毎週木曜日は瑛比古さんにとって特別な日である。


 瑛比古さんが勤める「明知あけち探偵事務所」は、明知所長の所有する「明知ビル」の2階にある。

 このビルは所長の弟である明知大二郎氏(ちなみに所長のフルネームは明知小太郎である)との共同名義になっており、1階には大二郎氏がシェフを勤める「フレンチ風定食レストラン明知屋」がある。

 町でも人気の洋食屋さんである。


 大二郎シェフとしては、フレンチを手軽に味わってもらいたい、というコンセプトで開店したつもりなのだが(元は一流ホテルのフレンチレストランでチーフまで勤めたバリバリの本格派である)、客の要望を取り入れていくうちに、気が付けば洋食はもちろん、中華和食まで幅を広げている。

 人気メニューは唐揚げと和風ハンバーグ……『フレンチつける意味あるっスか?』とは、明知探偵事務所の中堅調査員・小早川秀吉くん、通称チャボの言葉ではあるが。

(瑛比古さんもそれには激しく同意するが、決して口には出さない。すぐポロポロ失言するチャボは、その度大二郎シェフからおかずを減らされるという報復を受けているのを知っているので。ネットなどサイバー上での情報収集と情報解析の技術は超一流なのに、失言が絶えない残念な童顔のとっちゃん坊やである。ちなみに「とっ『ちゃ』ん『ぼ』うや」でチャボである)


 明知兄弟の好意で、探偵事務所の所員はランチを格安でいただくことができるため、もっぱら昼食は明知屋で取っていたのだが、最近はナミがお弁当を作ってくれることが多く、明知屋ランチは週の半分ほどに減っている。


 けれど、木曜日は!!


 通常のランチメニューにはない唐揚げが日替わり定食のおかずになる日!!

(夜は注文可能である)


 なので、木曜日だけはナミのお弁当を断って、いそいそと明知屋に赴く瑛比古さんである。


 今日も今日とて、込み合う前にランチを取ろうと(明知探偵事務所の昼休みは各自のスケジュールで調整可能である)事務所を出ようとした瑛比古さんに、小早川くんが衝撃的な一言を発した。


「あ、明知屋、今日休みっスよ」

「へ?」

「シェフが腰痛めたとかで、臨時休業っス。朝イチ、所長が……」

「何だとぅ!?」


 しばし呆然と立ち尽くす、瑛比古さん。


 そのイケメンぶりに、甘い女性陣を始めとした所員一同は、その中身も熟知しているので、多少の残念な言動にもビクともせず、完全スルーである。


 元々フレックスタイムな職場なので、所員全員が揃うことは少なく、連絡事項は所内のホワイトボードに書かれている。


 朝は末娘のメイちゃんを保育園に送ったり、家でできる書類仕事をしたり(通常の調査報告書作成の他、明知探偵事務所には所長の奥さんの行政書士事務所が併設されており、実は行政書士の資格を持つ瑛比古さんも繁忙期には仕事を請け負うことがある)しながら、昼近くから出勤することの多い瑛比古さんなので、ホワイトボードはきちんと確認していたが。


  しかし、階下の店舗の臨時休業という、職務に関係のない伝言はわざわざ記入されるはずもない。


 探偵事務所や興信所によって勤務形態は異なるが、瑛比古さんの勤務形態は割と特殊というか、かなり自由度が高い。すでに20年以上勤務している大ベテランで、所長より発言力がある瑛比古さんだが、別に好き勝手にやっているわけではない。


 きっかけは愛妻・美晴さんの永眠とそれに伴う家事育児負担への所長の配慮だった。


 まだまだ男性の育児休業・育児短時間勤務などが受容されがたい現代で、従業員10名程度の小さな探偵事務所としては思い切った制度導入であったが、別に明知所長が警察畑出身のわりにリベラル、というわけではなく。


