第1話 魔界転生

 ――――最後の記憶は忍者で、忍者だった。


 記憶が混濁している。

 ちゃんと、全部を明確に覚えているわけじゃない。

 欠けて、混ざって、よくわからないものになっている。

 どこまでが記憶でどこまでが妄想なのか、どこまでが幻覚でどこまでが真実なのか……


 ……ひとつずつ、確かめる必要があった。

 記憶の糸を手繰り寄せる。

 少しずつ、ひとつずつ。

 確かな記憶を、並べていく必要があった。


 風間かざま草也そうやは、取り立てて特筆することもないような青年である。

 惰性的に大学に通い、モラトリアムを享受しながら毎日を生きて来た。

 父は中流のサラリーマン、母は乳酸菌飲料の宅配販売。兄弟はいない。

 家族仲はそれなりに良好。恋人はいないが、友人関係にも問題は無し。

 先の見通しがあるわけではないが、漠然とどうにかなるだろうと思える程度には不自由のない人生。

 幸福であったかと問われれば、それなりに幸福であると即答できるような、そのような人生であった。


 そして、その日は祖父の傘寿のお祝いだった。

 祖父母を連れて、家族六人で少しお高い・・・レストランへ出かけたのだ。

 草也は高い料理と言われてもまるでピンとこない貧乏舌だったが、嬉しそうな祖父母の姿を見ると、まぁこういうのもたまには悪くないのかな、と思った。

 腰の曲がった祖母を大事そうにエスコートする祖父の姿は、なんだかとても尊いもののように見えた。

 それを笑って茶化す、祝いの企画を行った父の姿を、なんだかとても誇らしく感じた。

 ここ高そうだけど、平気なのかよ――――軽い調子で父に聞いてみれば、ガキが気にすることじゃないと笑っていた。


 そういうもんか、と思った。

 なんとなく、悪くない気分だった。


「なんだ知らんのか草也。松尾芭蕉はな……伊賀忍者なんじゃよ!」

「さも歴史の真実みたいなノリで孫に珍説吹き込むのはやめろよ爺ちゃん」

「昔テレビで見たなぁそんなの……」

「ほら料理来たわよ。ウェイターさんちょっと出すタイミングはかっちゃってるでしょ」


 くだらない話をして、名前もよくわからない料理が運ばれてきて、わかんねぇ、わかんねぇと笑いながらそれを食べて――――

 ……そういう、楽しい一日だった。

 楽しい一日のはずだったのだ。


 どうしてだろう。

 どうして、それで終わってくれなかったのだろう。

 終わってはいた。

 何もかもが。悪い冗談だ。


 記憶が混濁する。

 思いだせ。思い出すな。思い出せ。

 そう、爆発――――爆発があったはずだ。

 悲鳴。轟音。壁が崩れる。

 祖母を抱きとめる祖父。子供の泣き声。

 視界を掠めるなにか。

 非常口を探す父。手裏剣。

 鮮血。知らない子供をあやす母。

 それから。それから。それから。


 ……忍者、だったと思う。

 あの時やってきて、視界を掠めたものは。

 記憶が欠落している。

 多分、その光景を覚えているのが辛かったから。

