に書いてあったことも忘れて、私は手を伸ばした。

 指先が腹の先に触れる。濡れたような、はかない感触、まるで、大好きだった人の頬みたいだ。


 蜘蛛は驚き、出会ったその日と同じように、およそ目にもとまらぬ速さで脚を振り上げると、私の上半身めがけて覆いかぶさった。やわらかなからだが、ぬるくて粘度の高いスライムみたいなものに変わって、私の視界を覆う。私の視界は蜘蛛のからだの白さにつつまれる。視界を喪ったまま、手探りで私は蜘蛛を抱き返す。唇をよせる。唇のふれたところから、私と蜘蛛との間を分けている膜がほろりと砕けるのが分かる。私の核のようなものが、蜘蛛の消化液で溶かされていく。蜘蛛の白い血肉が、私の唇にすすられていく。白い血肉といっしょくたになっていく。丁寧に織られた白いシーツにくるまれて、私と蜘蛛は宙に浮く。小さく小さく、からだを丸めて、私たちはお互いを丸めあう。


 ずっとこうしたかった。こうなりたかった。赤ちゃんみたいに声を上げて泣きわめく私を、蜘蛛は無感動に抱き返す。背骨を折って丸めようとする。私は私で、ぎゅうと蜘蛛を抱きしめる。抱きしめて、口づけて、そこから蜘蛛を啜る。蜘蛛はどんどん小さくなって私の中に吸い込まれていく。奥へ奥へとしみ込んで、さみしくてしくしくと痛み続ける空洞を見つけて、すっぽりと収まる。脚をたたんで、腹を丸めて、蜘蛛はどんどん球体になっていく。球体になって、空洞にぴったりと収まる。ああんなに冷えていた空洞は今や、体じゅうのどこよりも温かい。


 ふいに懐かしい気持ちになる。大好きだった人。重ねた長い長い時間。踏みにじられて、打ち捨てられて、悲しかった、生涯許さない、許されると思わないでほしい。私が忘れるその日まで、呪われていると思って暮らして。でも、それなりには幸せになって。どうか、同じことは繰り返さないで。白っぽく濁ったぬるい水が、どうどうと空洞に満ちていく。帰ってきたのだとわかる。蜘蛛に消化されて、その体白い血肉になった私の、憎悪、後悔、呪詛が、とろりと白く、うっすら甘い水になって帰ってきたのだと分かる。私の代わりに消化してくれたの? 私は、空洞に向かって声をかける。空洞に満ちるやさしい血肉は、何も答えない。答えない代わりに、とぷんと波打って、最後の一滴が空洞を完全に満たした。


 硬い床から起き上がると、下敷きにしていた左半身がじんじんと痛んだ。頬にフローリングのあとがついてしまっている。一番しびれのひどい左腕が感覚を取り戻すまでしばしその場に座り込む。夢の中で思い切り泣いたせいか、妙にすっきりとした気分だった。リーン、リーン、とコオロギが鳴いている。


「餌、使うあてがなくなっちゃったねえ」


 あのお店にでも、返しに行こうかしら。それとも、十匹くらいだし飼っちゃおうかな。このマンション、ペット禁止だけれど、虫は、オッケーみたいだし。


「ねえ?」


 私は、押し入れの上段をのぞき込んで、わざとらしく声をかけた。そこには闇ひとつなく、ただただカレー皿が一枚、ひたひたに水を残した状態で置かれているのみである。

 蜘蛛は、私の空洞だった場所で小さく腹を震わせた。そして、鷹揚に脚を持ち上げると、お尻のあたりの毛を整えるようにすい、すい、と撫でつけた。すっかり体の固まったらしいからだは、くろぐろとした毛に惜しみなくつやを湛えている。ずいぶん小さくなった蜘蛛は、私の空洞のなかでゆったりと散歩し始めた。小さな蜘蛛の足音が、私の拍動に寄り添っている。


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体外消化 糸川まる @i_to_ka_wa_

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