家族
『お願い、ヌラッカを助けて……!』
突然現れた男の子にそう言われて、マリアンとベルカは思わず顔を見合わせた。
「その、ヌラッカというのは、あなたのご家族?」
マリアンが丁寧に尋ねると、男の子はこくりと頷いた。
「分かった。とにかくそのヌラッカさんのところに案内して」
なるべく穏やかな感じになるように声を掛けるマリアンに安心したのか、男の子は「こっちだよ」と嬉しそうに洞窟の奥へと進んだ。
「マリアン……」
険しい顔で名前を呼ぶベルカに対し、マリアンは黙って首を横に振った。
洞窟の中には明らかにブロブの匂いが充満している。男の子の言うヌラッカが彼の家族だとしても、この奥にブロブがいることは間違いない。ベルカはそれを警戒してるのだ。
一方でマリアンは、たとえブロブがいるのだとしても男の子がこうして無事でいるという時点で、そのブロブ自体には大きな危険はないと判断していた。危険があるとすれば見知らぬ人間だということで警戒されてという形だろう。しかしそこは、男の子を安心させることで敵ではないというのをアピールできると考えていた。
彼の後に続いて入口からは一見しただけでは見通せない、薄暗がりになった辺りまで進むと、匂いは一層強くなった。しかし男の子は平然としている。敢えて自分を囮にしているマリアンは男の子のすぐそばを歩き、銃を構えたベルカはその二メートルほど後ろを歩く。二人に危険が及べばすぐに対応できるように神経を研ぎ澄ませながら。
「ヌラッカ…」
不意に男の子が立ち止って、声を漏らした。暗がりに目が慣れ始めたマリアンの目にも、それは捉えられた。
「ブロブ…ね。この子がヌラッカ?」
ベルカの緊張は極限に達していたが、マリアンはむしろホッとした様子だった。彼女にしてみれば性質の悪い人間の方がよほど危険だと感じており、そうじゃなかったことで逆に安心したからだ。
マリアンに問い掛けられた男の子が大きく頷く。やはりこのブロブがヌラッカということか。
どうしてこんな幼い子供がこんなところでブロブと一緒にいるのかという事情も気になったが、マリアンはまず『ヌラッカを助けて』という彼の言葉通り、躊躇うことなくブロブに近付き、様子を見た。
そんなマリアンにベルカは舌を巻く。どうしてこの人はこんなに躊躇なく危険な真似ができるのだろうと。だが、マリアンにとってそれは危険でもなんでもないというだけであり、単に認識の違いでしかないのだろうが。
それでも、マリアンもちゃんと男の子の傍を離れることなく親密さを示すことは忘れていない。敵ではないとしっかりアピールしているのだ。
ハンドライトで照らしながら、マリアンはヌラッカと呼ばれたブロブの様子を間近で確認し、そして悟った。
「ごめんね。この子はもう寿命みたい。私の力じゃどうすることもできないわ」
口調は穏やかだが、変にオブラートで包んだりせず、マリアンは事実だけを告げた。そう、このヌラッカと呼ばれたブロブの体細胞は既に崩壊を始めており、それは寿命を迎えたブロブの典型的な状態だったのだ。表面が瘡蓋のようになって触れればポロポロと崩れ落ちる。それが進行すればやがて一気に崩壊してドロドロに溶けてしまう。それが、ブロブの<死>だった。
その時、
「コワイ…ニンゲン…コワイ…」
という、かすれたような声が。
「!?」
ベルカが周囲に意識を向けるが、自分達以外には誰もいない。なのに確かに声がした。するとマリアンが驚いたように、
「この子、しゃべれるの…!?」
と男の子に問い掛けていた。
「うん、ヌラッカはしゃべれるよ」
男の子の返答に、ベルカは「…は…!?」と言葉を失い、マリアンは嬉しそうに顔を輝かせていた。
「そうなんだ。しゃべれるブロブか。すごいね」
ようやく落ち着けて、皆、その場に座ることになった。どこかで拾ってきたのかカーペットが敷かれていて、そこがリビングということらしい。
男の子は自らをイリオと名乗った。両親とはぐれて、それ以来、自分よりは年上のマリーベルという女の子と、そしてこのヌラッカというブロブとでこの洞窟で暮らしていたのだと話した。
イリオの語る内容は、マリアンにとっては驚くものであり、かつあまりにも興味深いものであった。
