活性が下がる




 その日から、蜘蛛の活性はますます下がって、声をかけても押し入れを開けても殆ど反応を返さなくなった。


 十日経ち、蜘蛛の蹴り上げた毒毛を浴びてみみず腫れだらけになった腕や脚や腹が大方治っても、蜘蛛の様子に変化はなかった。出勤前に置いていった水入れの水が減っている様子もないから、水も飲んでいない。蜘蛛はもともと、食事の回数には波があって、一番長くて十日くらいは何も食べないときはあった。けれど、水も飲まないのは初めてのことだった。


「帰りましたよ」


 毎日帰宅後に声を掛けこっそりとのぞき込んでは、水入れの水だけをそそくさと換える。蜘蛛は今日も押し入れの隅で、角っこのほこりっぽい暗がりに同化している。


「病気とか怪我とかじゃないよね?」


 ほとんど動いている様子のない相手に質問を投げかける。


「変なものばかり食べさせて、悪かったと思ってるよ……」


 憎いとか、妬ましいとか、後ろ暗いとか、そういうものばかり。考えてみれば、蜘蛛が私を啜る日は、私がどうしようもなくそういうものを持て余した夜ばかりだった。


 気休めに謝ってみたところで、蜘蛛は暗がりに化けたまま戻らない。蜘蛛が死んでしまうのではないかという恐れは、蜘蛛に食わせたいと思った焦燥や不快の汚泥をいつのまにか押しやって、空洞にいちばん重く積もりはじめていた。これが猫なら、胸に抱えて夜ごと温めることもできよう。しかし私が浅ましくもよすがにするこの生き物は、情を持たず、その代わりに背骨を砕いて丸めるための牙を持つ。腹には、触れれば赤く腫れあがる毒毛まで植わっているときた。諦めて今日もふすまを閉めた。なにしろ明日も朝が早いのだ。いつまでも蜘蛛を眺めているわけにもいかず、私は髪の毛を括っていたヘアゴムをほどき、頭皮をガリガリと掻きほぐしながら、風呂場へ向かった。


 蜘蛛がああなってから何をするにも億劫で、あらゆるものの優先順位が下がってしまった。ろくに部屋に掃除機もかけていないせいで、足のうらがざらっと埃っぽい。湯舟に湯も張らず、頭からぬるま湯を被った。ちらりと風呂場の扉にはめられたくもりガラスを眺めてみたが、今日もまた蜘蛛の姿はなかった。


 関連があるわけではもちろんないが、今まであんなに賑やかだった通知欄も、あの日から静まり返っている。積もるように並んでいた笠原ヒロキの名前も、通知を示す赤いマークも、今は一つもなかった。私の中でだけでなく、とうとうヒロキの中でも終わったのだ。さしたる感慨はない。ただやはり不愉快ではあった。私用の携帯電話を鞄に滑り込ませて、私は通勤電車の中でじっと目を閉じた。まぶたの奥にも、押し入れと同じ暗がりがあった。

 職場の最寄り駅についたあたりで、バッグの中で社用の携帯電話が短い通知を連発し始める。早めに出社した人々が、始業に先立ってメールの返信を開始したらしい。蜘蛛を案じるだけ案じたいのに、押し流されるようにいつも通りの平日が始まって、押し流されるように電車から降りる。


 夏のあいだ、いつも空を覆っていた不透明な蓋がすっかり取り払われ、底なしに透き通った秋の空が遠い太陽光を透かしている。秋の太陽は、どうにも薄っぺらでよそよそしい。

 社員証をぶらぶらさせながら自席に向かうと、一足先に着席していたしおりちゃんが、おはようございますと言って顔を上げた。足元に置かれたバッグがいつもの革のものではなく、キャンバス地のカジュアルなものに変わっていることに気づく。「おはよう。バッグ変えたの? いいね」「そうなんですよお。服がこんななんで、あんまりカッチリしたの似合わなくて」そう言ってしおりちゃんは、ほんの少し椅子を回して私に体の正面を向けると、今日のワンピースを見せた。やや厚手のシンプルな天然素材風ワンピースには、確かに本革バッグは合わない。


「なるほどねえ。私もそういうトート欲しくなっちゃった」


「軽くていいですよお」


「ボーナスの額で考えるわ」


 ちょうどそのあたりで、しおりちゃんの社用携帯電話が鳴り始め、私たちはいそいそとデスクに向き直った。葛西でえす、お世話になりますう。おっとりとしたしおりちゃんの声に被さるように、始業のチャイムが気だるげに流れ始める。


「あは、聞こえました? そうなんですよお、うちいまどきチャイム鳴るんですう」けたけたとしおりちゃんが笑う。


「葛西さん今日も早く来てたよ。引き継ぎ頑張ってるねえ」


 しおりちゃんが電話片手に席を立ったタイミングで、ふいに後ろから課長が声を掛けてきた。


「境井さんはどう? 最近何かいいことあった?」


「おはようございます。引き継ぎは順調です、おかげ様で。いいことは特にないですね。ペットの食欲がなくって心配だし」


「え! 犬飼ってたっけ? そっかあ、ペットの不調はしんどいなあ。お大事にね。うちもトイプー飼っててさ。気持ちはわかる。あ、写真見る?」


「いえ、犬ではないですが。プードルは見ます」


 ペットの調子が悪いと言う人間に、ご自慢のプードルを見せたがるデリカシーの無さはいっそ微笑ましく思うほどであるが、カメラに向かってきらきらと瞳を輝かせる茶色のトイプードルはすこぶる可愛かった。悪い人間ではないのだ。無神経なだけで。でなければ、こんなにきらきらした目で犬に見つめられることはないはずだ。課長に携帯電話を返しながら、そんなことを考える。


「犬、お大事にね」


「ええ、ありがとうございます」


 犬ではないと言ったはずだが、もはやお互いにとってどうでもいいことである。ちょうどいいタイミングで、今度は私の電話が鳴り始めて、そこでお開きとなった。しおりちゃんから引き継いだ案件の担当者だった。課長の言う通り、しおりちゃんは毎朝早く来ては、引き継ぎだの、手持ちの案件の処理だの、はたまた身の回りの片づけだのを順調に進めていた。見違えるようだった。

 いいことであるはずなのに、なぜか不愉快だった。蜘蛛に食われた空っぽの朝、あんなに誇らしくいとおしく思った後輩のそつのなさが、今は私に何かを突き付けてきているようだった。空っぽでありたい、楽でありたいと願う私と、そうじゃないしおりちゃん。

 あの日、私が彼女の産休の予定を聞いた日。ろくすっぽ整理されていない引き継ぎ書や社内処理の数々を前にいらだったのが、遠い昔にすら感じられる。思い返せば、あの日が最後に蜘蛛に食われた日だった。私はほとんど無意識に、左手首にある治りかけのみみず腫れをガリガリと掻く。手持ちぶさたに任せて掻くのが癖になってしまって、ここだけなかなか治らない。きっと色素沈着して残るのだろう。


 頭を切り替えて、業務に取り掛かる。十一時から打ち合わせが入っている。それまでに終わらせたいことが、山ほどあった。

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