29.家族

 甘い花の香りは春の香りだ。澄んだ池の水には薄いピンクの花びらが浮かんでおり、小鳥が水を飲みに翼を羽ばたいていた。そよ風がイレーナの髪をくすぐり、彼女は目を細めた。


「またここにいたのかい」


 後ろから優しく抱きしめられ、耳元で囁く甘い声に驚くことはない。こんなことをするのは、一人だけだからだ。


「ええ。春の日差しが暖かくて」


 お腹に回された手に自分のを重ね、イレーナは後ろを振り向いた。空色の瞳が自分を捕えて、啄むような口づけが落ちてくる。


「――シエル」


 くすぐったいというようにイレーナが身をよじると、シエルが許さないというように正面から抱きしめた。肩口に頬があたり、シエルの指がイレーナの髪を愛おしげにすいていく。


「あなたはいつまでたっても可愛いらしい」


 再婚した夫は好きだとか愛していると伝える代わりによく可愛いと口にする。彼にそう言われる度、イレーナは顔が熱くなり、落ち着かない気持ちになった。そんな妻を見て、夫はもう一度、口づけした。今度はより深く、相手の呼吸すら奪ってしまうような口づけを。


 互いの体温を感じるようにぴったりとくっつき、イレーナはだんだん力が抜けていくようだった。もうやめなくてはいけない。でも離れたくない。このまま、あともう少し――


「おかあさーん!」


 元気よく響き渡った声に、二人はばっと勢いよく離れた。一瞬の出来事の後、ひょいと小さな男の子が茂みから顔を出す。


「あ! ここにいた!」

「ノエルさま!」


 遅れてやって来たアネットは、イレーナとシエルの姿を見てどこか焦った表情で呼びとめるものの、ノエルは気にせずイレーナに抱き着いた。


「いっしょにあそぼ!」


 夏の日差しを思わせるきらきらした瞳で見つめられ、呆気にとられていたイレーナは笑みを浮かべた。


「ええ。もちろん」


 身をかがめ、今年五歳になる我が子を抱きしめた。ぎゅうっと何のためらいなくしがみついてくるノエルに自ずと愛おしさがこみ上げてくる。


 ノエルはイレーナが産んだ子ではない。愛情を持てるかどうか――イレーナは正直不安であった。そんな彼女を励ましてくれたのは、やっぱりシエルだった。


 ――子を産んでいないという点では、父親も同じですよ。


 だけどきちんと育てて、愛する父親もいる。一方子どもを産んでもその後の世話はすべて乳母に任せっきり、という母親もいる。特に貴族の親はそういった場合が多い。イレーナの両親もそうだった。血が繋がって親子という関係ではあったが、どこか遠い存在。


 ――大事なのは、生まれてきた後の関わり方。


 シエルの言葉になるほど、と思い、イレーナは積極的に育児に関わった。絵本を読み聞かせたり、一緒に寝たり、広い庭で遊んだり。屋敷を切り盛りする仕事との兼ね合いで時間を作るのは大変でもあったが、小さな赤ん坊が成長していく様は実に不思議で、最初は可愛いというより、戸惑いのような、怖いような、よくわからない感情に包まれた。


 ――ノエルが風邪ひいた時は、本当に気が気じゃなかったわ……。


 顔を真っ赤にして熱にうなされていた姿はまるで自分のことのように辛く、一晩中横で看病していた。おかげでノエルの熱は下がったものの、今度はイレーナの方が寝不足になってしまい、シエルとアネットにたいそう心配されたものだ。


「おかあさん。なにしてあそぶ?」

「ノエルは何したいの?」

「えっとね……」


 うーんと小さな頭で必死に考える姿に、イレーナは目を細めた。


 泣いたり笑ったり、喜怒哀楽を示す感情表現が実に豊かで、イレーナは時に振り回され、どうしていいかわからなくなる時がしょっちゅうだ。放っておけばあっという間に危険な目に遭うし、構い過ぎるとこちらの身が持たない。一人の人間を育てることがこんなにも大変なことなのかと容赦なく突き付けられた気がした。


 それでもそんな存在から目が離せず、小さな身体で抱えきれないほどの温もりをイレーナに与えてくれた。初めはダヴィドに託された責任からノエルを引き取ったが、今は心から彼のことを守りたいと思う自分がいた。


