奈落忍法道テンペスト

斧寺鮮魚

序章 松尾芭蕉、捕食

 ――――あいやここまで。故、ここはおれが請け負った。


 松尾芭蕉が、駆けている。

 ビルとビルの隙間を縫うように、路地と路地の合間を縫うように。

 およそ江戸の世からは思いもよらぬコンクリートジャングルを、しかし淀みなく俊足にて。


 ――――全員討死となれば、冥途で馬忍者めに合わせる顔も無し。なに、伊賀者のよしみだ、芭蕉殿。


 霧が立ち込めている。

 深い、深い霧である。

 これが人為的なものであることを、芭蕉は承知している。

 人を超えたる、人の業。

 即ちこれ、忍法・・の御業である。


 ――――真田十勇士の名にかけ、この六文銭はおれのものよ。霧隠才蔵最後の忍法奉公、とくとご覧じよ!


 霧隠才蔵は死んだ。

 命を燃やし、この巨大にして広大にして甚大なる霧の結界を張り、死んだ。

 悔恨が奥歯を噛み締める。

 忍びとしての未熟。俳句などにかまけて稽古を二の次とした結果がこれか。

 時代は違えど同門であると言って己を助けてくれたあの好漢は、芭蕉の未熟のために死んだのだ。


 ――――しからば、御免! 狸の世で我らの雄姿が語り継がれているというのは、中々胸がすく思いだったぞ! ふはははははははは!!


 あまつさえ、二人目・・・なのだ!

 芭蕉をかばい壮絶に果てたのは……あの男で、二人目なのだ。

 馬忍者。

 鮮やかな橙色の装束に身を包んだ、奇妙な少年。

 真っ先に殿しんがりを務めたのは、親と子ほどにも歳の離れたあの少年であった。

 この老人を逃すために、若い命から順に死んでいくとは。

 なんと度し難く、許し難いことであろうか。


 ……嗚呼。しかし、何よりも。

 その死を、悔恨を――――悼む一句を無意識に思索している己自身が、何よりも度し難い。

 この期に及んで、脳裏をよぎるは句のことばかり。

 才蔵殿。馬忍者殿。

 儂などのために死ぬ必要など、無かったのだ。

 もとより芭蕉には、彼らのように妖術めいた忍法を操ることなどできぬのだ。

 あんなもの、子供だましの風説に過ぎぬと思っていた。

 真田十勇士など、物語の中にのみ住まう架空の好漢であろうと思っていた。

 それが実在したというのに、この無能な老骨ばかりが生き延びてなんになるのか。


「……それでは、殿も務まらぬか」


 それが道理である。

 涙は流れなかった。松尾芭蕉、伊賀忍者として最後の矜持であった。


 形見代わりの霧が立ち込めている。

 この霧に乗じて、あれ・・から逃げおおせて……それから、どうしたものか。

 芭蕉には何もわからぬ。

 しかし、彼らの遺志に報いねばならぬ。

 その一心が、老体に俊足を与えていた。

 松尾芭蕉は忍者なのだ。

 妖術は使えないが、しかし遁法ぐらいはいっぱしのものを見せねば、才蔵と馬忍者に申し訳が立たない。そう思っていた。


 故に、駆ける。

 松尾芭蕉が、駆けている。

 ビルとビルの隙間を縫うように、路地と路地の合間を縫うように。

 およそ江戸の世からは思いもよらぬコンクリートジャングルを、しかし淀みなく俊足にて。

 五里も先まで霧中であれど、それに乗じてどこまでも。


 駆けて、駆けて、駆けて――――


「――――芭蕉さん!! 芭蕉さぁーん!!」

「っ!」


 声。

 足が止まる。

 今の、少年の声は。


「馬忍者殿……!?」


 馬鹿な、と驚愕がこぼれる。

 死んだはずだ。

 あの時確かに殿を務め、大爆発と共に果てたはず。


「あっ! よかった……無事だったんだね、芭蕉さん!」


 その少年が、霧中から飛び出す。

 鮮やかな橙色の装束で全身を包み、同じく橙の兜と面頬で頭部を防護し、手にはからくりのおもちゃを思わせる奇妙な刀。

 あの時死んだはずの、その姿のまま。その声のままで。


「な、なぜ……あの時死んだはずでは?」

「へへっ! 獣忍法ジュウニンポー空蝉の術、ってね! ギリギリで脱出が間に合ったんだ! それより、芭蕉さんが無事でよかった。おいらと一緒に逃げよう!」

「あ、ああ……」


 たかたか、と健脚でコンクリートを蹴って急かす。

 その仕草は、間違いなく馬忍者本人のそれである。

 明るい声ではきはきと喋り、忙しなく駆けまわる俊足の少年。

 静かにしばし、芭蕉は瞑目した。


「そうか。そうだったか……」


 得心がいったのだ。

 今ここに、少年がいるという意味について。


「どしたの? 早く逃げないと、あいつが――」


 差し伸べられた手。

 それを――――芭蕉は、袖より抜いた小刀にて切り払った。


「っ!」


 馬忍者が素早く手を引く。

 芭蕉も後ろに跳ぶ。霧中、かろうじて互いを視認できる程度の距離で、互いに睨み合う。


「…………。なぜわかった?」


 馬忍者が――――否。

 馬忍者の姿を奪った・・・男が、静かに殺気を立ち昇らせた。


「あの優しい少年がな。ここにおらぬ才蔵殿の安否を気にもかけぬなどということがあるか。……それに、あの時おぬしに挑みかかることを決めた馬忍者殿の声色には、決死の覚悟が確かにあった。奥の手がある者の声ではなかった。それだけのことよ」

