2017.11.23 空想




 悲しいことばかり思い出す。



 あの時死んでれば、とか、あの日なんであんなことを、とか。考えてもどうにもならないことばかり、一人になるとどうしても、頭に浮かんでくる。


 例の先輩は、昨日の昼から帰ってないらしい。


 どうでもいいけど。今日も結局帰らなかった。上の人たちが血相を変え……てはないが、相応には苛立たしげな顔で、あちこち探しに出たそうだ。そんなわけで、工場は一旦操業中止。俺は訳の分からない似非黒魔術的な本とともに、シェアハウスに缶詰という運びになった。もちろん雅火さんと。


「結局さ。全部、空想だよね」


 だから例によって、誰も来ることのない事務所のソファで、二人してだらけていた。彼女は上の人から押しつけるようにして貰ったという、女主人公が独立してのし上がる小説を読んでいて、突然「つまらない」と本を投げたので、「女性の自立に反対?」と聞いたら、眠そうに首を振った。


「それはない。反対するだけの信念とか、私にはないから。ただ、これ……はじめに『女はこう生きるべき』って昔の空想があって、その上で暇な男の『女はきっとこう思ってるんだろう』っていう空想があって、その上からさらに『俺が女ならこう生きる』『女ならこう生きろ』の説教が乗っかってるっていうか。それをやっぱり他の男が空想で褒めちぎってるだけに見えちゃって。霞でできてるウェディングケーキみたい。食べれたものじゃない。しかも髪の毛ばっかり入ってるって感じ。別に、血によって書かれたもののみ愛するってわけじゃないけど、これは無理だよ」


 彼女曰く、女の自立とか権利とか、結局それも、暇な人が誰かから評価されたいがために使う、金儲けの便利な道具の一つでしかないんだろうなという、そういう話だった。虐げられているものは、常にそういう哀れな顔をしてなくてはならない。そう思っているんだろうと。


「蝶々がトラウマなんですね、あの人」


 ぽつりと俺がそう言うと、雅火さんは「蝶々だったの、昨日は?」とソファの上に死人みたいに寝転がりながら力なく笑った。

「別に、蝶々がってわけじゃないんだ、あの人は」

「どういうことですか」

「なんて言えばいいのかなぁ。あの人は……あくまで想像だけど、きっと秩序が崩れるのに耐えられないんだね。変わったタイプの強迫神経症というか」

 今日の雅火さんは元気なさげだったけど、その割にはよく喋った。酔ってるようにも思えたが、アルコールの匂いはしなかった。

「絵で言うなら、寒色系の色が並んでいるところに、差し色で暖色を入れる、とかを許せない。幸せな光景なら最後まで幸せに、不幸な光景なら全て冷たく不穏に。それを乱すものが現れると、可哀想なくらい混乱する人なんだよ。ここに私が来た時も、死ぬほど荒れたもの。慣れてもらったけど」

「ということは……蝶々は幸せの象徴なんですかね? あの人的に」

「なんじゃない? 綺麗なやつだった?」

「まあ……そこそこ?」

「ふーん。それじゃ、蝶にまつわる幸せな記憶がダブっちゃったのかもね。ああ、ごめんね。私も何か先に言っておけばよかったよね。先輩なのに」

 その謝罪にはあまりにも心がこもってなくて、怒る気にもなれなかった。だから、


「あの人、ゲイなんでしょ」


 と言った。少し責めるように。すると、

「君もバイでしょ?」

 と間髪入れずに返ってきた。なんでわかったのか聞くと、「別にそんなの見ればわかるよ」らしい。

「2人がそういうことなら、私が口挟むことじゃないかなあ、と思ったの。私鈍いから、人間関係の機微とか、駆け引きとか、よくわかんないし」

「バイであれ何であれ、あんなのは嫌ですよ」

「無理矢理されるのが? へー。君はそういう願望がある人なんじゃないかと思ってたんだけど、違ったんだ」

 なんて言い草だろうと彼女を見ると、私酷いことを言ってるでしょ、怒ってもいいよ、という顔をしていて、そのどこまでも温かい微笑を見たら、急に何も言えなくなった。ねえ、俺は怒らないよ。


「君みたいな人はね、罰してもらいたいんだよ。自分のこと、ちゃんと向き合って、力任せに壊してもらいたくて仕方がないの。みんなから無視されて、神様に見放される方が、ずっとずっと辛いもんね」


 それはあなたでしょ。


「じゃあ、空想しようよ。悲しいこと考えてても、悲しくなるだけだもん。楽しいこと考えよう? 旅行するなら、どの国がいいか、とかさ」


 俺は冬眠明けのクマみたいにのそのそ動いていって、雅火さんの上に覆いかぶさった。そして、彼女の小さい耳に口を寄せて言った。 

「もう頭使いたくないんですけど」

「んー……でも、昨日も眠れてないでしょ?」

「やったら寝れるかも」

「優しさに漬け込まないでくださいな」


 どろっどろに溶けてなくなりたかった。


 頭はボーッとしていたし、先輩のことも、黒いカードのことも、全部忘れたかったのだ。何もかも忘れて、雅火さんにいじめられたりいじめたりして、馬鹿みたいに甘えた声を上げていたかった。畜生。俺はやっぱりMなのかな。



「ちゃんと元気になってから、ね」



 頭をよしよしと子供みたいに撫でられながら、俺はちょっぴり眠った。いつものように一口サイズの睡眠だったけれど、今回はそれでも長めで、小一時間は寝てたらしい。目覚めてから、「重かった」と笑いながら嫌味を言われ、軽くお昼を食べて、午後にはぼちぼち掃除や家事をした。夕方になっても誰も戻ってこないので、またテレビを見ながら駄弁った。雅火さんはずっとどこか悲しそうだった。でも、こちらがさりげなくその悲しみの種を掬おうとするたびに、金魚掬いの金魚みたいにスッと避けられてしまって、もうどうにもならなくて、お手上げだった。


 結局上の人が戻ってきたのは深夜になってからのことだった。ゴリラ先輩は、一体いつ帰ってくるのやら。どこかで野垂れ死んでいたらどうしよう。なんか死なれていたら、目覚めが悪いから嫌だな。帰ってきても気まずいんだけれど。


 

 

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