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 彼は、至極真面目な青年だった。


 少なくとも、最低限の社会常識をわきまえているつもりだったし、今の今まで誰かの迷惑になるようなことはしないように心掛けてきた。


 その日、営業の得意先で理不尽なクレームをつけられた時も、腹の中では小さな不満がうごめいていたが、それを抑え込み、誠意をもって対応した。


 こんな時は、缶コーヒーでも飲んで、気持ちを鎮めよう。


 そう思って、コンビニに寄ったが、お気に入りの銘柄が売り切れだった。


 仕方なく、違うメーカーのものを購入した。

 その時は、まあいっか、くらいの気持ちだった、のに。


 別の銘柄も、それはそれで、ちゃんとコーヒーだったし。

 そこまでこだわっているつもりはなかった、のに。



  ………………。


 なんだよ、みんな俺をバカにしやがって。


  


 社用車に乗り込み会社へ向かう間に、だんだん面白くなくなってきた。



 たまたまお気に入りの缶コーヒーが買えなかった、ただそれだけのことが、ひどく腹立たしくなった。


 次第に、みんなにないがしろにされているような思いでいっぱいになった。


  


 ムシャクシャする。


  

 なんだよ! エアコン利き悪いな! ポンコツ車め!

 

 思わずエアコンの送風口を叩くと、手が反れてクラクションを鳴らしてしまう。その音が耳障りだった。



 …………いつもは安全運転を心がけている。社用の、営業用のライトバンに乗っている時は特に。会社の名前を背負っているようなものだ。何かあれば、会社に迷惑がかかる、と思っていた。

 


 なのに。

 会社に近づくにつれ、何かが、切り替わっていた。


  


 ああ! ホントにムシャクシャする!!


 

 俺、何のために仕事してるんだ? 意味不明の八つ当たりされるために働いてんじゃねーぞ!


 コピー機に紙がつまる? あんな雑な使い方してんのが悪いんじゃねーか!


 説明が足りてねえ? 何回同じ説明させてんだよ?   マニュアル読めよ! 日本語読めねーのか?!


 上得意だからって、クレーム来る度に謝りに行かせられるし。

 そのくせ、会社に帰ったらまた嫌味を言われるんだ、どうせ。お前の初期対応が悪いからだろって。

 

 は? 最初に対応したのは俺じゃねーよ! バカ上司だろ?!


 そんな上司や会社のために、なんで俺は頭を下げなきゃなんないんだよ?!


 


 …………最初は、ほんの小さなものだったはずの不満の種がムクムクと育ち、彼の思考を雁字搦めにする。

 


 会社に続く道が混んでいる。イラつく!


 平日とはいえ、日中のこの時間、いつものこと、なのに。



 たらたら走ってんじゃねーよ!

 


 前を走る車を追い越そうとハイスピードでハンドルを切る。

 タイヤがキーキー悲鳴を上げるが、アクセルを踏み続ける。



 強引に割り込んで、さらに加速する。


 まっすぐ行くと、会社にほど近い商店街だ。混雑しているに違いない。


 まだるっこしい! 脇道を通ろう。


 そう考えて、交差点で右折しようと思ったら、十数メートル手前に来て、右折用の矢印信号から黄色信号に変わった。


 このままでは、右折のために一定時間停車しなくてはならない。


  


 イラつく!! いや、まだ行ける!


 


 青年はアクセルを踏みしめ、ハンドルを右に切った。


 交差点に入りこもうとする目の前で、歩行者用信号が青く灯った。


  


 ……高校生くらいの女の子が、横断歩道に飛び出してきた。


  


 あ! と思って、慌ててブレーキを踏んだ。けれど。


  


 すでに勢いよく曲がろうとしていた車は、反対側に切られたハンドルにしたがって、軌道修正を試みる、が。


 間に合わない……!!


 不意に、女の子の姿が、消えた。


 けれど、その存在があっただろう方向に、車は吸い込まれるように直進し。

  

 グシャッ!!

  



 

  


  


「土岐田君?!」


  


 繭実は、一瞬呆然として、直後に自分の下敷きになっているキリに向かって叫んだ。


 横断歩道に飛び出そうとしたら、体ごと引っ張られ、抱きしめられるようにして倒れこんだ。


 その目の前を1台の白いライトバンが通り過ぎ……斜め左の歩道に飛び込んだ、かのように見えた。


  


 大音響に驚いて道路を見つめていたら、うめくキリの声に、ハッとした。気が付けばキリに馬乗りになっている自分がいた。


  


「土岐田君!?」


「あ……うん。岳内さん、ケガはない?」


 起き上がり、繭実から手を放す。その手で、袖やズボンについた砂汚れを振り払う。


「私は大丈夫、だけど。……土岐田君? 腕、痛めたんじゃ?」


 繭実を抱きかかえるようにして、キリは右を下に倒れこんだ。


 野球選手なのに! 右利きなのに!


  


 もしケガをしていたら、どうしよう?!