 父が、母が、祖父が、祖母が。

 それから、自分自身が。

 瞬きの間に、死んでいる。

 ひとりひとり、順番に、あるいはまとめて、殺されている。

 最後の瞬間、草也の首を掴んで持ち上げて、頚椎をへし折り殺したのは――――多分、忍者だった。

 ぐちゃぐちゃの記憶の中で、確かに残るもの。

 ……草也と、草也の大事な家族は――――みんな忍者に殺されたのだ。

 それ以上のことは、思い出したくもない。



 ――――それから、忍者だ。


 ……おかしい。

 草也は死んだはずなのだから、殺されたはずなのだから、それから・・・・があるはずはない。

 だというのに、草也の意識は連続している。



「ハハーッ! シケたツラしてんな!! エッ!!」



 眼前に何かがいる。

 草也は嵐の中にいる。

 暴風逆巻くその渦中、岩肌まみれの孤島の上で、それ・・と対峙している。


「ドーモ、ドーモ! まっ自己紹介はよ! しても無駄だから、省略するぜ。ナッ!!」


 ちょきん、ちょきんとハサミで何かを切るジェスチャー。

 それ・・はぼろの外套の端から細長い手足を伸ばし、大仰におどけている。

 表情は、わからない。

 鬼を象った面を被っているためである。

 態度はどこまでもフレンドリーで、しかしどうにも、癇に障る。


「なん、だ、お前……」


 声を絞り出す。


「なんだオマエ、ってよーッ! 『省略するぜ』ってたった今言ったばっかしだぜ! それで名乗っちゃカッコつかねーだろーがよッ! ハハーッ!!」


 びゅうびゅう、びょうびょう、ざぁざぁ、ぴしゃん。

 打ち付けるように、嵐が吹き荒れている。


「ちょっと待ってくれ、なにがなにやら……」

「ダメダメ! 時間ねーんだよ。ナッ! いいか、よぉーく聞けよォ?」


 一歩、二歩、たたらを踏む。

 がら、と何かが崩れる音。

 後ろを見る。断崖絶壁。

 黒々と荒れ狂う海面が、遥か眼下でぽっかりと口を開けている。


「っ……!」

「聞けって! こっちミロ! ナッ!」


 がし、と顔を両手で掴まれる。

 無理やりに正面を向かされる。鋭いカギ爪が、草也のこめかみを軽く引っ搔いた。

 僅かな痛みが心拍を跳ね上げる。

 なんとなくの、直感、こいつは。


「ハハーッ! そうさ!」


 こいつは。



「――――――――俺は、忍者・・だ! 」



 忍者。

 フラッシュバックする記憶。

 殺戮。

 家族。

 死。

 終焉

 吐き気。

 こめかみに突き立てられた痛みが、それらを中断させる。



「で――――オマエも、忍者さ。ナッ!!」



 ……?

 こいつは、なにを……


「つまりよ。俺はオマエで、オマエは俺さ」

「なんの、話を……!」

「わかんねーか? わかんねーよな。すぐにわかるさ。俺とオマエはひとつになるんだ。生まれ変わる・・・・・・んだよッ! ハハーッ!!」


 頭が痛い。

 爪のせいか?