 それこそ、何となく、『大変な時期だから、仕事時間を調整するか』という好意から誰にも相談せず、瑛比古さんの時短勤務を認めてしまった。


 しかも給料据え置きである。


 これには所長の奥さまである花代さんが猛反発した。

 瑛比古さんにも土岐田家の子供たちにも甘い花代さんであるが、口約束のなあなあで瑛比古さんだけ特別待遇は、他の所員に面目が立たないと訴えた。

 それには瑛比古さん自身賛同して……法律に明るい2人、それも所長の妻と大ベテラン所員という所長以上の権力を行使して、就労規則を変えてしまったのである。


 おかげで瑛比古さんを始め、育児や介護、その他の理由により「時短=給与減額」ではなく、在宅勤務を就業時間として換算した上で、給与減額されないという、働く女性にも男性にも優しい就業形態が導入されることになったのである。

 

 閑話休題。


 そういうわけで、昼前だろうが昼過ぎだろうが業務に差し障りがなければ何時に出勤してもよい瑛比古さんであるが(休日以外は、一応顔だけは毎日出すことになっている)、木曜日は必ず昼前に出勤する。


 もちろん目的は、明知屋の日替わりランチメニュー、唐揚げ定食である。


 それなのに!


「いいじゃないっスか、瑛比古さん、毎日ナミくんの美味しいごはん食べてるんだから。ナミ君の唐揚げだって、めっちゃ美味しいっスよ」

「なんでお前は、うちの飯を当たり前のように食っているんだよ?! 確かに美味いけど!!」


 確かにナミの料理は美味しい。唐揚げもしかり。

 でも揚げ物きりでは栄養バランスが悪いからと、あまり回数を作ってくれない。


 昨日も、どうせ木曜日は唐揚げ定食を食べるんだからと、おかずはあっさり系の豚こまの冷しゃぶサラダで、しかもハルとキリのお皿には多めによそってくれたのに、瑛比古さんは少なめにされて。

 

「えー? いいじゃないっスか。ナミくんがお土産に食材買ってくるなら作ってくれるって言うから、この間も商店街の『スーパータケウチ』で荷物持ちまでしたっスよ。瑛比古さんが高校のPTAだかで夜いないっていうんで」

「……ああ、それは、まあ……助かったよ」


 キリの高校の野球部の父親の飲み会があり、小早川くんが家族連れで留守居をしてくれたのだ。

 単なる付き合いのつもりだったが、思いがけず高校の時の担任に再会できて、楽しい夜を過ごした。

 瑛比古さんが高校を無事卒業できるように奔走してくれた恩人の1人だったが、まさか息子同士が同じ年で、部員仲間になるなんて思ってもみなかった。浅からぬ縁を感じて、嬉しかった。 



「大丈夫っス。ナミくんの料理を味わえて、うちのママもヨックンも大喜びなんで。またいつでも行くっスよ」


 この場合の「ママ」は小早川くんの母君ではなく、奥様である。ついでに「ヨックン」は、御年6歳の愛息子ちゃんである。


 最近は用事がなくても土岐田家にも遊びにきて、メイちゃんに秋波を送ってくるので、土岐田家の男性陣は警戒気味であるが、流石に幼児には冷たくできず、用心深く見守り中である。


「まあ、その時は……あ、そうか、その手があった!」


 何も唐揚げ定食は、明知屋だけではないのだ!


 商店街の『スーパータケウチ』の斜め向かい、老舗定食屋の『みかん亭』が!


 あそこの唐揚げも美味いよな。


 思い出しただけで口中にジュワジュワ唾液が溢れる。


 でも、七日町商店街か。


 ふと瑛比古さんの頭を、今朝の新聞で目にした記事がよぎった。


 ほんの小さな写真が添えられた、事故の記事。


 写真が小さすぎて、はっきりとは分からなかったけれど。


 ……何となく、嫌な感じだったよな。


 身近で起きた事故なだけに、子供たちが巻き込まれていたら大変だった、という焦りの気持ちが先だってしまい、今一つ自信が持てないのだけど。


 幸いにケガ人もなく済んだはずなのに、何かの気配を感じた。


 まあ、事故の直後だから、野次馬も多かっただろうし。色んな思惑が混じったのかもしれないし。


 いつもだったら、気になるから現場を見てみようと考えるであろう瑛比古さんは、この時、それを避けてしまった。無意識のうちに。


 そして、ブンブンと頭を振って、瑛比古さんは思考を唐揚げ定食に切り替え、事務所をあとにした。


 




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