2017.11.22 山に躓かずして③





 あのスーパーにはATMコーナーというのがある。



 公衆電話ブースよりは広く、公民館の図書スペースよりは狭い……ちょうど留置所みたいな広さの部屋が、出入り口のすぐ横にある。大手から地銀まで、カラーリング豊かに立ち並ぶ機械にはそれぞれ、懺悔室のそれのような高い衝立が立っていて、一歩内に入ると明朗な音声が告げる。いらっしゃいませ。ご希望のを選択してください。




 血のついたカードを手に、自動ドアの前に立つ。




 すると、透明なガラス越しに、涙ぐむ老人の縋るような目と視線がかちあった。入り口から数えて4個目のATMの衝立から、半身を乗り出して、こちらに口をぱくぱくさせて何か言っている。「大きなかぶ」の絵本みたいに、何か、必死に引っ張っているように見えた。一向に外に出てこない右手。予想がついた時はサッと体温が二度ばかり冷えた。


 自動ドアが俺のために開き、3つ目のATMから勢いよく万札が床に吐き出される。


 噛み飽きたガムみたいに地べたにぶちまけられてもなお無表情を貫く諭吉の顔に、苦い視線を向けながら、俺はそのATMに相対した。画面に触れるまでもなく、メッセージが表示される。お預け入れ。通帳記入。残高照会。俺は迷わず「お引き出し」のボタンを押した。別に深い考えがあったわけじゃない。あれは、ただの直感だ。

 次に画面に出てきたのはこんな文だった。



 悲しいですか?

[はい][いいえ]



 悲しいか、だって? なんでお前ら如きにそんなことを答えなきゃならないんだ。そう思ったが、隣の不憫な老人のことを思うと(彼は心臓を抑え苦しそうにしていた)、歯を食いしばりながらも[はい]を押すほかなかった。別にいいえでもよかった。なんとなく選んだだけだ。でも次の文面に、俺はカッと頭に熱い血が昇るのを感じた。


 大変申し訳ありませんが、お客様は悲しそうではありません。むしろ前より楽しいのではないですか? 今の人生は。

[はい][いいえ]


 冷静になる間も無く[いいえ]を押した。呆れたため息をつくような間があった。それから、こんな画面になった。


 あなたの家族は死にました

[確認]


 確認だって? ふざけるな。お前らが殺したんだ。確認ボタンしか与えられていないのが悔しかった。[いいえ]を押して、死んだんじゃなくお前らが殺したんだろ、と言ってやりたかった。


 知らない他人が殺されるのを見ました

[確認]


 勢いのままボタンを押したからよく読んでなくて、文面は違ったかもしれない。でもたぶんこれで合ってる。俺は確認を押した。あれこれ考えを巡らすのも腹立たしくてならなかった。


 トラウマのトリガーは人それぞれです

[確認]


 確認を押す。


 でもあなたは家族を思い出さない 一日だって

[確認]


 確認、を押そうとして、少しだけ指を止めた。思い出さない。のは。確かに。なんて、一瞬でも思った自分を呪った。思い出すこともできないくらいの地獄を見せたのは誰だ。確認ボタンを指で叩く。


 彼らは死んで当然だった? 

[はい][いいえ]


 なんて、なんて質問、という思いで頭がぐらりと煮えるようだった。これを、この文句を言い放つのに、わざわざ呼んだのか? この俺を。あの場には中学生もいたのだ。学校という狭い箱庭に苦しみ、それでも自分の人生を前向きに生きようとしていた、健気な子が。それに通りすがりに他人を助けただけの気さくな運転手も。彼らも死んで当然だって? 


「——人の言葉がわかるなら、」


 答えるのも馬鹿らしくなり、俺は語りかけた。

「なんで今までそうやって話しかけなかった?」

 すると、億劫そうに画面が変わる。


 あなたたちは日本語を話せるが、魚の切り身や鶏肉のパックには話しかけない

[確認]


「……食い物としか思っていないんだな。本当に」

 俺は失笑して、硬いサメの肌みたいにざらつく機械の側面を、力を込めてぎりぎり掴んだ。

「なら、なんで今は話しかけてきてんだよ。人の真似事なんかしてないで、さっさと喰えばいい。それしか頭にないんだろ?」


 また、物憂げなため息をつくような、何かを読み込んでいるような間があった。


 私はあなたを食べません。今は。

 代わりに一つ頼まれてください。

[はい][いいえ]


「頼まれる?」

 尋ねても、一向に反応がない。仕方なく[はい]ボタンを押すと、ようやく次の画面に進んだ。


 あなたの兄弟たちに虐げられている私の家族を、どうか早急に取り戻してください。彼は強引に形を変えられ、異形と組み合わされ、湖のほとりに閉じ込められています。彼らはあれを彼の『真の姿』と思っているようです。愚かしい。大きな誤りです。