 違う。何かが入って来るんだ。

 入って来る? それも違う。何かに変わっていくような。


「やめ、ろ……! 僕は、お前じゃない……!」

「いーや! オマエは俺さ! ハハーッ! なぁに、安心しろ。すぐに俺は眠るからよ。ナッ!」


 びゅうびゅう。

 嵐の音。

 いやにうるさい。やめてくれ。

 鬼の面が視界一杯に広がる。耳障りな哄笑と共に。


「せっかく一緒になるんだぜ。楽しくやろうや、兄弟。くだらねー死にかたしたらつまんねーからよ! 頼むぜ!」


 げたげた、げたげた。

 不快と苦痛から逃れるように、草也は思わずたたらを踏んだ。

 そして思い出す。後ろは崖だ。


「あっ――――――――」


 当然、踏み外す――――海という奈落へ、真っ逆さまに。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

「ハハーッ!! それじゃあお別れだ、兄弟!! ナッ!!」


 鬼の面は、離れなかった。

 草也を追うように、共に落下している。

 げたげた、げたげた。

 なにがおかしいのか、目の前で笑い続けていて。



「――――――――オマエは今日から、忍者だ!! ハハーッ!!!」



 真っ黒な海面に、叩き付けられる。


 暗転。




   ◆   ◆   ◆




 ……そして、意識は今に追い付いた。


「…………夢……どこまでが……?」


 忍者に殺された記憶。

 忍者と心中した記憶。

 忍者と、忍者の記憶。二つのそれ。

 全てが現実である、とは思い難かった。

 けれど、全てが夢である、とも思い難かった。


「……どこだ、ここ……とりあえず……」


 壁に手をついて、立ち上がる。

 草也はどうも、どこぞの路地裏で座り込んで寝ていたようだった。

 酔いすぎて記憶が飛んだのか。

 ならばあれはやはり、全部夢だったのか。

 しかしあの克明な記憶は、本当に。


 ……頭が痛い。

 けれどそれは、二日酔いのそれとは違う気がした。

 空を見上げれば、月が浮かんでいる。ひとまず夜らしい。


「クソッ……なんなんだよ……」


 父は、母は、祖父は、祖母は。

 ……生きて、いるのだろうか。

 あれは、夢だったのだろうか。

 そうであってほしい。きっと。誰も死んでなんかいないのだ。

 スマホで電話でもかければ、安否はすぐにわかる。

 しかしひとまずは、この路地裏を出て、今どこにいるのか確認するべきだろう。

 無意識が、家族の生死について考えることを先送りにしていた。

 確認してはいけない気がした。

 そうすれば、なにもかもが終わってしまうという予感。

 言葉にすらならない、あるいは言葉として認識することを拒絶している、そういうもの。


 絞り出すように、這うように。

 そのような心境と足取りで、路地裏を出る。

 出れば、そこにあったのは商店街である。

 どこか寂れた雰囲気は、時代の流れに取り残されたが故か、単に夜間であるからか、両方か。

 いずれにせよ、草也が知っている場所ではない。

 ひとまず日本ではあるようだが、それ以上のことはさっぱりだ。


「参ったな、交番でも探すか……?」


 人の気配もなく、目印になりそうなものもない。

 スマホを起動して時計を見てみれば、夜中の二時を回っている。電車も止まっている時間だ。

 ひとまず家族に連絡を――――


 ……する前に、せめて住所ぐらいはやはり、調べておくべきだ。

 無意識である。

 意識してのことではない。

 先送り、先送り。見ないふりをしながら。


 まずは、商店街の出口へ向かい――――向かおうとして、違和感。


「………………?」


 出口は遠い。距離にして100m以上はあるだろう。

 その、出口の辺りに……人影が見える。複数。

 こちらへ向かっているように見えた。

 もっと言えば、先頭を行く人影は逃げていて、他がそれを追うように見えた。


 逃げているのは、艶やかな黒髪をひとつに結んで垂らした、美しい女である。

 起伏の少ないすらりとした肢体を包むのは、丈の短い和装のような――――直截的に言ってしまえば、いかにもくのいち然とした装束を身にまとっている。二の腕までを覆う黒い手袋が印象的だった。

 けれど激しく負傷をしているようで、その足取りはどこか頼りない。

 雪のように白い肌に、紅い鮮血が流れ滴っているのが見て取れる。苦痛と屈辱に歪んだ表情も。


 追っているのは……あれは、なんなのだろう。

 蜂を思わせる面を被り、妙に肉厚な刀を持った忍者の群れである。

 数は五人ばかりであるが、その全てが一様に同じ装束、同じ体格、同じ得物を握っている。

 思い思いに、ゲニ、ゲニゲニと鳴き声を上げながら女を追うその姿は、さながら特撮番組に登場する雑魚戦闘員そのもののように見えた。


 なにやら尋常の様子ではない。

 それこそ、特撮かなにかの撮影……とするには、女の負傷がいささかリアル過ぎる。これを放送するのは難しいだろう。


 そこまで思ったところで、ふと気付く。

 距離が遠い。

 ……だというのに、草也は克明に女と怪人たちの姿と様子を認識できている。

 空から降り注ぐ月明かりは、こんなにも頼りなく暗い街並みだというのに。

 常人の知覚力では、これほど離れた場所の物事を正確に把握できるはずがない。


 なにかがおかしい。

 あるいは、なにもかも。


 頭が痛い。

 女が逃げている。

 じきに追い付かれるだろう。

 すると、どうなる?

 戦闘員が投げつけた肉厚の刀が、女の足を掠めた。転倒。

 終わりだ。もうこれ以上は逃げられまい。

 頭が痛い。

 フラッシュバックする記憶。

 母が死んでいる。

 見知らぬ子供をかばったまま、袈裟に切り裂かれて。

 殺されたのだ。

 忍者に殺されたのだ。

 頭が痛い。

 女が這うように逃げようとしている。

 逃げられるはずもない。

 戦闘員たちが女を取り囲む。

 悲痛な女の表情が見て取れた。

 距離は遠い。

 頭が痛い。

 踏み出す。

 踏み出している。



 ――――――――オマエは今日から、忍者だ! ハハーッ!



