ヒロキは二十時よりだいぶ前に着いていたらしい。


私が二十時ぴったりに着いたときには、ドリンクバーのグラスはたっぷり汗をかいて、テーブルを丸く濡らしていた。「久しぶり」と先に声を出したのはヒロキだった。私は何も答えず、彼とはす向かいになるよう、四人掛けのソファの通路側に腰を下ろした。私が何も答えないから、ヒロキもまた黙る。クラシック音楽をジャズアレンジした間抜けなバック・グラウンド・ミュージックがたゆたうなかで、私たちは陰鬱に向き合うかたちになった。


 店員がしずしずとお冷を置きに来て、私はドリンクバーを一つ追加で注文する。「もうすでに二つご注文いただいています」「はあ、左様ですか……」しかしそういう答えが返ってきたので、仕方なく曖昧に笑って返す。お食事がお決まりになりましたらボタンを押してお呼びくださいませ。店員はしずしずと頭を下げると、足音もなく去っていった。


「それで」


 私はヒロキの鞄のあたりを見つめながら、仕切りなおすように言った。「ネックレス、もらえる?」ヒロキはわざとらしいほど、そういえばそうだった、といった様子で鞄を手繰り寄せると、中から箱を取り出して、天面の埃を払うとこちらに向かって差し出した。私が受け取らないでいると、諦めたようにテーブルに置く。テーブルに置かれた小さな箱をたっぷり三秒眺めて、私はそれを手に取り、バッグにそっと入れた。私がごそごそしている間に、ヒロキが口を開く。


「まともに謝れないままだったから、謝りたくて。彼女のことも……」


 ヒロキはそう言いながら、そわそわと落ち着かない様子でテーブルの上の水滴を指で触ってはつなげたりしている。


「なんだ」


 私はため息をついた。


「話したい、なんていうから何かあったのかと思えば。何も言うことなんてないんじゃない。会えばなんとなく絆されると思って、とりあえず会いたい、話したいって言ってただけじゃない」


 謝りたい、と言われても、謝られてもどうしようもないし、今更彼女のことなどどうでもよかった。強いて言うなら、寝覚めが悪いから健康体でいてほしい程度である。そんなことくらいヒロキも分かっているだろう。「今更の謝罪」や「彼女について(詳報)」というもくじが、お互いにとって何の価値もないことくらい。鼻白んだ私を見て、ヒロキは黙った。そこで初めて、鞄のあたりをぼんやり撫でていた視線をヒロキの顔に向けた。


 二ヶ月ぶりに見る顔には、さしたる変化はない。うら若きころに一目ぼれした角ばった顔も、散々かき抱いた腕や胸も、清潔に切りそろえられた髪や爪も、最後に会ったあの玄関での瞬間から、フリーズドライして固定したみたいにわずかも変わりなく、それゆえに彼がいつも通りの日常を過ごしていたのだろうことを察して、じわりと不快が蠢いてせり上がってきた。ただそれは、やっぱり痛みと言えるほどのものではなかった。ただの不快感だった。せっかくきれいな空っぽになったのに、朝から課長のデリカシーのなさだの、しおりちゃんの気の回らなさだの、同期の苦悩だのを浴びたせいで、空洞のなかにしっかり不快の泥が溜まってしまっていた。そこへ来て、ヒロキの嘘くさい打算。あわよくば許されようとするしらじらしい打算。自分ひとり、何も失っていない分際で、まるで憔悴しきったみたいな声を出して。まだ、花井とかいう女のほうが、等価で何かを失っているんじゃないか。こっち側に近いんじゃないか。そんなことを思いさえした。


 今すぐに席を立って、蜘蛛に食べられたいと思った。泥ごと、丸めて。


「取返しのつかないことをしたと思ってる」


 私が自室の押し入れに思いを馳せていると、ヒロキがようよう口を開いた。気づけば、私のお冷のグラスも水滴が落ちきって、まるで小さな水たまりの中に浮いているみたいだ。


「ねえ」取り返しのつかないことってどれのこと。試すみたいに敢えて言わなかった「取り返しのつかないことってどれのこと」を、きちんと読み解いたらしいヒロキは項垂れたまま、そうだよな、一言で済まそうなんて、ありえないよな、と呻く。十年、恋人だったのだ。ヒロキが私の言わなかった言葉を読み解けるのは、察しあいながら、きっと互いに慮りながら暮らしてきた十年を礎にした、さりげなくて尊い果実。しかし、それを目の前にしたところで私の胸にさしたる感慨が湧いてくることはなかった。


