19 ほかてら

 夢の中に牛頭天王が出てくることはなかった。事務室を出ると太陽はとっくに昇っていて、プラットホームでは日本怪異妖怪保全会のメンバーが集まって作戦会議を開いている。

 おはようございますと挨拶をして、私は自分も現世に行っていいかと訊ねた。

「戦力が多いに越したことはないけど、どうしてまた?」

「いや、いい加減風呂入りたくて……」

 昨日の山登りのあと疲れでそのまま眠ってしまったが、服と肌にはあちこち泥が跳ね、汗がそのまま残っている感覚がずっと続いている。思えば〈きさらぎ駅〉に来てからまともに入浴をしていない。

 幸い、異界の世界観が適用されると空腹や喉の渇きを感じなくなるが、代謝が止まるわけではない。

 入浴施設なんてものは〈きさらぎ駅〉にはなく、ここの住人たちがどうやって汗を流しているのかずっと疑問だったが、昨日寝る前に現世に行くこととなったひとりが「やっと風呂に入れる」と喜んでいたのを聞いて合点がいった。

 百舌は私の発案がまったく念頭になかったらしく、申し訳なさそうに笑う。

「そっかー。私なんてもう何年もご無沙汰だからすっかり忘れてたわ。オッケーオッケー。わかりました。もうちょっとタイミングってもんを考えてほしかったけど、どうせ別働隊には先に現世入りして待機しといてもらう予定だったし、風呂に入る時間くらい捻出できるだろ。いいよ。じゃあ目白めじろ、あんたんとこで面倒見な」

「えー……私ひとのお守りできるような人間じゃないですよ……」

 フレームが緩んでいるのか右目側だけずり落ちた眼鏡をかけた女が心底イヤそうに私を横目で見てくる。目の下の隈が濃く、ズレた眼鏡と合わさって瞬時に視線を合わせるのが難しい。

「どうせ集合場所と時間を決めといて、今から現世入りすれば問題ないって考えてんだろ? それでいいから」

「ひぃ……ひとの堕落した考え読むのやめてくださいよ……。それでいいならそうしますけど……」

 目白がホームの端に移動すると、集まっているメンバーの何割かがそのあとに続く。手招きをされていることに気づいて私も慌ててそちらへ向かう。

「はーい。じゃあ私らは先に現世に入って抗争に備えます。交渉が行われる正午の三十分前には各自持ち場についてほしいので、午前十一時に駅に集合してください。それまでは自由時間なので、各位勝手に死んで欠員を出さないように注意しながら好きにしてください。以上、出発ー」

 ちょうどホームに電車がやってきた。私が加わった目白班は私を入れて十人で、見覚えのあるひともいれば顔を見たこともないひともいた。

 電車の中でも固まることはなく、おのおのが座席に座ったりつり革につかまったりしている。

 私はひとりだけ作戦会議に加わっていなかったことを思い出し、慌てて目白に降りる駅名を聞きにいく。

 目白は私の知らない駅名を挙げた。どこですかと訊ねると、現世にいたころに私が住んでいた地域とは大きく離れた県と市を伝えて、話は終わりだとばかりに座席の隅で腕を組んでうとうとし始める。

 きさらぎ駅が異世界である以上、そこから伸びる線路が時空を簡単に跳躍するのは当然だとも言える。だがまったく土地勘のない場所に放り出されるのはさすがに不安が大きい。今回の私の目的は風呂に入ることだ。適当に銭湯を見つけてゆっくり入浴するつもりでいたが、このままでは道に迷っているうちに自由時間が終わってしまいかねない。

 スマホを取り出し、さきほど聞いた駅名で検索する。まったくなじみのない土地を地図アプリで見渡し、「銭湯」で検索していくつか候補を絞り込む。

 などとやっていたら、いつの間にか車内アナウンスが次の停車駅を告げていた。目的地だ。

 目白班が身を起こし始める。電車のドアの前に移動している者もいた。

 私は目の前の座席で眠りこけている目白を揺さぶり起こした。

「目白さん、次ですよ」

「んあー……」

 目を擦る目白。ずり落ちた眼鏡がかくかくと上下する。

「あの、相談なんですけど、銭湯一緒に行きませんか?」

「んあ!?」

 目白は一気に覚醒する。

「昨日、やっと風呂に入れるー、って喜んでたじゃないですか。目白さんも銭湯に行くつもりだったんでしょう?」

 私が今回の計画を思いつくに至ったそもそもの原因は、この目白という女の発言からであった。

 本当ならひとりでゆっくり入りたいところだが、土地勘のなさとスマホの地図アプリの道案内への信頼のなさと残り時間を考慮した結果、目白についていくのが一番確実だという結論に至った。

「や、やだよ……なんで他人と一緒に風呂に入んなきゃなんないの……」

「銭湯ってそういう場所では?」

「ぐう……」

「それに、私がいま起こさなかったら寝過ごしてましたよ? みなさん、目白さんには目もくれてませんし」

「それは……信頼……だと思う……けど……」

 言っていて、だんだん自信がなくなってきている。あっ、これは深く突っ込むと危ないやつだ――私はそれ以上の追求をやめておいたほうがいいと自重する。

「ま、まあ、これもなにかの縁ってことで、別に一緒に入ろうって言ってるわけじゃないですし。私このあたり全然知らない土地なんで、迷ったら作戦に支障が出かねないでしょ?」

