20 銭湯
強く意識をして、お湯に浸かった菊花の裸体を見ないように努める。だが当の菊花は、さっきから何度も私の裸を横目で見てきていた。気づいてないとでも思ってるのか、こいつは――。
思いがけず菊花を確保した私と目白は、そのまま銭湯に向かうことにした。菊花が持ち込んだ物品の換金も目白によって滞りなく行われ、スマホで百舌に連絡を入れると「菊花から目を離すな」と厳命が下され、じゃあどうするかとなったタイミングで菊花がぽつりと、
「風呂入りたい」
と言ったので当初の計画を続行することとなった。
目白が連れてきてくれたのは、ギリギリ「スーパー」がつかない規模の銭湯だった。若干建物は古いが中は広く、面白みはないがちゃちゃっと入浴して帰るにはちょうどいい。
入り口で目白が三人分の入浴券を購入する。私と菊花の言葉は現世の人間には伝わらないので、さっきのビルで手に入れた札束の中から一枚を私が両替したついでに自分の分の代金を渡しておいた。
脱衣所で服を脱いで、これも相当汚れてしまったことに気づく。よく見てみると、ほつれたり穴が空いたりしているところも目立つ。交渉の時刻までもうあまり時間はないが、どうせ菊花は捕まえたのだし、交渉がご破算になったあとで新しい服を買いにいくのもいいかもしれない。
まずは身体の汚れを落とすために念入りにシャワーを浴び、ボディーソープでゴシゴシと身体を洗う。次にシャンプーで重く硬くなった髪の毛を洗う。かなりの量を使ったのだが、一回目ではほとんど泡立たず、さらに多めのシャンプーを使った二回目でやっとまともに髪を洗うことができた。
一応、菊花から片時も目を離さないというミッションが追加されているので、シャンプーをする時は私と目白が交代で菊花を見張った。リンスを洗い流し終えると、離れたシャワー台に座っている目白に合図を送る。うなずいた目白はシャンプーを始め、私はすぐ隣の台の菊花の様子を窺う。
するとそのまま視線がぶつかった。慌てて視線を逸らす菊花は、もうシャワー台でやることはやり終えているようだった。
「風呂、入らないの?」
私が立ち上がると、菊花もあとに続く。ふたり一緒に広い湯船に浸かり、何日かぶりの温かいお湯に全身を預ける。
リラックスはしても気は抜けない。好き勝手にあちこちの異界を荒らし回っている問題児が私のすぐ隣で小さくなっている。こいつから目を離してはならない。かといってじろじろと見るのも風呂の中だから憚られる。菊花はシャワーの時から何度もこっちを見てきていたが――。
シャンプーを終えた目白が私たちから離れた位置で浴槽に入る。私と菊花は浴槽に入ってすぐの縁にもたれかかっていたが、目白はもう少し奥、私たちが座っている縁と直角になる浴槽の左端に腰を下ろした。あそこからならこちらがよく監視できる。
「あの、美桜」
「なに」
「聞かないのかと、思って」
こいつが勝手に〈きさらぎ駅〉を出奔し、あちこちに迷惑をかけている理由を、私は知っている。
千歳――菊花を〈きさらぎ駅〉に導いたというその女を、どこにいるのかもわからないのに捜している。
今後のためにも、菊花から直接事情を聞いたほうがいいのかもしれない。でも、ものすごく気持ちの悪い感覚が私を押さえつけていた。
菊花から、菊花が大切だと思っている女の話を聞きたくない。
なんだろう、これ。私はもともと菊花のことなんてなにも知らないし、過去になにがあったのかなんて興味もないはずなのに。
興味がないから聞きたくない――わけではない。話の内容自体は、正直どうでもいい。ただ単に、菊花をそこまで執着させる女の存在を、意識したくない。認めたくない。
千歳という女の存在を知った時、一瞬思ってしまった。
菊花にとっての千歳は、私にとっての菊花なのではないか。
千歳は菊花を〈きさらぎ駅〉に連れてきた。菊花は私を〈きさらぎ駅〉に連れてこようとして失敗した。きっと千歳は、菊花なんかと比べものにならないくらい優秀で、強くて、底知れない女だったのだろう。
だから、同じような存在ではないとすぐに考えを改めた。菊花はまともに会話もできないし、ろくに説明もできないし、強いけれど脆いし、見ているこっちが心配になってきてしまう。
私にとっての菊花なんていう尺度より、ずっとずっと長く深いものが菊花にとっての千歳の間には埋まっている。
そこを掘り返したら、駄目だ。
相手の領域に立ち入ることへの忌避感以上に、なにが飛び出してくるのかわからない不安が強い。なんか、すごく、イヤだ。だって。
「負ける――から」
ああ。クソ。絶対に認めたくなかったはずが、なんでそこだけ口に出してんだ私は。菊花が困惑している顔なんて初めて見たぞ。
今ならもう万に一つも勝ち目なんてものはないことくらいわかりきっているのに、私は菊花にとっての特別だと思っていた。少なくとも、私に魑解に至るレベルの怒りをもたらすくらいには、この女は私を自分に都合よく使っていたはずだった。
なのに、菊花は私を置き去りにして、千歳を捜しに向かった。
あんなに怒れたのに。あんなにキレたのに。あんなに――お前を助けたいと思えたのに。
