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 七夕を終え、夏休みまであと少し、というある日。


 昼休みだと言うのに、机に張りついて、黙々とノートに向かって鉛筆を走らせている少年がいた。


 外はいいお天気で……正直かなり暑い。

 にもかかわらず、元気いっぱいでグランドを走り回る子供たちの声が響いてくる。

 教室にも、キャーキャー声を上げておしゃべりしたり、ふざけっこしている子供たちがいて、なかなかの喧騒だったりする。


 もっとも、中には素晴らしい集中力を見せて読書に没頭したり、ノートに落書きしたりしている児童もいたりする。


 ともかく、みんな貴重な昼休みの時間を各々の楽しみに充てている……ハズなのだが。

 先ほどからひたすらノートに向かっている少年……土岐田波比古ナミヒコくん小学六年生は、時々手を止めて、眉をひそめて考え込む姿が見られていた。


「……なんか悩んでるみたいね、ナミくん」

「ねえ、何してるのか覗いてみない?」

「えー、やだよー!」

「ちいちゃん、行ってよー」


 波比古……ナミを遠巻きに眺めつつ、ヒソヒソ話をしている女子の一群の様子を岳内たけうち南海みなみさんは、読書に没頭してる風を装いながら、しっかり聞いていた。


 何が「やだー(はあと)」だよ……。


 外見的には文句なしの美少年であるナミに、淡い恋心を抱く女子は数え出したら、きりがない。

 同時に、彼女達がナミに対して、かなり本人からかけ離れた幻想を抱いていることを、南海さんは知っている。

 曰く、お母さんが亡くなって、忙しいお父さんやお兄さん達のお手伝いや、幼い妹の世話をしなければならない、健気で優しい少年。


 ……大筋では間違っていないんだけど、何か違うぞ?


 確かに土岐田家の家庭環境はナミに家事の大半を負わせてしまっている。

 けれど、こと料理と妹の芽比古……メイちゃんの世話は、ナミが積極的に引き受けているところがある。

 今ナミを悩ませているのは、最近とみにかさむようなってきた食費のやりくりであり、それだってナミが進んで請け負っているのだ。


(ナミに言わせれば、土岐田家の男性陣があまりにも大雑把な上に欲望に忠実なため、自分が引き締めないとエンゲル係数が上がる一方になってしまう、とのこと。小六でエンゲル係数とか言ってる男子ってどうなの!? とか南海さんは思うんだけどね)


 そんなナミの真の姿(ってほど大したもんじゃないけど)を南海さんか知ってるのは、幼なじみだとか特別に仲がいいとか……なんて理由ではなく。


 ナミが、七日町商店街「スーパータケウチ本店」……つまり南海さんの家が営む小規模スーパーの常連さんだから、だったりする。


 ナミの家に程近い「スーパータケウチ」は店舗だけなのだが、周辺の同業者の動向に合わせて閉店時間を遅くしたり、従業員を削ったりした関係で、南海さんの家族も帰宅時間が大幅に遅くなってしまった。