「うっ……」

 おそらく、魑解に至った私は〈きさらぎ駅〉では重要な戦力に位置づけられている。それを自分のせいで迷子にでもなられたら、このチームの班長として目白はとんでもない責任を負うことになる。

「わかったよ……でもその前にお金を工面しないといけないから、少し寄り道する」

 駅や電子マネー加盟店の利用はインチキICカードでどうにかなるとしても、さっき調べたこの一帯の銭湯はどこも現金しか使えないと書かれていた。私は現世から持ち続けている財布の中身にまだいくらか余裕があるが、考えてみればこれを増やす真っ当な手立てはまるで思いつかない。

 駅を出ると、目白はそのまま裏路地に入る。まかれては大変だと素早くあとに続き、薄汚いビルの中に入っていく目白を追いかける。

 エレベーターホールで、私は各階テナントの案内板を見る。私の目にはそこに書かれた文字はもうほとんどが文字化けした状態でしか映らないが、ひとつだけまともな文字として読めるものがあった。


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 読めたところであまり意味はわからない。ただなんとなく、目白がここ――四階に向かうのだとわかった。

 狭くて暗くて遅くてうるさいエレベーターに乗って、四階に上がる。入った時に見たビルの小ささからして、一階につき一テナントしか入らないであろうことは予想がつく。

 エレベーターを降りた目白は、〈きさらぎ駅〉から持ってきているバッグをぎゅっと自分のほうに引き寄せる。

 エレベーターホール目の前のドアを開けて、中の部屋に入る。狭い公民館なんかで使われていそうなパーティションが実際狭い部屋の中をいくつかに分割していて、入ってきた状態だと無人の空間が広がっているように見える。

「んん……? 先客か……?」

 目白は怪訝な顔をして左側に視線を向ける。薄いパーティションの向こうではたしかにひとの気配が複数あって、何事か話しているらしい。

 右側の空間を塞ぐパーティションを持ち上げて隙間を作り、その中に平然と入っていく目白。パーティションというものは空間を区切るためにあり、空間の所有権を持っている者によって定義された空間の境界である――はずなのだが、目白はそんなものお構いなしに空間を破壊し侵食していく。もしかしたらこういうことができるのが、この部屋で話をする条件なのかもしれない。

「うわぁ……なに考えてるんですかあなた。呼ばれるまで待ってることもできないんですか」

 などと尊敬しそうになったが、目白はパーティションの奥の空間の椅子に座った男にものすごく険しい顔をされていた。

「時間がないので。今日はこれとこれとこれ」

 男が座っている椅子の前には簡素なテーブルがあり、向かい合う恰好で椅子が一脚置かれている。バッグの中からいくつかの品物を取り出した目白は椅子に座ることもなく男を急かす。

 テーブルの上に並べられたものは三つ。

 ピアノ線。

 分銅。

 ビニール袋。

「コシマレイコ工作セットですか?」

「知らないよなにそれ。カシマレイコじゃなくて?」

「似たような話ですよ。ということは天然ものですか。やはり面白いものが採れますね」

 男は厳重な手袋をした手で三つの品物を密閉容器に入れると、一度裏に入って封筒を持って戻ってきた。

「小銭ない?」

 分厚い封筒を受け取って中身を検めた目白は男にそう訊ねる。

「ないですよ。両替行ってください」

「目白さん、あれって……?」

「〈きさらぎ駅〉で採集したがらくた。ここの連中は異界に行けなかった奴らだから、異界の品物が欲しいんだってさ。金払いはいいけど長居は無用」

 またパーティションを勝手にどかして、入り口にショートカットする。入ってきた時に目白が気にしていた左側の空間はなにやら揉めていて、何度も女性のヒステリックな声が響く。

「すみません目白さん、そちらのお連れさんの言葉がおわかりに?」

 目白がどかしたパーティションの隙間からさっきの男が出てきて、私を手で指し示す。

「ええ……わかるけど、ひょっとしてこの子の言葉……」

「はい。私どもにはさっぱりで」

 しばらくの間、自分のことを言われていることに気づかなかった。

「えっ、私の言ってること、伝わってません?」

「なにか言われたようですが……」

「自分の言ってることが伝わってないことに驚いてるね……」

 現世とズレていくと、現世の人間に言葉が言語として伝わらなくなるのはよく知っている。菊花がそうだったからだ。

 だがいざ自分の言っていることが意味不明だと突きつけられると、さすがに動揺するものがある。私はもう完全に現世とは切り離されてしまったのだと、理解はしていたがそこまでの覚悟はできていなかった。否応なくその覚悟を踏み越えていく、言語の乖離という現実。

「実はですね、先ほどから向こうでお相手しているお客さんも、さっぱりな方なんですよ。もし可能であれば通訳をお願いできませんかね」

「謝礼は?」

「それに一割」

「よし」

 目白は素早く、左側の空間を遮るパーティションをどかす。

 私たちが入ったのと同じく、机を挟んで向き合う椅子。スタッフの女性と押し問答を繰り返している女の顔を見て、私と目白は絶句する。

 当然、向こうも同じだった。

「菊花――」

 ずっと捜していて相手が、そこにいた。

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