紺の夜

第1話



 広島まで来てセックスかよ、と思わないでもなかったが、まあ仕方がなかった。そういう性分なのだ。それに今日は、いつもとは一味ちがう夜になるはずだった。


「あかりさんですか?」

「あ。莉子りこさん……ですか」

「うん。こんばんは」


 紙屋町西駅で降りた目の前にあるそごうの6階、紀伊国屋書店。待ち合わせ場所に現れたのは、ダークブラウンのショートボブが美しい女性だった。書店を待ち合わせ場所に指定してくる時点で期待はしていたのだが、これは期待以上かも、と思わず笑みが溢れる。

「待たせちゃったね、ごはんいこう。おなか空いてる?」


 莉子さんは、女性向けのマッチングアプリで見つけた3つ上の女性だった。「24歳。院生。甘やかすのが好きです」と書かれたプロフィール欄を見て、滅多に使わないスーパーライクを送った。

 食事の時間はずっと楽しかった。お互いの簡単な自己紹介をして、好きな映画やアニメの話をした。垂れ目と、すこし大きい涙ぼくろが印象的で、その目に見つめられると言葉がするすると出てきて話がはずんだ。

「じゃあ、今日広島に着いたばっかりなんだ」

「はい。一人で来たので、ゆっくり観光していくつもりです」

「大学の夏休みって長いもんね」

 話を引き出す相槌、視線。お手本みたいな傾聴なのにわざとらしくはない、奇跡のようなバランスで相対していた。

 この時の私はまだ余裕があって、すごい人だなあなんて呑気に考えていた。こういう人もいるんだな、きっと大層モテるんだろうな、そういうのどうやって身につけてきたんだろう、等。半分他人事のように考えて、だけど一晩の相手として大当たりであることは間違いなかったので密かに喜んだ。


「緊張してる?」

「…はい、すこし」

「しなくていいよ、って言っても無理か。女は初めてって言ってたもんね」

 店を出てからホテルの部屋に入るまで、さりげないエスコートでずいぶんともてなされた。

 順番にシャワーを浴びて、部屋に戻るとベッドに座った莉子さんがおいで、と手招きをする。

「甘やかすのが好きって書いてたけどさ」

ぐ、と腰を引き寄せられて、あっという間に、目の前に顔があった。

「イチャイチャするのも好き。してくれる?」

……本当にすごい。まずこの人、声が良いのだ。


**


 莉子さんはセックスが終わった後もちゃんと甘やかしてくれる性分らしく、広いベッドの中で2人で窮屈にくっついた。柔らかな手が髪を撫でていく。

 しばらく手や髪を弄ばれた後、ごめん、吸っていい? と聞かれる。いいですよと答えると、床に落ちたバッグからセブンスターとライターを取り出して、かち、と火をつけた。

リラックスした様子で煙を吐く横顔と再び目が合ったとき。私は、涙が出た。

「え、どうした? どっか痛い?」

莉子さんがまだ吸い始めたばかりのセブンスターを雑に灰皿に押し付けて、慌てて私に向き直ってくれる。

「私なんかしちゃったかな」

首を横に振る。しばらく泣いたまま何も話さない私を、呆れるでもなく辛抱強く待ってくれた。抱きしめられて、顔が見えないのが安心できた。

「話してもいいですか」

「うん」

「……好きな人がいて、バイト先の社員さんなんですけど。結婚してて、子供もいて。旦那さんと幸せそうだし望みなんてカケラもないから、せめて仕事で、優秀な子だと思ってもらえるようになろうと思って頑張ってるんです。でも、褒めてもらうたび、優しくされるたびにつらくて」

嘘である。

好きな人がいるのも、それが女性なのも。

 種明かしをすると、これは私の常套手段だった。といっても女性は今日が初めてで、普段は片想いの相手を男に置き換えた内容を話しているのだが。若い女が片想いの切なさに涙する様子はそれなりに庇護欲をそそるらしい。こちらが涙を流せば、つらいね、よくがんばってるね、と抱きしめてもらえることがほとんどだった。

 泣いている自分を誰かに抱きしめてもらえる時間が欲しくて、甘やかされたくて、もうずっと、こんなことを繰り返している。

 準備していた言葉を順番に口に出していくと、自分が本当にその境遇に立たされているような気がしてくる。気持ちが盛り上がってきて、涙がちゃんと、あとからあとからあふれてくるのだ。

「ふーん。そうなんだ」

 興味のなさそうな言葉と裏腹に優しい声が降ってくるから見上げたら、静かな瞳がこちらを見つめていた。あ、と思った。

見透かされていた。

 少し笑みを含んだ表情とこちらを見下ろす視線。こちらも敏い質なので、嘘が思うように機能しなかったことが分かってしまった。

 失敗したな、と思った。きっと呆れられる。まだそこまで深い時間でもないし、解散になるかも。仕方ないけれど、今から帰るのは少し寂しい。気まずくなったら嫌だなあと思いながら、大人しく次の言葉を待った。

「つらいね」

「……え、」

「望みのない片想いってつらいよね」

驚いた。彼女はこちらの嘘を見抜いて、その上でなお欲しい言葉をくれたのだ。ここに来てようやく私は、莉子さんが得難い人であったことに気づく。こんなことってあるんだ、と思った。