「ノエル。お父さんとは一緒に遊んでくれないのか?」


 シエルがしゃがみ込み、ノエルに話しかけながらイレーナの背をそっと撫でた。弟や妹の面倒も見ていたという彼の息子への接し方は自分よりもはるかに慣れており、乳母のアネットは子育てに関してはイレーナよりも夫を信頼している節がある。


 それを少し悔しいと思いつつも、シエルにノエルのことを相談したり、日々の些細な成長を共に分かち合うことができて、彼が父親でよかったなと心底思う。


 今もこうして父は息子と一緒に遊ぼうと――


「おとうさんはおかあさんをひとりじめしちゃうからだめ!」


 素直な、それでいてどこか核心をついたノエルの発言に、イレーナもシエルも思わず顔を見合わせた。


 ――まさか、さっきの見られたんじゃ……。


 いや、大丈夫なはず。ぎりぎり、間一髪で離れたはず……。


 イレーナが内心冷や汗をかいていると、シエルは穏やかな表情で息子にたずねた。


「ノエル。お父さんはだめなのか?」

「うん! ぼくがおかあさんとあそぶから、おとうさんはだめ!」

「ノエルさま!」


 なんてことを! と青ざめるアネットに、言われた本人は目を丸くした後、吹き出した。


「そうか。そうだな。お父さんはついお母さんを独り占めしちゃうから、ノエルが遊べないな」

「そうだよ! いまだって!」


 頬を膨らませるノエルに、ごめんごめんとシエルが頭を撫でた。


「じゃあ今日はノエルがお母さんを独り占めしていいよ。だからお父さんも一緒に遊んでいいだろう?」

「……じゃましない?」

「ああ。しないよ」

「んー……じゃあ、いいよ」


 不承不承といった感じで頷く息子にシエルはありがとうと満面の笑みで抱き上げた。高い高いと持ち上げられ、不満げだったノエルの機嫌は一気によくなり、きゃっきゃと笑い声を上げた。


 木々の間から差し込む光に照らされ、ノエルの髪色がきらきら輝く。生まれたばかりの頃はマリアンヌを思わせる金色だったが、成長するにつれ色が濃くなり、シエルのような金褐色に今はなっていた。おかげで何も知らない人からはお父さんシエルによく似てますね、と言われる。


 ――今より大きくなったらどうなるのかしら。


 ノエルの出自については、何もなければ自分たちの子として育てるつもりだ。つまり、何も伝えないままでいる。


 もしノエルが成長する過程でイレーナとシエルのどちらにも似ていないと疑問に思えば、彼が成人する時にダヴィドの子だということを明かすつもりだ。相続の件もあるので、すべてを隠し通すことは恐らく無理だろうと思っている。


 一番の悩み、母親マリアンヌが愛人という立場であり、ダヴィドの命を奪って自らも命を断った、という事実に関しては伏せておくことに決めた。もちろん今のところはであり、可能であるならばの話だが。


 人の口には戸が立てられない。特に貴族社会で生きている限り。他人の口から残酷な事実を知らされるくらいならば、いっそ自分たちがすべてを教えた方がいいのではないか……でもいつ、どこまで伝えて、どう答えるのが一番あの子を傷つけずに済むか……悩まない日はない。


「おかあさん!」


 たぶんこれが一番正しい、なんて選択肢はないのだと思う。どの道を選んだって悩み続けるのだろう。


 ――それでも……。


「おかあさん。はやく!」

「イレーナ」


 どんな結末になろうと、ノエルを支えることに変わりはない。彼が苦しんでも、寄り添って一緒に受けとめる。 


 ――血が繋がってなくても、家族は家族だ。


 悩んだり笑ったり、かけがえのない日々を一緒に過ごすことが、ノエルの幸せになっていくはず。だから大丈夫だと、イレーナは立ち上がった。二人の自分を呼ぶ姿に、自然と笑みがこぼれる。


 もう子どもだった自分はいない。愛する人ができて守りたいと思う存在がいる。赤ん坊の泣き声が怖くて耳を塞いでいた少女は、ようやく大人になったのだ。



 おわり


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