さすがに小さすぎて本人は覚えていないものの、一緒に暮らしているマリーベルの話によるとイリオは三年ほど前に森の中を彷徨っているところを保護されて、それ以来ずっとここに住んでいるということ。マリーベルは彼よりも以前からここにブロブと一緒に住んでいたらしいということ。このヌラッカは三代目であり、三代目になってしゃべるようになったとマリーベルが言っていたということ。彼が保護された時にマリーベルが一緒にいたのは二代目のヌラッカだということ。マリーベルはヌラッカがしゃべりだす以前からブロブと話ができていたらしいということ。ブロブハンターが近付くと、マリーベルとヌラッカが追い払っていたということ。
そのどれもがすごすぎて、マリアンはふんすふんすと鼻息を荒くして聞き入っていた。
しかしベルカとしてはまた別のことが気になる。そのマリーベルという女の子が今、どうしているのかということだ。
「マリーベルは、今どこに?」
そう尋ねると、イリオは少し寂しそうな顔をして、
「分からない。用事ができたからしばらくでかけるって言って、四代目のヌラッカと一緒にどこかに行った。待っててくれたらいいからって」
と答える。
「四代目? ヌラッカは新しいのがいるのね?」
マリアンがそう訊くと、イリオは「うん」と頷いた。
「じゃあ、間違いなくこの子は寿命を迎えてるってことね。イリオがここに来た時に二代目がいたということだとすれば少し早いかもしれないけど、環境とかストレスとかで場合によっては寿命が短くなっちゃうことがあるから……
でも大丈夫よ。その四代目のヌラッカはこのヌラッカの生まれ変わりだから。この子は役目を終えて眠るだけなの。だから心配しないで。四代目のヌラッカが戻ってくれば今まで通りにお話とかもできるわ」
「ほんと…?」
マリアンの説明に、イリオは少し安心したような顔をした。
マリアンの言ったことは事実だった。ブロブは分裂によって肉体を更新するが、情報はすべて新しいものに引き継がれる。他の生物の死とは違い、ブロブのそれはあくまで自分自身を新しくするだけなのだ。
ただ……
ただ、このヌラッカと呼ばれる個体に限っては、少し事情が違うかもしれないというのもマリアンは感じていた。
「コワイ…コワイ…」と何度も繰り返すのだ。『ニンゲン…コワイ…』とも言っていたから単に人間を恐れているだけなのかもしれないとも思いつつ、まるで自分の死を恐れているかのようにも彼女の目には見えていた。だが、そのことはイリオには告げなかった。今の彼にはまだその事実は重すぎるかもしれないと感じたからだ。
こうして、一時間ほど経った時、ヌラッカはとうとう声を発することもできなくなったのか完全に黙ってしまい、その約五分後に、パシュッと音を立てて体が弾け、透明な液体を流れ出しながら崩れてしまったのだった。ブロブの<死>である。その液体は人間のリンパ液に似たものであり、害はない。僅かに残った固体の部分もそのうち乾いて細かく砕けて塵になる。液体も固体部分も土に混ざれば肥料となり、他の命の糧となるのだった。
『撫でてあげて』
まるで自分の死を恐れるかのように『コワイ…コワイ…』と繰り返すヌラッカに対して、マリアンはイリオに触れていてあげるように言っていた。そしてイリオも、言われた通りに最後の瞬間までヌラッカの体を撫でてあげていた。それは本当に、臨終間近の家族を労わるかのような姿だった。
体が崩れる直前、黙っていたヌラッカが小さく声を発したようにも思えた。小さすぎてよく聞き取れなかったが、
「アリガトウ……」
と言ったようにも聞こえた。イリオにも、マリアンにも、ベルカにさえそう聞こえた。
イリオは泣いていた。マリアンも泣いていた。ベルカの瞳にも涙がにじんでいた。大切な家族が亡くなる場面に遭遇してしまったのだと感じていた。
泣きじゃくるイリオをマリアンがそっと抱き締める。それは、幼い弟を慰めている姉のようにも見えた。
と、その時、
「誰!? あんたたち!!」
刺さるような厳しい声だった。そう声を掛けられるまでまるで気配すら感じなかったことで、ベルカの体が弾かれるように反応し、銃を向ける。