 距離はもう、遠くない。


「ゲニ!?」「ゲニゲニ!」「ゲニ!」

「っ、あなた、は……」


 駆け出せば、100mはすぐに埋まった。

 信じられない速度だ。昨日までの草也なら考えられないくらいの。

 今なら、オリンピックで金メダルを総なめできるだろう。

 女の驚愕する顔が見える。

 かばうように、その前に立つ。


「……事情、わかんないんだけどさ」


 ちりちりと、どす黒い何かが胸の内で呻いている。

 憎悪、なのだろうか。

 怒り、なのだろうか。

 名前を付けるつもりはなかった。

 どす黒い何かでいい。

 今は、それでいい。


「今はどうにも――――見過ごせないんだ、それ」


 忍者によって、何かが蹂躙されようとしていた。

 それが許せなかった。許したくなかった。

 拳を握る。

 格闘技なんてやったことも無いのに、不思議と体が構えをとっていた。ずっとそうしてきたかのように。

 気付けば、草也の腕は手甲ブレーサーに覆われていた。

 服も変わっている。草也はジャケットを羽織っていたはずだ。今は、鈍色の忍者装束を着こんでいる。着替えた覚えは無いのに。

 けれどそれらは、当然のことであるかのように思えた。

 そうであることが、当然であるように。自然であるように思えた。

 灯りの消えた定食屋の窓に、草也の横顔が映る。

 草也は、鬼を象った面を被っていた。


「行くぞ、忍者ども」


 戦い方は、魂が記憶している。



「――――――――僕も、忍者だ」



 踏み込む。

 間合いを詰める。距離は一瞬で零に。


「ゲッ――」


 遅い。

 世界がスローモーションになる。

 相手が反応するよりも早く。

 腰を回す。回転を腕に伝える。

 咆哮シャウトが腹の底から飛び出す。

 繰り出すはショートフック。


「イヤーッ!」

「ゲニッ!?」


 まずひとつ。

 至近距離から打撃を受けた戦闘員が、冗談みたいに吹き飛んだ。

 心地よい快感が草也の肉体に響く。

 他の戦闘員が慌てふためくのが知覚できた。遅すぎる。

 滑るように回転する。伸ばした脚を遠心力に任せて振り回す。残り四人。間合いは遠い。ここでいい。

 回転そのまま、虚空へ向けて繰り出すは廻し蹴り。

 わかる。

 力の伝え方。伝わり方。


「イヤーッ!」


 中空へ向けての神速の蹴り足は――――風の衝撃波を生成し、横並びの戦闘員を同時に切り裂く。みっつ。


「ゲニ!」「ゲニゲニ!!」


 ようやく、事態を把握した残り二人が左右から襲い掛かって来る。

 ひどくゆったりとした、大ぶりもいいところの挟み撃ち。

 思わず嗜虐的な笑みがこぼれた。正気か?

 それで本当に、勝てると思っているのか。

 力が漲っている。あと二人。名残惜しい気すらした。


「イヤーッ!」


 跳躍ジャンプ

 常人の三倍の高さで弧を描く。

 対応間に合わぬ戦闘員たちが眼下に映る。愉快な光景だ。

 忍者を翻弄しているのだ。草也が!


 高揚をそのままに、着地する。

 左方面の戦闘員のすぐ後ろに。


「イィィィヤーッ!!」

「ゲニッ!?」


 同時に、首根っこを掴む。

 旋回――――人ひとりを片腕で振り回せるだけの剛力が、知らずの内に備わっている。

 悲鳴を上げる戦闘員をぐるり一周振り回し、残るひとりに向けて投げつけた。


「ゲニッ!」「ゲニーッ!」


 もんどりうってもつれあうふたりを、しっかと睨む。

 肉体の中で膨れ上がる気力を、全身に充実させていく感覚。

 一歩、震脚にて踏み出す。

 轟音と共にコンクリートがひび割れる。

 腰を落とす。

 左手をゆっくりと前へ突き出し、右手をゆっくりと後ろへ引く。

 さながら、弓を引く武士のように――――否。

 草也は、忍者なのだ。

 これで終わりだ。

 口惜しい。名残惜しい。

 それよりもやはり、快なる興奮が勝った。

 叫ぶシャウト

 拳を真っすぐに突き出す。


「イヤーッ!!!」


 この技の名前も、草也は知らない。

 ただ、肉体が覚えていた。忍者の魂が溶け込んだ、他ならぬ草也の肉体が。


 ブーム!

