殿下のお出まし

遠くで包丁がリズムを奏でている。


とんとんとんとんとん



とんとんとんとんとん


 人間の器官の中で一番早起きなのは耳なんだそうだ。まず耳が起きて、うっすら目が開いて、だんだん皮膚に感覚が戻ってくる。


 冷たい。と思ってぼくは目を見開いた。まるで寝ている間に顔の上に霜が降りたのかという、いくぶん寝覚めには強い刺激だった。

昨日の夜電気ストーブのオンタイマーを忘れていたらしい。


 うっかりしたなあ、とぼくは頭まで布団をかぶって子宮の中の胎児のような格好になった。圧縮された13歳の体温はみるみるうちに凍った顔を溶かしてゆき、ついにはじんわりと汗ばませる。


 布団の中から手を伸ばして枕元の目覚まし時計を引っ張り込むと時刻は7時20分を指していた。いつもならそろっとそろそろベッドから這い出て詰め襟に着替える時間だけど、今日ぐらい勘弁してもらおう。なんたって今はクリスマスとお正月の間っていう全国的にたるんだ日なんだもの。熱気と湿気を含んだ薄ぼけた空間に冷えた時計が心地よい。昨日の敵は今日の友。つい3日前までけたたましい音を発するキミのことをいまいましいとしか思っていなかったけど、しゃべらなければ結構良い面構えじゃないか。特に針の蛍光塗料、暗いところでもしっかり見えて実にクールだぜ!


 なんて、起き抜けから時計をおだててみたけれど、無機物はやっぱりなにも語らない。こんなに褒めたんだから「もう、なに言ってんのよ」ぐらい言ってみろよと人差し指で頭のボタンをぽちっと小突いてみたけど、うんともすんとも言わない。

 ぼくはいつの間にか時計のことを、いくら口説いても一向になびかない女性と重ね合わせていたみたいだ。まだ人を口説いたこともないし、恋という感覚もほとんど知らないけれど、もしかしてこんな感じなのかな。


 なんだかヘンタイみたいだけど、それからぼくは時計のことが妙に愛おしく感じて、文字盤に軽くキスすらしていた。そして、背中に手をかけいくつかあるボタンをこれでもかとまさぐった。



 その途端、けたたましい声が布団の中に鳴り響いた。ぼくは仰天して布団から飛び出し、ハッと我に返って時計に平手を一発食らわせて黙らせた。


 ぼくはベッドの上に正座して荒い息を整える。時計を見つめ「危ない危ない、一線を越えるところだった」と自分で自分に怖くなった。ひたいの汗をぬぐった。




 カーテンを開けると、窓ガラスがうっすら結露けつろしていた。ぼくは目線の高さのところに人差し指でおそるおそる「S・E・X」と書いてその向こうを覗いた。SEXの向こうには、雁木がんぎ通りを挟んだところにあるつぶれかけた金物屋のビルと、すとんすとんと真上から降ってくる雪が見えた。目の前のアーケードの屋根の積雪は50センチと言ったところか。一晩で20センチの積雪なんてこの町ではまだ序の口だ。これでひいひい言ってたら、生きていけない。

 

ぼくは「E」に目を近づけて、その奥で降り積もる雪をぼうっと眺めていた。

 

今年もまた雪との戦いか……


 雪に小躍りしなくなったのはいつからだろう。低学年の頃は授業中に初雪が降ると、窓側の席のやつが「雪だ!」と叫んでクラスの児童が一斉に窓のそばへ集まったものだし、ダンプやスコップを使った雪かきのお手伝いだってちょっと前までは立派な遊びだった。20分休みにも中庭に飛び出して雪合戦をしたり、ほんやら洞を作ったりした。ただただ、雪が降り始めるとため息をついてばかりの大人たちが不思議だった。

でも、ぼくもいつの間にかこちら側に足を踏み入れてしまったようだ。いったい大人ってなんなんだろう。雪が嫌いになったら大人ってことなのかな。それとも――






「おい!セックス!朝からお盛んらねっかじゃないか!エス・イー・エックス!」

自分の体がビクッと波打った。何事が起こったかと窓の外を見ると、アーケードの屋根に積もった雪の上に殿下が立っていた。

 ぼくは慌てて「S・E・X」の文字を手のひらでこすって消した

「アハハ、慌ててやんの、消してもムダらてだよ!指の油でまた浮き上がってくるすけから!」

「開けれてろよ!開けれてろよ!」バンバン!

本当はカーテンをピシャリと閉めてもう一度布団に潜り込んで時計に慰めてもらいたい気分だったけど、すべてを見られたらしいことに観念して窓を開けた。


「おう!邪魔するぜ!」

ぼくはこっ恥ずかしくて、雪をぼさぼさ部屋の畳に落っことしながら侵入してくる殿下と目を合わせられなかった。


「そんなセックスぐれえぐらいみんなもう知ってるて!誰にも言わねえて!」

殿下はそう言うと、ぼくの背中に雪のかたまりを滑り込ませた。

しゃっけつめたい!」ぼくは飛び上がると同時に背中に手を突っ込んで雪を畳に落とした。

「アハハ、やっと目が覚めたか!」


 殿下はなんてことない町の電気屋の一人息子だ。雁木通りの中腹、ぼくの家の隣にある「小野塚おのづかテレビ電化」。誰が呼び始めたのかは知らないけど、そこの息子だから「殿下」

 幼稚園に入る前からの幼馴染で、2人ともアーケードに面した部屋をもらったから、昔からその屋根をつたっての行き来が普通だ。でも、最近はお互いの部活が忙しくなったりしちゃって、以前の毎日行き来という状態ではなくなっている。