「ダメ! 人間よ!!」
マリアンも声を上げてベルカを制した。その二人の視線の先に、十歳くらいの少女の姿があった。
「マリー!」
イリオがぱあっと明るい顔で声を上げた。マリーベルだった。
マリーベルは、両手を腰に当て、見下ろすように険しい顔で三人を見詰める。しかし、イリオの様子から判断し、何か切羽詰った危険な状態ではないということは把握したようだった。
「で? あんたたちは何者?」
取り敢えず緊迫した状況ではないと理解しつつも、彼女は怪訝そうな表情で問い掛けてきた。まあ、無理もない。見ず知らずの他人が自分の知らない間に家に入り込んでいれば誰だってそういう態度になるだろう。
それを察して、マリアンは立ち上がって姿勢を正し、丁寧に応えた。
「勝手にお邪魔してごめんなさい。私は生物学者のマリアン・ルーザリア。彼女は私の助手兼ボディーガードのベルカ・ベリザルトンよ。ブロブの調査でこの森に来た時に、イリオに声を掛けられたの。『ヌラッカを助けて』って」
その言葉に、マリーベルは頭を掻きながらこぼす。
「イリオ、ヌラッカのことは心配ないって言ってたでしょ? そっちはもう抜け殻なんだから。こっちがヌラッカよ。四代目だけど」
そう言ってマリーベルは後ろに視線を送る。そこにはフルフルと体を揺らすいかにも瑞々しい感じのブロブが佇んでいた。
「まあでも、三代目を見送ってくれたことには感謝するわ。あの子はいろいろ大変だったから」
マリアン達の方に向き直り、マリーベルが腕を組みながらも少し穏やかな口調でそう言った。その様子に、『ああ、この子は不器用な子なんだな』とマリアンは理解した。
ただよく見ると、そのマリーベルの姿に違和感を覚えた。何かがおかしい。と、彼女の右腕に気付き、声を上げる。
「あなた、その右腕は…?」
それに対してマリーベルは右腕を掲げる。それは、肘から先が透明になっていた。よく見ると透明な部分の途中まで血管が走っているのも見える。しかし、それ以外は完全に透明だったのだ。
「ああ、これ? 人間にやられたのよ。まあ厳密に言うと、完全な人間じゃないけどね」
「人間にやられたって…?」
今度はベルカが問い掛ける。銃口はさすがに下に向けているが、警戒は解いていないのが分かる。そんなベルカに、マリーベルはやや嘲るような視線を向けて応えた。
「あんた、ハンターね? まあでも、ヌラッカに銃口を向けないのなら見逃したげる。あんたもハンターなら聞いたことくらいあるんじゃない? エクスキューショナーよ。あいつにやられたの」
「エクスキューショナー!? あいつに会ったの!?」
「なに? あんたもあいつに会ったことあるの? そうなんだ。じゃあ話が早いよね。ホント、嫌な奴だったわ」
「でも、エクスキューショナーはブロブを狙うだけで人間は…」
「だからヌラッカを狙ってきたのよ。でも、これは私のだから。誰にもやらない、殺させない。もちろんあんたにもね」
少々険悪な空気が漂い始めた時、マリアンが割って入る。
「その腕、もしかしてブロブ?」
単刀直入な質問に、マリーベルの意識がふっと切り替わるのが見えた。
「そう。エクスキューショナーがヌラッカを狙ってグレネードを撃ったのを思わず掴んじゃってね。それでこのザマよ。危うく死にかけたけど、ヌラッカが自分の体の一部を使って治してくれたのよ。だから、私にとってはヌラッカは命の恩人でもあるの。もっとも、最初に私をこんな体にしたのは初代のヌラッカだけどさ」
マリーベルの話す内容に、マリアンの目がキラキラと輝きを放ち始めるのがベルカには分かった。こうなるともう止まらない。このいささか礼儀知らずの生意気な少女に対しては思うところもあるが、後はマリアンに任せることにした。
「その話、詳しく聞かせて! 私、ブロブが人間にとっては必ずしも危険な生き物じゃないっていうことを証明したいの……!!」
食い気味に問い掛けてくるマリアンに、マリーベルの方が少し引く様子が見えたのだった。
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