13 天刑星

「魑解を破ることができるのは魑解だけだ」

 隣に立って町並みを眺めている白スーツの男に、私は返答をしない。

 あれから三日。羽海の魑解である黒い穴に呑み込まれた私は、今もまだ現世に残っていた。

 正確には、現世の光景を見て回れる、ズレた異空間の中に囚われた状態がずっと続いていた。

 黒い穴の中は一見、現世と変わらない。だが私のほうから現世に干渉することはできず、現世のほうからも私を知覚することはできない。羽海の作り出した、現世と異界の狭間の空間に閉じ込められた、というのが今の私の状態だろうか。

 優希と羽海は、私が穴に呑まれたのを見ていた菊花をしりめにさっさと撤退していった。

 ふたりは、間違いなく、私の知っている優希と羽海だった。見間違うはずがない。ふたりの抜け殻に巣くった妖怪としばらく現世で過ごしていた私の目に狂いはない。

 なのに、ふたりは私を殺そうとした。

 口ぶりからするに、また三人そろって生きていくことをなにより大切に思ってくれている。問題は、そこに私の生命の価値がまったく考慮されていないこと。

 百舌の言葉を思い出す。世界観――それが、〈椿の海〉に生きているふたりと、〈きさらぎ駅〉にたどり着いた私とでは、決定的に異なってしまっている。私の言葉はもうふたりには通じないし、ふたりの世界観は私には決して理解できないし受け入れることもできない。受け入れてしまえば簡単に死ぬ。

「君はここから出ようとすれば出ることができる。なぜ行動しない」

 白スーツの男――牛頭天王は、私に魑力を使えとそそのかす。

 私は――もうキレることもできない。私が無敵になるには、優希と羽海が隣にいてくれる必要があった。前に魑力を使えたのも、勘違いではあったが優希と羽海を半田から守ろうとしたからだった。

 自分の身を守る必要も、優希と羽海を守る理由も、今の私にはなくなってしまった。

 かつて私を――理不尽な暴力に見舞われて青春の一部を棒に振った私を、強引に外に連れ出して、ずっと一緒にいると約束して。助け出してくれた優希と羽海は、今ではもう、私に対してより理不尽な暴力を振るう存在になってしまった。

 だったらもう、昔と同じように、このどこでもない暗い穴の中でひとりでいるほうがあらゆる点で楽に決まっている。どうせふたりと一緒にいられないのなら、私の人生はずっと終わったままだったはずだから。ここはあのころの延長戦。だからすごく、居心地がいい――。

 なのに――なのに。

――」

 なんで、お前は。

「〝魔王の小槌〟!」

 ずっとそこにいる。

「この魑解――〝清浄虎口〟はなかなかに面白い。外部から魑解で破壊しようとしても、見てのとおりの暖簾に腕押し。最初に見た時は破壊を目的としたものかと思ったが、実際は内部のものを堅固に守るという使い方をしている。本体が現世から離れてもこうして残っているし、罠としても用いることができそうだ」

 牛頭天王は呑気に羽海の魑解の性質を分析している。私は外を見ないように目を伏せ、耳を塞いでうずくまる。

「一方の彼女の魑解、〝魔王の小槌〟はたしかに強力だ。君の考えたとおり、生物非生物、存在非存在を問わず、『恐怖』という概念の及ぼす作用を強制的に発露させる。魑解が相手でも、その魑解自体を恐怖で支配し、萎えさせ、無力化してしまう。ただし今回ばかりは相手が悪いと言わざるをえない。〝清浄虎口〟は言うなれば底なしの穴だ。そこにどれだけ恐怖を流し込んでも、深淵から深淵へと落ちていくだけになってしまう」

 クソ。牛頭天王は実際に私の隣にいるわけではない。私が接続している概念のようなもの。だから耳を塞いでもその声は明瞭に聞こえてくる。

「しかし、三日三晩休まず魑解を出し続けて同じ場所を殴り続けるとは。半時でも続ければ魑力がオーバーヒートして死ぬより辛い肉体の痛みと精神の軋りを味わうだろうに。そうまでして君を助けたいのか。稲生いのう平太郎へいたろうなどよりよっぽど狂い果てているな。それが山本さんもと五郎左衛門ごろうざえもんが己の木槌を貸し与えた理由というわけか」