 中空に放たれた正拳突きは、暴風を伴った。

 砲弾の如き風の衝撃波が、戦闘員二名を貫き――――爆散。

 爆風すら、余韻の暴風がかき消していく。


「……ははっ」


 笑いが、堪えきれなかった。

 忍者を倒したのだ。

 それも、一気に五人も。

 草也の家族を殺戮した暴虐の化身を、それを上回る暴虐によって殺戮してやった。

 そのほのぐらい復讐の快楽が、草也の全身を貫いている。

 圧倒的な力を手にした全能感に包まれている。

 今の草也なら、軍隊を相手にしたって立ち回ることができるだろう。

 ボクシングのヘヴィ級チャンピオンも、大相撲の横綱だって相手にならない。


「はは、はははは、はははははは!! ハハーッ!!」


 自分が神になったかのような錯覚。

 この力があれば、なんだってできる。なんだって。

 そうだ。まずは草也を殺したあの忍者を探して、殺してやろう。

 狩る者と狩られる者の立場が逆転したことを教えてやるのだ。

 そのためにまずは、適当な忍者を尋問して、奴の居場所を聞き出さなければ。

 同じ忍者なら、ヒントぐらいは知っているはずだ。そのはずだ。そうでなければ。

 自分勝手な妄想の展望に、しかし草也は心地よく身を浸していた。

 降って湧いた超常の暴力が、彼から正常な判断力を奪っている。

 さぁ、さぁ、さぁ、次はなにをしてくれようか――――


「――――――――命の恩人にこのようなこと、心が痛むのですが」


 声。

 反応――――する前に、足を払われた。視界が回る。


「ぐ」

「毒を、抜いて差しあげねばならないご様子」


 背中から地面に叩き付けられる。

 肺から空気と呻きが漏れた。

 視界に夜空が広がる。月が草也を見下ろしている。

 それと、女の顔も。見下ろしている。

 逃げていた女だ。草也がかばった女。この女も忍者だ。

 結局は、この女も敵なのか。所詮は忍者か。

 それならそれでいい。殺してやる。押しのけて、立ち上がって――――そうしようとして、動けないことに気付く。


「あ……?」

「ふふ……あまり暴れると、手足が千切れてしまいますよ」


 腕を縛られている。

 細い糸のようなもので。動けない。

 女が草也の上に跨った。軽い。しかし伝わる確かな重み。

 蠱惑的な笑みが、女の顔に浮かんだ。

 ちろりと紅い舌が厚みのある唇を撫でる。

 どき、と心臓が鐘を鳴らす。

 女は起伏の少ない、しなやかな肢体である。

 しかしそれでも――――あるいはだからこそ――――そのしなやかさの中に息づく肉感が、いやに目を引いた。

 はだけた胸元の、なだらかな隙間に眼を奪われる。

 吸い込まれた視線の先にあるはずの蕾が、惜しいところで隠れている。

 その事実が、どうしようもなく情欲をかきたてられる。

 つ、と女の白い指先が草也の首筋を撫で、顎先まで滑った。


「ぅあ……!」


 思わず、声が出る。

 体がびくりと跳ねる。

 くす、と笑う女の顔は――――甘く蕩けるような、捕食者の色を帯びていて。

 雪のように白い肌に、傷つき流れる赤い血が、かえって倒錯的な魅力を描き出していた。

 慣れた手つきで、草也の鬼の面が外される。素顔が外気に触れる。

 夜空に浮かぶ月が、遥か高みから草也の無様を見下ろしている。

 女が結んだ髪をほどいて首を振れば、艶やかな黒髪がぱさりと広がり垂れた。


「大丈夫。怖がらないで……快楽に身を委ねてくださいまし。ね?」


 そ、と女の顔が近づいてくる。

 甘ったるい、雄を呼び覚ますかのような香りが草也の鼻孔をくすぐる。

 自分の呼吸が荒いのがわかる。

 もはや拘束があろうがなかろうが――――抵抗することは、できないだろう。

 視界一杯に女の顔が広がる。

 互いの吐息すらかかるような至近距離。


「ん――――」


 優しい、触れるだけの口づけが落ちる――――その柔らかな感触に神経が向いた瞬間、今度は乱暴な、貪るような口づけが。

 口吸い、と呼ぶのが正しいとすら思える、舌で口腔を蹂躙するようなキス。

 甘ったるい香りが意識を包んでいく。

 いやらしい水音が静かに響き、草也の手足が痙攣にも似てよじれる。快楽から逃れようとするかの如く。


「ん、ちゅ……ふふ」


 口吸いを続けたまま、女の指先がなぞるように草也の下腹へと伸びて――――――――




「――――――――――――助けに来ましたよ、船守ふなもりさん! 無事で、っひゃあああああああごごごごごごごめんなさい取り込み中失礼しましたァァァァァァーーーーーッ!!!!!」




 …………慌てた様子で褐色の女子高生(豊満だ)が飛び出してきて、あっという間に顔を真っ赤にして逃げ去っていった。


「…………………………」

「…………………………」


 沈黙。


「――――では、続きを……」

「この流れで続けるのかよぉ!?」


 草也の全能感は死んだ。

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