 嘘なんてつくまでもなく優しく甘やかしてくれる人だった。嘘をついても、呆れずに許してくれる人だった。許されたことに安心してすり寄った。肩口に頭をぐりぐり押し付けると、どうしたの、と甘く笑う。本当に、許されている。嬉しくてついむずがるような声がでて、ちょっとわざとらしすぎたかな? と思ったけれど、莉子さんは変わらず私を抱きしめて、あやすようにこめかみにキスを落としてくれた。


ずっと乾いていた何かが潤っていく気がした。

どこまでも完璧だった。

幸せだった。まずいなあ、と思った。


 翌朝。莉子さんはまだ眠い私の頭を撫でて、先に出るね、とささやいた。はやいからまだ寝てて。の言葉と一緒に、おでこに柔らかい感触。なんてベタなことをするんだろう、と思うのに、様になってて嫌味じゃなかった。


 昼前になってようやく部屋を出て、明るい日差しの中を一人で歩いた。通り道で見かけた素敵な店構えのパン屋に入った時も、結局荷物を置いただけになったホテルに戻った時も、なんだかずっとぼんやりしていた。ぼんやりしたままパンを食べて、手早く身支度を整えて、部屋をでる。今日は平和記念公園と資料館にいく日だ。

 広島には観光で来ていて、セックスのために来たわけではないつもりだ。ただ、女の人に抱かれてみたいというぼんやりとした願望を形にするのに、東京から遠く離れた広島はぴったりなように思えた。だからまだ東京にいた一昨日の時点で女性向けのマッチングアプリに登録し、広島で会える相手を探したのだ。莉子さんのような相手に出会えたのは僥倖だった。

 今晩はどうしようかな、と考える。また女の人で探そうかと考えたが、どんな人がきても昨日を超える夜になる気がしなくてやめた。だけど身体は空いてる。男を探すことにした。

 ここが東京のたとえば渋谷なら、ただ歩いてるだけで声をかけられてうまいことホテルに連れ込んでもらえるのだが、今日は広島だ。普段から使っている方のアプリを立ち上げて、慣れた動作で相手を探す。


 その夜釣れたのは、なかなかのいい男だった。

「あかりさんですか」

 細身で長身、人好きのする笑みを浮かべて、こちらの話をよく聞いてくれる。彼のほうが話してもなかなか面白かった。周りの女の人が放っておかないような人だ。

 悪くない夜だったけれど、相手にあまり集中することはできなかった。素敵な人のにごめんなさい、とぼんやり考えて、それから、セックスの間中ずっと昨日のことを思い出していた。


 次の日は、思えば待ち合わせの時点で最悪で、24と書いてあったのに20が来た。年下の趣味はないが、いまから別の相手を探すのも難しい。こういう時普段なら、固定の相手に声を掛ければ誰かは捕まるのだが、今日は広島だ。顔は可愛かったので、まあ仕方ないかと流された。流されてしまった。これがよくなかった。

「おねえさん、アイス食べよ」

そう言われて入ったローソンで、ユウマと名乗ったその男の子はカゴにぽいぽい商品を投げ込んでいく。酒、おつまみ、おにぎり、それから、

「……いいよね?」

上目遣いと共にコンドームが投げ込まれるのをみて少しだけ目を見開く。驚いたのだ。セックスを目論んでいることではない。その「お誘い」のやり方に。品がないというか何というか、本当に最悪だった。下手くそか? つっこみどころしかない。コンドームなんてホテルにあるでしょ。ないようなところに連れ込むならあらかじめ準備しておくべきでは? 等々。

 帰りたかったが、穏便に帰るために気を遣ったり嘘をついたりするのも面倒だった。最初から悪い印象がさらに悪くなってもうどうにでもなれという心地になっていた私は、僕お金ないんだよね、と彼が言うのにもハイハイそうですか、と諦めて、レジの前で財布を出していた。


「レジ袋要りますか?」

聞こえた声にはっとして顔を上げる。

「あ、」

莉子さんがいた。青い制服に身を包んで、ハンディを右手に持って、レジに立っていた。

「袋ください」

何も言えなくなった私の代わりに、隣からユウマが答えた。

「1872円です」

ああ、袋要るなんて言うから。莉子さんの手が商品をひとつずつ、手早くレジ袋にいれていくのを絶望的な気分で眺めた。酒、おつまみ、おにぎり、それから、コンドーム。名札の苗字を見て、そんな名前だったんだ、と呑気な感想が浮かんだ。現実逃避だった。

 カードで支払いを済ませて、差し出された袋を受け取って、いつもはもらわないレシートも受け取った。レシートいりますか? とあの声に聞かれて、いらないですと言いたくなかった。

 目は合ったはずなのに、合っていないみたいだった。私のこと、気づかないはずがないのに。莉子さんは終始、ただの店員としてそこにいるだけだった。

 

 何から何まで最悪だった。この後に及んで穏便に帰る方法と一人の夜の過ごし方がわからない私は、ぐちゃぐちゃな気分だったのに帰るとは言い出せなかった。そうして趣味ではない年下の男の子とホテルに行き、セックスの間中ずっと莉子さんのことを思い出していた。

 その夜は本当の涙がこぼれた。

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紺の夜 @wreck1214

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