 まだ自宅が近ければいいんだけど、好景気の時に住居部分を潰して店舗面積を広げ、郊外に家を建ててしまった。

 ギリギリ学区内の自宅に帰るより、学校から程近い七日町商店街にいく方が楽だし、誰もいない家に長い時間かけて帰るのは防犯面からもよろしくない。


 ゆえに南海さんは放課後を「スーパータケウチ」周辺で過ごしているのが日課になり……そこに頻繁に買い物にくるナミや土岐田一家と遭遇する羽目になる。

 そうは言っても、単なるお客と店主の子、それも奥の従業員控室にこもっていることの多い南海さんが買い物にきたナミが顔を合わせることは、実はあまりなかった。


 小学校二年までは、クラスも違っていたし、顔くらいしか知らなかった。


 きっかけは些細なことだった。

 まだ、南海さんが小学校二年生だった頃。

 控室で宿題をしていると「ミナミー!」と読んでる声が聞こえて。

 慌てて店に出ると、かっこいいお兄さんが「ミナミー! ミナミー!」と声を張り上げていた……わけではなく。


 実は「ミナミ」ではなくて「ナミ」と呼んでいたのだ。

 とってもかっこいいお兄さんが自分の名前を一生懸命呼ばわっている……。

 たったそれだけのことで、南海さんは、恋に落ちてしまった。


 ハンサムで背が高くて優しそうな…………当時高校生だった、土岐田家の長男、晴比古……ハルに。


 それが単なる勘違いで、一緒に買い物にきたはずの、よく似た名前の男の子が迷子になっていると聞いて、南海さんは、一緒に探すことにした。


 スーパーの中にはいそうもなく、ハルと南海さんは商店街の中を探し回り、魚屋さんの店先でナミを発見した。

 正確に言うと、魚屋さんの店内から出てきたところに遭遇したんだけど。


「おう! 土岐田の兄ちゃんちのチビだったんか!」


 髭が生えてて強面で声が大きくて……実は南海さん、魚屋のおじさんが苦手なんだけど。


 その恐いおじさんが、ニコニコしてナミの頭を撫でているのは、そうして同じくニコニコその太い腕に絡み付いているナミの姿は、幼心にかなり衝撃だった気がする。


「スミマセン……こら! 勝手にウロウロしちゃダメだろ?」


 魚屋さんに頭を下げつつ、ナミを諭すハルに、魚屋さんは「ワッハッハッ」と豪快に笑って。


「兄ちゃんに黙ってきたんかー? そいつはイカンなあー! 今度はチャンと言ってから来いな? そしたらいつでも魚おろすの見せてやるからな」

 魚屋さんは「はい!」と元気よく言って頷くナミの頭をもう一度くしゃっと撫でて、店の奥から包みを持ってきた。


「ほれ、お母ちゃんに持ってきな……美晴ちゃん、好きだったからな。」

 中身は、魚屋さん自家製の魚の擂り身で作ったしんじょ揚げ。


(お裾分けでひとついただいてしまった。美味でした)


 ……後で聞いたことなのだけど。


 ハル兄さんとナミのお母さんは、ずっと入院していて、この少し前に亡くなっていたらしい。

 産まれたばかりの赤ちゃんがいて、そのお世話と家事を、お父さんとハル兄さんが分担しており、主に買い物に来るのはハル兄さんの役目だった。

 ハル兄さん会いたさに南海さんは、ちょこちょこ店先に出ていくようになった。


「今日もお手伝いしているんだね。えらいなあ」

 そう言われるのが嬉しくて、店のお手伝いも進んでやったりして。


 大抵ナミがついてきており、小四になると、それはナミの役目になっていたが、それでもお手伝いは続けていた。


 だって……。

「あ、南海ちゃん。今日お店行くからっておばさんに伝えてくれる?」


 親しげに声をかけられて、他の女子の恨めしげな視線を浴びて。

 以前は「イイ迷惑」くらいに思っていたのだけど。


「ん、分かった。言っとく」

 何でもないことのように返事をして。


 その実、息苦しいほど、ドキドキして。


 ……いつからなんだろう、こんな風に、ナミの姿を目で追うようになってしまったのは。


『みなみちゃん』

 名前を呼ばれるたびに、特別な存在のような気がして、ドキドキする。

 二十歳を過ぎて、すっかり大人になってしまったハル兄さんは今でも…というかさらにカッコよくて素敵なんだけど。


 ナミのことを考えると感じる、息苦しいような、胸が締め付けられるような感情はハル兄さんにはない。

 ナミが、好き。


 好きで好きで、好きすぎて苦しい。



 十二歳の少女の恋。


 幼いながらも、それゆえに凶悪なほど純粋で。

 持て余し気味の情熱に、身も心も震わせる姿は、既に女のもの。

 数年のうちに『女』として咲き誇る、開きかけた蕾。

 同じ年の男の子よりも早く目覚める心に、果たしてナミは気付いているのやら……。


「あ、メイちゃんも連れていってイイかな? 南海ちゃんと遊びたいって言ってたんだ」

 罪作りな笑顔の裏の思いを図りかねて。

「いいよ。私もメイちゃんと遊びたいっ!」

 にっこり。

 悲しいかな、そんな葛藤はどっかに放り投げ。


 即座に頷いてしまう、恋する乙女の南海さんであった……。

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