第13話 雪のとなりで、春が咲く。



『一緒に行きますか?』


 

 妻の言葉に驚き過ぎて、涙が引っ込んだ。


 それは、あの世へ一緒に、ということだろうか。

 

 春香が亡くなってから、この1年間、確かに俺は早く彼女のそばに行きたいと願っていた。

一人では、まともな生活を送れないくらいに、身も心も荒んでいたくらいだ。



 しかし、昨日(さくじつ)に彼女がこの家に帰ってきてからは、どうにかして彼女を留めようとはしたが、「天に帰るなら、自分も一緒に」という思いは、ほとんど起こらなかった。


(俺はまだ、この世に未練があるのか……?)


 娘が心配ではない、というわけではない。

しかし、あの娘(こ)にはもう、頼もしい婿と優しい義理の両親がいる。

お腹の中には新しい命も宿っている。


 俺ひとりが居なくなったところで、さほど問題はないはずだ。

 

 娘家族は優しいから、ひどく悲しんでくれるだろうが、すぐに気持ちを立て直すだろう。

特に子どもが生まれたら、きっと俺のことも過去の出来事になる。

良い思い出だけでも覚えていてくれたら、それで十分だ。


 仏壇の前に、春香と二人分の大量の菓子を供えられそうではあるが……。


 そうだ。子どもが何人か生まれたら、広い家が必要になるだろう。

そうしたら、この家を使ってくれれば良い。

生前贈与する時間の余裕はなかったが、賢い婿がきちんと手続きをしてくれるだろう。


 きっと大丈夫。大丈夫なはずなのに……。

 なぜこんなに胸がざわつくのだろう。


 遺していく娘たちや今後について考え込んでいると、春香が俺の頬をぷにぷにと人差し指で押してくる。

まるで猫が「こっちを見て」と言わんばかりだ。

 

 再び、視線が絡む。


「冗談ですよ? そりゃあ、そうできたら嬉しいな、と少しは思いますけど」


 今度は、俺が目を丸くする番だった。

 そして、「冗談」という言葉に、がっかりしたのか安堵したのか、よく分からない気分になった。


 それでも、「一緒に行けたら嬉しい」という、たったそれだけの妻からの言葉が、固く閉ざされていた扉を開く鍵となった。


 まるで、永(なが)い永(なが)い不毛な片思いに、けりが付いたように――


「少しだけ?」

 お返しとばかりに、春香の頬を突ついた。


「んんー、かなり?」


「そっ」

 

 俺は思わず、くすっと小さく笑った。

こんなに自然に笑みが溢れるのは、春香が亡くなって以来、初めてかもしれない。

 自分でも不思議なくらい、穏やかな気持ちだ。


「じゃあ、今度こそ良いですか?」


 彼女がくるっと左向きに腰を捻ると、さらに顔が近付く。


「ん」

 小さく頷いた。

 きっと今の俺は、穏やかな表情をしているだろう。


「もう、気付いてるとは思うけど、あの時の続きね……」

 

 そう、彼女は前置きをした。


 ――ずっと聞きたかったはずなのに、自分のエゴで聞きたくないと思ってしまった言葉が、紡がれようとしている。

 俺は無意識に息を止め、ごくっと唾を飲み込んだ。


「秀志さん、あのね……。私、すごく幸せだった。秀志さんとお付き合いして、結婚して、かわいい女の子が生まれて……」

 

 春香が俺の手を取って、自らの頬に当てる。

 そして、こう続けた。


「私ね、死ぬことよりも、あなたと離れることのほうが怖かった。でも、こうしてまた会えた」

 

 彼女の頬が、温かく湿っていく。


「娘のところには顔を出さずに、あなたに会いに来るなんて、駄目な母親ね」

 

 俺は、ゆっくりと首を振った。

 そんなことない、と言いたかったが言葉が口から出ない。きっと、声も震えてしまう。


「また、あなたから見えなくなっちゃうけど……。私は、ちゃんと見てるから。あなたが喜ぶ時も、悲しい時も。それから、一緒に笑って、一緒に泣くから。これだけは覚えててね」

 

 彼女はちらっと桜の樹を見た。


「ごめんなさい。私が秀志さんの時間を、冬で止めてしまった。――でもね、雪が解ければ、桜が咲くの。寒くて寂しい冬のとなりには、必ず春がある。それは、これからもずっと変わらない。ずっとずっと一緒よ。たとえ、何年経っても……。だから、むこうで待ってるね。でも、そんなに急がないで。良いお爺ちゃんになって、孫の結婚式くらいは見てから来てよね」