[確認]


 俺の家族を奪っておいて、俺に自分の家族を取り返せと? 呆れと怒りを込めてボタンを押すと、画面が変わる。


 彼に罪はない。私を殺してもいい。でも私を殺したところで、我々の巣を絶たない限り意味がない。でもあなたには巣を見つけられない。一人や一億人では不可能なのです。でもあなたの兄弟たちは生まれたばかりの子を攫った。巣から出たところを、魂を穢すためだけに。あなたにはわかりますか? 燃やしてくれればそれで良いのです。

[はい][いいえ]


 お前らの魂なんぞ、初めから穢れきってる。

 そう思った。今も思う。でも、もし最も残酷な方法を選ぶなら、縋りつく手を取ったと見せかけて振り払う方がより酷い。だから、俺は[はい]を押してやった。シェアハウスに帰らなければならないことを思えば、[いいえ]を押して逆鱗に触れて、そのまま食われるのもよかったけれど。


「お前らにも仲間意識があるなんてな」


 その言葉に、ATMは返答しなかった。その代わりに、画面にはまた新しい文字が浮かんだ。


 報酬を望みますか?

[はい][いいえ]


 俺は鼻で笑って、[はい]を選んだ。与えられるものなら与えてみろ。お前らが殺した俺の家族を、もう一度生き返らすことができるならやってみろ。ろくに動けもせず、食うことしか能のない、クソったれのでくの棒にできるもんならやってみろ。そんな気持ちがあった。

 だが、






 ご希望の金額を入力してください。

[     円]






 この画面を見た瞬間、ぶちっ、と頭の中で何かが切れる音が聞こえた気がした。ふざけるな、という言葉すら出ないほど、胃の奥から怒りが迫り上がってきて、唇が震えた。金? 俺の人生を滅茶苦茶にして、その償いが、金? 


 殴りたかった。


 美しい液晶を潰して、薄っぺらいボタンを剥がして、臓物の奥に詰まった硬貨や紙幣も全部ぐちゃぐちゃにして、息の根を止めてしまいたかった。こいつが死ねば、俺はゆっくり眠ることができるかもしれない。そんなことさえ思った。

 でも、俺の横では人質のおじいさんがわなわなと今にも倒れそうに震えていた。全く無関係のじじいだった。もちろん、別に死んだって構わないだろ、と脳内で悪魔が囁いた。これ一人養うために、若者が何人貧困に喘いでると思う? こいつだって別に、全くの無実ってわけじゃないと。

 でも……この歳でこんなところに、一人で買い物に来ているんだ。彼は孤独なのだ。そんなじじいを見捨てて、欲望のままに暴力を選ぶなんて、それは人じゃない。俺は違う。奴らとは違う。

 そう強く心に念じ、ぐっと堪えた。そして、淡々と、しかしながら力強く、9のボタンを連打してやった。もうこれ以上桁がないというところを通り越しても、延々と。怨念を込めて、ひたすらに。

 やがて、諦めたように、取り出し口から真新しい黒いカードがするりと出てきた。



「カードをお取り下さい。ご利用ありがとうございました」


 

 カード番号も何も印字されていない、ただATMに差し込む向きを示す矢印が描かれているだけの、真っ黒くて艶やかなカードだった。俺はそれを、とりあえず財布にしまった。そして元々持っていた、血のついたカードを、ようやく解放された老人に手渡した。泣いて感謝してくれた。俺はその時何と答えたかは忘れたが、こっちまで泣きそうになったのは、少しだけ覚えている。







 帰ったら、シェアハウスにいたのは雅火さんだけだった。

「君があんまり遅いから、他のみんな、ラーメン食べに行っちゃったよ」

 彼女はソファの上で呆れたように笑いながら、読んでいた本をそっと閉じた。

「私もお腹減っちゃった。あ、お味噌汁要る? インスタントだけど、あさりとしじみ、あるよ。要るならついでに作るけど」

 あさりでお願いします、と答えた。別に意味はない。なんとなく。

 お弁当の袋をテーブルに置いたあと、俺はとりあえずシャワーを浴びたくて、浴室の方に行った。静まり返った脱衣所で服を脱いでいると、台所の方から、雅火さんの独り言が聞こえてきた。


「あ、最後の一個じゃん。この前買い足したばっかなのに……君は本当に人気者なんだねぇ、あさりくん」


 俺は少しだけ、少しだけ笑った。思えば今日笑ったのは、この時だけだったな。

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