  


「あ、大丈夫。うまく受け身が取れた」


 安心させるように、右腕をグルグルと回す。その手首が、赤く見えた。


「見せて! ケガしているじゃない!?」


 繭実は、振り回している手を捕らえて、引き寄せる。手首から前腕にかけて、大きく擦過傷ができていて、血がにじんでいる。


「擦り傷だよ。洗っとけば大丈夫」


「大丈夫じゃないわよ!! もし、雑菌でも入ったら……」


 キリの右手をしっかと握り、それからポロポロと涙をこぼす。


「岳内さん、大丈夫だから。泣かないでよ……」


 キリが途方に暮れていると、通りかかったおじさんが「君たち、危険だから離れなさい」と声をかけてきた。


 目の前では、警察や救急に通報したり、衝突したライトバンの運転手に声をかけたり、自発的に交通整理を始める人達で騒然としていた。


 交差点脇の市の観光案内所で休ませてもらい、流しを借りて傷口を洗い流す。繭実がそっとハンカチを差し出し、無言でぬれた腕に当ててくれた。血で汚れるよ、と止めようと思ったが、何となく有無言わせない繭実の視線を浴びて、キリは黙ってされるがままになっていた。


 そうこうするうちに、サイレンの音が響き、パトカーや救急車の到着を知らせた。


  


「青信号とはいえ、左右を見ないで飛び出すのは危ないよ」

「はい、すみません。急いでいて」


 警察官に状況を確認され、軽く注意を受けた繭実は素直に謝罪する。


「いや、怒ったわけじゃないからね。でも、無事でよかったよ。彼氏は、名誉の負傷をしたみたいだけど、大丈夫かい?」


 中年のおまわりさんが繭実を労わったあと、キリをに気遣い声をかける。


「い、いや、ハイ、だ、大丈夫です」


 彼氏、と言われてドギマギしてしまい、キリはどもりながら答えた。


「それはよかった。土岐田さんの息子さんだよね? 野球やってる。いつもお世話になってます」


「へ? あ、はい。こちらこそ?」


 いきなりお礼を言われて、キリは戸惑いながら返事をする。


「いや、将来はプロ野球選手になるって聞いていたから。良かったよ、ケガがなくて。でも、最近、本当にいやな事故が増えているから、気を付けてね」


「いやな事故?」


「ああ。今回みたいな信号無視とか、無理やり割り込みしたりとかの、荒っぽい運転もそうだし、……この間のエンジンかけっぱなしで車を離れるだとか。うっかりとか、ついとか、そんなんじゃ済ませられない感じの。運転手のモラルが下がっているって言えば、それまでなんだけど」


 じゃあ、お父さんによろしく、と言われ、二人は解放された。


  


「お父さん、警察の人なの?」


「じゃないけど、色々協力しているみたい」


 道を歩きながら、事情を知らない繭実に、キリは探偵事務所に勤める暎比古さんのことを説明した。


「ふーん。で、土岐田くんは、将来プロ野球選手になるんだ?」


「そりゃなりたいけど。……簡単じゃないのは分かっているよ。でも夢見るくらい、いいだろ?」


「別に責めてないわよ。本人の自由だし。でも、将来のプロ野球選手に大ケガさせなくてよかったわ」


  


 冗談めかして言うが、繭実の声は震えていた。


 強がっているが、今になって事故の恐怖を思い出したのかもしれない。


「……本当に、岳内さんのせいじゃないから。本当に、なんともないし。大丈夫」


「そんなこと……私……」


 視線を反らした繭実の声が、ぬれている。


 キリは、無言で繭実の手を握ると、ずんずん引っ張っていく。


  


「ちょ、ちょっと! 土岐田君!?」


 そのまま、スーパータケウチ近くの公園に戻ってきた。


「ゴメン、貸せるようなハンカチないんだ。だから、泣かないで」


 転んだ拍子にか、どこかに落としたらしい。あいにく、ティッシュもない。タオルならあるが……昼間使って、汗臭い。


  


「泣いてなんか……泣いたりなんか……しないんだから、いつもは」


 キリの言葉に、堰を切ったように、繭実の目に涙が溢れ出す。


「私……泣きたくなんか……ない、のに……」


「……だから、ハンカチないんだから……困ったな」


 そう言うと、キリは、そっと繭実の目の前に立つ。


 頭半分ほどの身長差があるので、繭実の目線はキリの肩辺りに並ぶ。


「汗臭いタオルより、マシだろ?」


 そのまま、繭実の頭を引き寄せる。


「……土岐田君、汗かいているから、意味ないじゃない?」


 くぐもった声でそう反論しながら、繭実は大人しくキリの肩に頭を乗せた。


 そして、ぎゅっと両手で、キリのシャツの胸元を握りしめた。


「……ゴメンナサイ」


 シクシクと、繭実は泣き続けた。震えるその肩が、何だかとても小さく、か弱く見えた。




 ……怖かったよな、岳内さん。


 ホントに、無事で、よかった。

 岳内さんに、何かあったら、俺…………。




 キリは、思わずその肩を、抱きしめた。


 そして。


  


「岳内さん、俺、君が、好きだ」


  


 耳元で、小さく、ささやく。


  


  


 驚いたように、繭実は、顔を上げ、キリを見つめた。


  


 そして、再び、キリの胸に顔をうずめる。


  


 明確な返答はもらえないまま、泣き続ける繭実を、キリは、今度はしっかり抱きしめた。


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