私の怒りはなんだったのか。結局また惨めさに塗れるだけのか。私にとっての怒りなんて、所詮はそういうものだと、わかっていたはずなのに。
私なんかじゃ、千歳とかいう女には敵わない。菊花にとって一番大切なのはずっと千歳だけで、私を都合よく使っていたのは歪んだ責任感があっただけのこと。
ならもう、こいつと話すことなどなにもない。なにを聞いても、私が惨めになるだけだ。
「たぶん、千歳と美桜が戦ったら、千歳が勝つ」
ほら、やっぱり。
「だから、その前に、私が千歳を叩く」
「――は?」
「千歳は安野さんでも捕捉できない領域まで踏み込んで、おそらくもう人間の範疇を超えてしまっている。異世界に取り込まれ、同化している中でも、千歳はまだ意識を保っている。いや、異世界側が千歳の意識を利用しているのかもしれないが。美桜を助けたあの日、私にコンタクトをとってきた千歳は、たしかに千歳だったけど、だからこそ怖かった」
「待って、その時、なんて言われた?」
「――あの駅の名前を言ってから、『そこにはキミの大切なひとがいる』。私は千歳の意識を持ったなにかが、不要になった千歳を廃棄しようとしているのかと思った。現世に行って、私がそれを止めるように仕向けているのもわかってた。わかっていても、行くしかなかった」
だけど、そこに千歳はいなかった。
代わりに、菊花の言葉を聞くことができた、私がいた。
「千歳は私が美桜を助けるように仕組んだ――んだと思う。理由はおそらく、美桜が現世にいながら原初に接続していたから。すぐに魑解にまで至ると見抜いていた。だから現世に残しておくのは危険だと判断したのか」
それは――千歳が? それとも、異世界が?
いや、どちらでも同じことなのか。菊花が考える現在の千歳とは、時空のおっさん以上の権限と意識を持つ異世界由来の怪異ということになる。
でも、菊花は千歳への感情を捨てきれていない。
言葉の節々から伝わってくる。千歳はもう菊花の知っている千歳ではないと言いながら、千歳を助けたいと願って現世に赴いたこと。千歳の意識がかつての千歳と乖離してしまっていると理解しながら、まだ自分の知っている千歳はどこかにいるはずだと信じていること。
「千歳が〈きさらぎ駅〉から姿を消す前に私に課した約束。私と百舌以外にもうひとり、魑解に至る者が現れるまで、〈きさらぎ駅〉を守る。美桜が魑解に至ったことで、この縛りはなくなった。同時に、なぜ千歳がこんな約束を私に課したのか、その理由がわかった」
ちゃぷ、とお湯が揺れる。菊花は湯船の中で自分の膝を引き寄せ、前屈みになりながらうつむく。
「美桜が確実に魑解に至るまで、〈きさらぎ駅〉で守るため」
「なんで、そこまで――」
「千歳は、美桜を欲しがっている。私じゃ――私じゃ、なくて」
最後は絞り出すようにか細い声になっていた。
こいつは――結局、どこまで行っても千歳への執着を捨てることができない。わかるよ。どれだけ頭で理解して、心で納得しようとしても、離れることのできない相手はいる。
じゃあ、菊花もまた、千歳が私へと向ける感情に、自分が負けると思い込んでいるのか。
自分のほうが千歳のことを知っている。
「だったら、美桜に手を出される前に千歳を見つけだして、私がケリをつける」
「それは、千歳と一緒に行くってこと?」
「――まだ、わからない」
でも、と菊花が顔を上げたところで、背後から声をかけられた。
「悪いけど……そろそろ時間だからね……」
いつの間にか湯船から上がっていた目白が、私に風呂を上がるように促す。菊花を確保したとはいえ、〈椿の海〉との衝突の可能性がある以上、当初の作戦は続行せざるをえない。
中途半端なところで終わってしまった会話を再開させるすべを私たちは持ち合わせておらず、互いに無言で脱衣所で服を着て銭湯を出る。ホールにあった自販機で買ったスポーツドリンクを飲みながら駅に戻って歩いていく。
「えっと……美桜ちゃん、このへんで菊花を見張りながら待機してもらえる……? 会長から、現時点での菊花の合流は混乱を招くので、監視下に置いた状態で待機しろって指令が……」
「ああー……はい、わかりました。交渉はあそこの広場でしたよね? 様子が窺える場所にいれば大丈夫ですか?」
「うん……悪いけど、お願い……」
一度菊花を見てから、目白は駅前に歩いていく。時刻は午前十一時。今から集合した目白班が打ち合わせ行い、三十分後には各自持ち場につく。交渉が始まるのは正午だから、ここから一時間ひたすら待機することになる。
一時間。一時間か――。
駅前をざっと見渡す。そこまで大きな駅ではないが、前に〈お山〉に向かった時のような辺鄙な場所というわけでもない。近くには小規模なショッピングモールの看板も見える。
「菊花、あのさ」
目を離してはいない。菊花は大人しく私の目の届く範囲で小さくなっている。
「よかったら一緒に、服買いに行かない?」
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