 やめろ。余計なことを言うな。こんなやつは私の人生とはなんの関係もない。終わったままで終わるしかなくなった私の人生に、死ぬ思いまでして私を助けようとするやつなんていらない。そんな都合のいいやつは、存在してはいけない。

「こいつ、まだいたのか」

 優希の怒りをはらんだ声。

 三日前と同じ場所に、優希と羽海が立っていた。一度撤退して、体勢を立て直して戻ってきたらしい。なぜか。私を連れていくため。

 そうまでして私を求めてくれているふたりを目にしても、私の心は何も動かなかった。

 菊花は、優希の声を聞いて、初めてふたりのほうに目をやった。明らかにおかしい。普段なら常時警戒を怠らず、気配に敏感なはずの菊花の動きが緩慢で鈍重になっている。

「そこ、どいてもらえる? 私ら美桜連れて帰るんで」

「美桜は渡さない」

「まあなに言っても意味不明なんだが、どく気はない、と。はあ……――」

 菊花に声をかけた羽海が左腕を横に伸ばす。

「〝清浄虎口〟」

 羽海の左手首から先の空間に、ぽっかりと黒い穴が空く。

 すぐさま疾駆しようとした菊花だったが、その場で足を踏み込んだだけで大きくよろけ、全身から黒い紐のようなものがあふれ出てぼたぼたと地面に落ちる。

「うわ、キツ。なにこいつ」

「魑力の使いすぎだな。もう制御もできてないだろそれ。ほっといても死ぬだけだし、魑解出すまでもなかったなこりゃ」

 羽海が左手を下げたのを見て、優希が無造作に腕を振るう。それだけで凄まじい衝撃波が巻き起こり、立っているだけで限界の菊花は呆気なく吹っ飛ばされる。

 優希と羽海が私のもとへと歩いてくる。私を連れ出すのではない。私を連れ去るつもりだ。ふたりにとっては同じことでも、私にとってはまったくの理不尽な暴力にほかならない。

「美桜――!」

 目にも止まらぬタックル。身体全体で優希と羽海を吹き飛ばしたのは、もう目の焦点も合っていない菊花だった。自分の足で止まることもままならず、地面にぶつかってもんどりうつ。

「美桜は――私が助けてしまった」

 菊花の声が届く人間は、これまで現世に存在しなかった。現世からズレにズレ、誰にも理解されない狂人としてしか現世に降り立てない。

 そんな中で、私には菊花の声が届いた。

「私だって誰かを助けたかった。役に立ちたかった。美桜はそんな私に希望をくれた。でも、そのせいで美桜を殺してしまった。なら、もう美桜を助けることしか、私にできることはない」

 半分譫言だった。今の菊花に意識があるかどうかすら怪しい。

 だけど、それを聞いていると、私の中にふつふつと沸き起こるものがあった。

 この感覚を私は知っている。優希と羽海――いや、それは関係ない。私が、かつて理不尽な暴力に屈した私が、再び理不尽な暴力を目の前に突きつけられた瞬間。すべてを置き去りにして、私を突き動かしていたもの。

「そんなちんけなものじゃないはずだ。君の感情に理由を求めるな」

 ずっと、ずっと、私を動かし続けた原初の感情。

「――菊花ァ!」

 怒鳴る。声が届くかどうかなんて関係ない。

「お前の感傷に、勝手に私を使ってんじゃねえ! ふざけんなよ! なにひとりで気持ちよくなってんだ! お前はお前で、私は私! いい加減にしろよ! 私はお前のためになんか存在してねえわ! それでもお前が私が必要だって言うなら、まずは一発ぶん殴ってやるから、そこで待ってろ!」