「ふはっ! 流石に俳聖、語らぬ言の葉にこそ詩情を見て取るか……見事也、松尾芭蕉」


 世辞は要らぬ。

 ……そうこぼす余裕すらももう、無い。

 超人めいたあの二人でさえ敵わなかったこの男に、芭蕉が勝てる目など万に一つもあるものか。

 ここで会ったが故に、松尾芭蕉の百年目である。終わりだ。

 じり、と草履がコンクリートの上を這う。

 老いたまなこが、眼前の敵を油断なく見据えている。

 敵う訳はない。松尾芭蕉はここで死ぬ。

 それでも――――松尾芭蕉は、忍者である。


「――――――――参るッ!!」


 後ろへの跳躍。

 合わせて小刀を投げつけ、続けざまに懐より取り出した手裏剣を投げつける。

 まずは霧に紛れ、距離を取って隙を伺う。

 勝つ必要など無いのだ。

 万に一つの勝ち目が無くとも、万に一つでも逃げおおせる目があればそれでいい。

 それこそが、忍者としての心意気――――


「……はじめに言葉ありき」


 ――――その台詞は、背後・・から聞こえて。


「が、はっ」


 刃が、芭蕉の腹から突き出ている。


「遠未来の忍者から奪った跳躍の術ジョウントよ。似たような忍法は数多いがのう」


 あの、からくりのおもちゃを思わせる奇妙な刀だ。

 背後からそれを突き立てられ――――遅れて、血が臓腑より噴き出す。


「これももう、いらんな」


 男の言葉に従い、霧がかき消えていく。

 伊賀忍者百地三太夫に育てられ、真田幸村に仕えて数々の難行を果たした真田十勇士の好漢、霧隠才蔵の命と引き換えに街を包んでいた霧が、全て幻であったかのようにあっさりと。

 ……それは、あの漢の術さえも、無残に奪われたことを意味している。


「む、ねん」


 無念である。

 全て――――全て、奪われるのだ。

 我らをこの地獄に呼び寄せ、全てを喰らわんとするこの怪物に。

 霧隠才蔵の侠気も、馬忍者の覚悟も、松尾芭蕉の決心も。

 全て嘲笑い、喰らわれる。

 これを無念と呼ばずして、なんと呼ぼう――――嗚呼、しかし、胸中に浮かぶ、これは。


「そら、末期まつごの時だぞ、俳聖」


 言うな。

 そう急かさずとも、出るとも。

 そら、出すぞ。出るぞ。せめてこればかり。

 かすれた声で、血を噴き出しながらも、しかし。

 松尾芭蕉は、俳聖であるのだから。


「……旅に、病んで――――」


 無念である。

 まだ、浮世に触れていたかった。

 まだ見ぬを見て、数多を感じていたかった。


「夢は……枯野を……」


 ならばせめて、夢ばかりは。

 夢ばかりは、どうか。

 どうか、どうか遠くまで。

 数多を見て、感じて、背負って、どうか。


「………………かけ、廻る」


 どうか――――願う。

 瞳を閉じて、浮かぶ情景を、詠うのだ。


「良い句だ。では――――」


 力が抜けていく。

 死ぬからか?

 いいや、これは……わかっている。この末路は。




「――――――――いただきます・・・・・・




 嗚呼。

 松尾芭蕉の肉体が、末端から灰へと崩れていく。

 喰われているのだ。

 魂とでも言おうか。精髄とでも言おうか。なんと言おうか。

 とにかく、松尾芭蕉の本質である何か・・を吸いだされて、肉体が崩れていく。


 すまぬ、才蔵殿。

 すまぬ、馬忍者殿。

 そなたらの献身に、報いることができなかったことを、ただ詫びよう。

 死の間際、祈るように空を見上げる。

 満月に至ろうとして膨らむ月が、星も見えぬ夜空にしっかと浮かんでいた。

 嗚呼、あの月を、なんと表そうか――――


 ……思わず、苦笑する。


「……つくづく、度し難い」


 皮肉気にそう呟けば、松尾芭蕉の肉体の全ては崩れ去り――――死んだ。

 日本中を旅した俳聖の、酷くあっけない最期であった。


「…………ごちそうさまでした」


 血払い。

 おもちゃのような刀をひょうと振り、下手人が残心する。

 松尾芭蕉であった灰は風に消え、後に残るは静寂ばかり。

 橙の装束が闇に解け、捕食者本来の姿が月下に浮かぶ。


「“俳聖”松尾芭蕉」


 闇の中であるが故、細かな相貌などは判別がつかない。

 ただ、大柄な男であるということは確かである。


「“真田十勇士”霧隠才蔵」


 全ての色を混ぜ合わせたかのような、漆黒の忍装束に身を包んだ男である。

 歳の頃は中年か、初老か、老年か。

 少なくとも、少年ではあるまい。

 あるいはこれすらも、偽りの姿に過ぎないのかもしれないのだが。


「“忍方戦隊ジュウニンジャー”ウマニンジャー」


 その男は今しがた喰らった・・・・忍者たちの名を、反芻するように呟く。

 同時に懐から取り出したるは、なにやら巻物か。

 静かに封を解けば、中には無数の名が連なって記されている。


「…………はじめに言葉ありき」


 その名の内、三つ。

 すぅ、とひとりでに文字が消えていく。

 夜空に消えゆくその名は――――何者のそれであるか、ことさら説明する必要はあるまい。

 ただ、にぃ、と。

 男の口元に、三日月の如き笑みが浮かぶ。


 ――――この男は、神であった。


 この世界における、絶対の理そのものである。

 故に、はじめに言葉ありき。


「『我忍者遍く喰らわんとすアイ・イート・ニンジャ』」


 以て、この世の法とする。


「我、忍者を喰らう者ニンジャイーター也」


 ……男の影は、やがてどこへともなく消えて行った。

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