「カンジ、寒いすけから窓閉めてくれや」

「殿下が無理やり入って来たのに!」


すると、1階から母が呼ぶ声がした

「カンジ!ごはん!」

殿下は待ってましたとばかりに廊下へ出ると

「おばさん!おはようございます!」

「あら、今日は殿下お出ましが早いわねえ。朝ごはん食べてく?」

「はい!いただきます!」

そう言うと殿下はどたどたと1階に降りていった。


 ひとりぽつんと残されたぼくは、しょーしいはずかしい思いが蘇って来て顔から火が出る思いだったが、なんとか窓際に落ちている雪を頬に押し当てて冷静さを取り戻し、殿下の後に続いた。






「ごちそうさまでした!」

「はい、お粗末さまでした」

殿下はこたつの奥の席に座って、シャケの粕煮をおかずにごはんを3杯あっという間に平らげてしまった。そのうえ食後のお茶を飲みながら人んちの朝刊を優雅に読んでいる。殿下は肥満体なので、傍から見たら我が星名家の亭主だとカン違いする人もいるかも知れない。

「殿下は食べっぷりがいいから見ていて気持ちがいいわぁ!カンジは食が細いから」

母はそう言いながら空になった殿下の湯呑みに二杯目のお茶を注す。

「あ、おばさんありがとうございます!」


殿下はワシャワシャと新聞をめくって社会面をぼくに見せてきた。


『新型コロナウイルス 一日の県内感染者数100人超 十日町市でも1人確認』


「ついに来たなあ」

殿下は苦笑いを浮かべて続ける。

「もう、あんまり会えなくなるかもな。知ってるか?うちの吹奏楽部、この冬休み活動自粛だと」

 殿下はその肥満体を生かして吹奏楽部でチューバを吹いている。弦楽器やピアノならまだしも、息を吹き込む楽器なら自粛もさもありなんだろう。

「カンジの野球部はどうなん?」

「一応、午後から室内練習らしいけど……」


その時、不意に家の電話が鳴った

母が出ると、声の主は野球部の同期のキョウタらしい

「あ、カンジ! えらいこっちゃだぞ!監督からうちに電話かかってきて部活の活動自粛だって!」

「ウチもかよ!吹部すいぶは自粛って聞いてたけどさ」

「あと監督から、外に出るな!だって」

「りょーかい」





「うちも活動自粛。外出るなだって」

「ま、そうなるよなぁ」

殿下はひとつ深い息をついて壁にもたれかかった。



「殿下、お前帰ったほうがいいんじゃねえの?」

「いいよ、ここ俺んちみたいなもんだもん」

「そうだなー」


「カンジ、こういう重苦しい空気経験したことあるか?」

「ないなー」




「なに言ってるの!あんたたちまだ幼稚園にいたからあんまり覚えてないかもしれないけど、東日本のときなんて大変だったんだから!ねえお父さん?」

父「そうだな」

(あれ、お父さんいつの間に起きてきてたんだろう……?)

「あ、おじさん!おはようございます!」

殿下が元気よく挨拶すると、父は右手をちょこんと顔の前で上げて風呂場に行ってしまった。

「それで、あなた達が生まれる前だけど、中越地震っていうのもあってね」

 またこれだ。その話はもう耳にタコができるぐらい聞いた

「ちょうど晩御飯の支度が終わってね、さあ食べましょうってときにドーンよ。下からこう突き上げられるような揺れだったわ!」

「へえそうなんですかー」

と言いながら、殿下がこちらを一瞬じろっと覗き込んできた。ん、なんだ?


「ちょうどその日はアジフライを揚げていたのよ!それで揚げ終わって、さあ食べましょってときだったの!ね⁉あと3分早く揺れてたら間違いなく私は油かぶってたわね!」

はいはいとぼくは手のひらにアゴをめり込ませながら投げやりな相槌を打つ

「その日は怖かったわよー!夜中じゅうごおおおおって地鳴りがしてね。また余震もすごくてずっと揺れてて私なんて酔っちゃったわよ!」

「へえーそれは恐ろしいですね。それでそれで?」

「次の日からはもう大変よ!火事場泥棒の団体が押し寄せてくるとか、女子供は避難所は危険だとかよくわからない情報が錯綜してねえ!」

「テレビじゃ正確な情報流れなかったんですか?」

「流れないわよう!ここより小千谷おぢやとか川口かわぐちのほうがひどいって分かったらみんなそっち行っちゃうんだもの」

「じゃあどうやって情報仕入れてたんですか?まだインターネットもなかったですよね?」

「殿下、それはあった」


一瞬の沈黙


「でも一番安心できる情報をくれたのはラジオだったような気がするわね」

「ラジオですか?」

「そうよ!今のコミュニティFMはその時の災害FMが基になったのよ!」

「そうなんですか⁉」殿下が少し前のめりになった

「そうよ!殿下のお父さんも市役所に配線しに行ったって言ってたわよ?」

「ある意味、今のコロナ騒ぎも災害みたいなものよね。あんたたちも外出るなって言われてるんでしょ?」

殿下の目の色が変わった

「あんたたちまだスマホ持ってないし、一体どうやってみんなと連絡取るのよ。ほんと、嫌な時代になったもんよねー」


「お、おばさん!ここって俺んちみたいなもんだよね⁉」

「ま、まあ……そうね」

「てことは、平等原則を適用すると!俺んちもカンジの家みたいなもんだよね⁉」

「え、えーと。俺んちというのは殿下の家のことよね?殿下の家がカンジの家?」

「もういいです!ごちそうさまでした!また来ます!」

殿下はそう言い放つと急いで黒いジャンパーを着て玄関へと走り出した。


「おい!待てよ殿下!」

「なんだよ!せっかく面白いアイデアが浮かんできたってのに!」


「お前の長靴は俺の部屋だ」

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