「花井さんは元気?」


 だから趣向を変えて、今度は肉を切ってみる。


 予想外の問いかけだったのか、ヒロキはほんの少し眉を動かして、私の顔を見た。


「ああ、……うん、元気だよ。どっちも……」


 そしてヒロキは視線を落として、テーブルに置かれた自分の手のあたりを見つめる。


 どっちも、という答えに、不思議と安堵のようなものが浮かんでくる。

「私、あなたのごめんをもう一回直接聞いてもとくに何にも感じなかった。花井さんとお腹の子どもが元気だって聞いて、よかったねえって思った。たぶん、心の底から」


 十年ものあいだ、曖昧で核心を避けがちな、察してちゃんな私の喋りを聞いてきたヒロキは、その言葉の意味するところをこれまた正確に、読み解いたらしかった。つまり、もう私のなかでは終わっているのだと。

 バッグを片手に、私はゆっくりと立ち上がった。「じゃあ、さよなら」五百円玉をひとつ、テーブルに残していくのを忘れずに。


「もう連絡してこないで」


 ヒロキはもの言いたげな顔で、口を薄く開けたまま私を見上げている。けれどその表情の意味するところは、彼が表したかったであろう感情は、きっと二か月前なら読み取れたであろう言葉は、もう私には読み取れなくなっていた。



***



 木曜の夜の亀滑通りにはそれなりの人足があった。こういうとき、すべての人が自分と逆方向に歩いているような気がしてくる。速足で歩くには、今日のヒールは高かった。幾度か、右足のつま先を引っかけて、そのたびに思わず舌打ちが漏れそうになる。朝はあんなにきらめいていたオレンジ色が、今はエナメルに夜闇を映して青く曇っている。左、右、左、自身の足先だけを眺め、前に進むことだけを考えれば、動くことなど容易かった。頭までもが空っぽになっていった。


 吐き戻したい気持ちを抑えながら、冷え切った指先で鍵を開け、パンプスを脱ぎ散らかして部屋に入る。勢いよく押し入れを開けると、いつもであれば億劫げに、鬱陶しげに脚を立てる蜘蛛がまんじりともしない。「ねえ、ヒロキと会ったよ」構わずに声を掛けた。「私に執着してるのかと思ったら、自分が謝りたいだけだったって!」げらげら笑う私の、不快であろう湿った呼気を浴びても、蜘蛛はうずくまったまま動かない。「なのに全然、全部、どうでもいいの。私どうでもよくなってたの」美しい空洞を見せつけたくて、私は一枚ずつ着衣を脱ぎながら話しかけ続ける。薄く頼りない乳房越しに、年齢相応の皮下脂肪で覆われた腹部をまじまじと見る。そこには不快の汚泥だけが溜まっていて、自分で抱えているべきだったヒロキへの憎悪も、産めなかった子どもへの後悔も、手に入れたかったものへの執着もない。「ねえ、食べて」何も精算しないまま終わった私をこの汚泥ごと食らい尽くして。


 怒りを、憎悪を、捨ててしまいたいと思ったのは私だ。けれど、いざヒロキを前にしてわずかも揺れ動かない自分に、焦燥を覚えた。取返しのつかないものを捨ててしまったのではないかと。それならばいっそこの、焦燥ごと、また空っぽにしてほしい。抱えているべきだったのかという迷いごとまた捨ててしまいたい。


 けれど蜘蛛は私を無視し続けている。


「聞こえてないの?」


 下着一枚で、私は押し入れによじ登る。ぼろきれのような蜘蛛の糸が手指にやわやわと絡まった。濡れているのかと思うような、しっとりとやわらかく織られた蜘蛛の白布。押し入れの暗がりに、青白くぼやぼや光った。


「もしもし」


 裸の膝に、押し入れの床が硬い。ぎし、と板を軋ませながら蜘蛛に近づく。気づいているだろうに、蜘蛛はそれでも動かなかった。そっと後ろ側の脚に触れる。そこでようやく、蜘蛛は忌々しげに脚を持ち上げて私の手を避けた。だが、それだけだった。ねえ、どうしたの。私はなおも呼びかけるが、さしたる反応はなく、蜘蛛はほんの少し身じろぎをして、押し入れの角に体を押し込むみたいにして小さくなった。怯えているような、疲れているような仕草に、急に不安になる。


「ねえ、大丈夫なの」


 思わず相手が蜘蛛であることも忘れ、犬や猫にするみたいにそっと腹のあたりに触れようとすると、当然蜘蛛はいらだち、後肢で激しく自身の腹を蹴り上げるように掻いた。ぼわ、と視界に毛が舞った。咄嗟に顔をかばって、私は押し入れから転がり落ちる。「痛ったあ!」間抜けな声を上げて、涙目で見上げる先には知らん顔の暗がりがあるばかりだった。みるみるうちに裸の腹や腕が痒くなり、私は慌てて風呂場へ駆け込んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る