 私は菊花を慰める道具なんかじゃない。いま荒れ狂っている、私の存在を自分に都合よく使っているふざけた女に対する――これは、そう。

「あんたの諡諱は――『怒り』だな」

 牛頭天王と向き合い、その本当の名前を突きつける。

「ずいぶんと遅かったが、そのとおり。私は『怒り』の原初。誰よりも君が知悉している概念の擬人化だ」

「ならもうあんたは怖くない。消えろ。私が自分でどうにかする」

「原初を相手にこうも強気に出る者を私は知らないな。ならば君は牛頭天王を食い殺し平らげる――そんな誓いが似合うだろう。誓言は、もうわかっているはずだ」

 私はもう牛頭天王を見ていない。なにを言っても今の私にはもう聞こえないだろう。

 怒り――私を支え、蝕み、突き動かし、惨めさを加速させていくもの。

 知っている。知っているに決まってる。私はいつだって怒りに塗れて泣いていたから。

 もしもそれを己の外へと吐き出すことができたなら。なんと叫べばいいか。できるはずがないと思いながら、ずっと考え続けた。どうにもならない時には言葉だけが空振りすることもあった。

 だから誓言は、とっくに決まっていた。

――」

 全身が膨らんでいく感覚。世界一面を私の怒りが塗りつぶし、私が怒りそのものと化して世界と同一化する。

 そして、私は私を定義し、この窮屈な身体へと一気に収束する。

「〝天刑星てんけいせい〟」

 私は現世に立っている。捨て置かれた魑解――〝清浄虎口〟の檻は私が魑解に至ったことで破れ散った。

「美桜――?」

「あ? なんで美桜が外に出てきてんの? 羽海、なんかした?」

「してないが。つまり――」

「あれが、美桜の魑解、と」

 私は倒れ伏した菊花の身体に覆い被さると、全身から漏れ出ている黒い紐状のもの――暴走した魑力を両手でつかんで次々に口に運んでいく。手の中で跳ね回るそれを、前歯で千切り、奥歯ですりつぶし、喉の奥に押し込み、飲み込んでいく。エビかタコの躍り食いでもするように口の中で跳ね回るが、愉快でも不快でもない。ただ咀嚼と嚥下を高速で繰り返し、菊花の身体からあふれたものを腹に収めていく。

「美桜……」

 あらかた黒い紐を平らげたころには、菊花の意識が戻ってきていた。

「そこで寝てろ」

 爪に挟まった小さな紐を唇で吸い上げ、飲み込む。

「あとで殴る」

 魑力が全身に巡る。私はひとりだけ世界の埒外の速度で動き始める。私の見る世界はもう哀れなほど減速していて、異変を察して即座に〝蘇迷蘆縄〟を出した優希の腕がしなるのを余裕を持って見ながら歩くことができる。

 優希が縄を放つより先に――実際には恐ろしく緩慢な動きから次に何をするのか予測をつけて――その手をつかんでひねり上げる。埒外の速度の世界にいる私の動きがもたらすエネルギーは、相手の魑力と接触することで相手の速度にまでバッファリングされる。

 縄を取り落としている最中に横に立ち、背後から両膝に蹴りをぶち込む。無防備なところに無慈悲に入るおふざけゼロの膝カックン。これで私の速度内では当分立ち上がることすらできない。今はまだ膝が前に折れ始めた段階で、手から落とした縄もまだ空中にある。

 私の姿を追おうとして、まだ菊花のほうを向いている羽海の背後に回り込み、腕を回して裸絞めを極める。私の肘裏が優希の頸部を圧迫する。この圧迫という運動が減速した世界に強引にバッファリングされた結果、羽海は視線を菊花に向けた状態のままで失神するまでに至った。世界の速度差と絞め技による文字通りの処理落ち。

 私は菊花のもとへと戻り、自分の中の魑力をいったん押し込める。さっぱりとキレていた頭が急速に醒めていき、二日酔いのように気分が悪くなる。

 同時に優希が地面に崩れ落ち、羽海が意識を失って転がる。

「ふたりとも、ありがとう」

 振り向くことなく声を出す。私の言葉はふたりには届かないが、それでも言っておきたかった。

「私が今日まで生きてこられたのは、ふたりのおかげ。私が無敵になれたのは、ふたりのおかげ。でも、わかった。私はひとりでキレて、ひとりで泣いてた。これが私の人生。とっくに終わったままなんでか続けられてる私ひとりの、自分だけの人生。だから――」

 菊花を抱え上げ、駅のほうへと歩き出す。

「次、手を出してきたら、殺す」

 たぶん、そこだけは伝わったと、背中に感じる気配でわかった。

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