 彼女の目が、ふっと細められた。


「秀志さん、また泣いてる」

「春香だって、泣いてる」


 彼女の右頬を撫でながら、親指で目尻の涙を拭う。


 そして、額を合わせて「二人とも、顔がぐちゃぐちゃだ」と笑い合った。

 


 

 

 ふっ、と目を開けた。

 俺の体は布団に横たわっていた。上掛けもきちんと被っている。


(あぁ、やっぱり夢か。ずいぶんと長い夢を見たな)


「ははっ」

 思わず笑い声を上げてしまった。


 枕カバーが、ぐっしょりと濡れている。

 ずいぶんと涙を流したようだ。


(まぁ、あんな夢を見たんだ。仕方ない)


 つぅっと、両頬に涙が伝う。


「これ以上に、まだ泣けるのか」

 隠す相手もいないが、片手で左右のこめかみを押さえるように目元を覆った。


 すっと横を見るが、やはり春香の布団は無かった。


「はっ」

 嘲りのような、諦めのような声でひとり笑う。


(まったく情けない)


 ふぅ、っと呼吸を整えてから起き上がり、寝間着の上に半纏(はんてん)を羽織る。

 そのまま廊下に出ると、雨戸が閉まっていないことに気付く。


(昨夜(ゆうべ)、閉め忘れたのか。だから、眠っている時に寒いと思ったんだろうな)


 木の枠にガラスがはめられた、古い戸をガラッと開けた。


 夢と同じように雪が積もっている。

当然のことながら、のどかな春の風景は見当たらない



(いつからが夢だったんだろう)


 少し風に当たっただけでも体が冷える。肩をすくめながら戸を閉めて、居間へと向かった。

 夢見のせいか、なんだかひどく疲れている。


(今日は、こたつでゆっくりしよう……)


 腫れぼったい瞼のせいで視界が悪い。

半分目を閉じたような状態で、居間の障子を開けた。


 その瞬間、涙で腫れた目をこれ以上ないほどに見開いて硬直した。


 こたつの上に湯呑みがふたつある。

ひとつは、春香が生前に使っていたものだ。

そして、その近くに置かれていた茶菓子の盛り付け方は、明らかに春香のもので……。


(な、なんで)


「いっ!」


 思わず後ずさって、障子で頭をしたたかに打った。


 頭を打ったためか、にわかには受け入れがたい光景を目にしたためか、目眩がする。


 あぐらから立ち上がる時のような、片膝を立てた姿勢でしゃがみ込む。

そして、俯きながら額を押さえて、浅い呼吸を繰り返した。


「――まさか、そんなわけが」


 あれは夢だ。

そうでなければ、桜吹雪や春の庭、説明できないことが多すぎる。

それに、そもそも亡くなった妻が帰ってくるなんてことが、そうそうある訳がない。

 自分にとって、都合の良い夢を見ただけだ。


 呆然としていると、まだわずかに湿り気のある頬にペタッと何かが張り付いた。


(何だ? こんな時期に虫か?)


 そっと触れてみると、それは夢の中でも覚えのある感触でーー



 鼓動を跳ねさせながら、頬に張り付いたそれをゆっくりと親指と人差し指で摘んでみる。

信じられないことだが、それは、やはり見慣れた一枚の花びらだった。

そっと擦(こす)ってみる。シルクにも近いような感触と、淡く優しい色。


 間違いなく、桜の花びらだ。


 勢いよく立ち上がって廊下に出ると、乱暴な仕草でガラス戸に手を掛けた。

 立て付けの悪さに苛立つ。


 戸が開くと同時に、転がり落ちるように、つっかけを履いて雪の上を走った。

必死に桜の樹のもとに駆け寄ろうとするが、まだ柔らかかった雪に片足の爪先(つまさき)が埋まり、足を取られる。

持ち堪えられず、そのまま雪の上に膝をついてしまった。

寝間着の膝部分があっという間に湿りだし、チリッとわずかな痛みが肌を刺す。



『もう。秀志さんてば、仕方ないなぁ』


 春香の声が聞こえたような気がして、桜の樹を見上げる。

しかし、彼女の姿はなかった。

桜の花もまだ咲いていない。自然の摂理で考えれば当然だ。   


 

 しかし、それでも、手の中にある花びらは消えない。



 桜の花びらを両手で握りしめて、目を閉じた。

 最期まで、妻の手を握り続けたように。


 そして、ゆっくりと手を開いて、桜のつぼみが綻ぶ春に思いを馳せる。

そのまま冷たい空気を全身で感じながら、今度こそ目をそらさずに、足元の雪をしっかりと見つめた。


 そして、大きく息を吐いて、広い空を見上げる。



「俺、雪が好きになったよ」

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『亡くなった妻と、こたつでお茶を飲む。〜聞きたかった言葉〜』 櫻月そら @sakura_sora

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