世界を孕んだ乙女は

テケリ・リ

世界を孕んだ乙女は



「もう諦めなさい、魔王ダルタフォレス・アブソリュース。わたくしを本陣からかどわかしたとしても、既にこの魔王城は連合によって包囲されています。四天王を失ったあなたには、最早打つ手は残されておりません」


「敵陣に独りだというのに震えもせぬか。流石は歴代最高の聖女と呼ばれるだけのことはある。なあ、【暁の聖女】エルジーン・フォン・エペトフォニソカよ」


「魔王にまで名が知られていたとは光栄ですね。この魔都を覆う大結界の解除が望みでしたら、それは無駄なことです。たとえこの場でわたくしを殺したとしても、この結界が消えることはありません。維持は他の者達に任せていますから」



 魔王ダルタフォレスの私室であろうその部屋に連れ込まれたうら若き乙女――人類連合軍を【勇者】と共に支え牽引してきた聖女エルジーンが、ベッドに投げ出されつつも気丈にも睨み付ける。


 聖女の証である純白の髪は長く度重なる戦闘行為によって埃を被り傷んでいるが、そのような汚れなど瑣末とも思えるほどに彼女は清廉で、美しかった。

 人類の宿敵である魔王ダルタフォレスを睨み据える両の瞳は紅玉ルビーと見紛う真紅色で、自身の信仰と誇りを湛えて強い光を備えている。



「そうであろうな。いや、そうであろうとも」



 魔に属する者であれば誰しも恐れ、自身の不浄を呪わざるを得ない……そんな、まさに女神の威光の如き視線を投げ掛けられながらも、魔王ダルタフォレスは泰然としていた。



「だからこそなのだ。人類の勝ちは最早盤石。我が魔王軍の残党も包囲が完成する前に既に魔界へと退しりぞけた。ここには――この魔王城には私と、其方そなたしか存在せぬ」


「ならば尚更。何故なにゆえなのですか? あなたも退けば良かったものを」


「ふっ……。それでは魔族の王たる私の威信に関わるのでな」


「あなたの撤退は有り得ない……と?」


「その通りだ」



 魔王が身に纏う威圧感が高まっていく。黒曜石の如き漆黒の双角は雄々しく天を衝き、端正な顔立ちには嬉々とした笑みが浮かんでいた。



「【勇者】であるライオット王子をすら凌駕する神聖力を宿した娘よ。エルジーン・フォン・エペトフォニソカよ」



 その小柄な身体をベッドに乗せたエルジーンへと歩み寄るダルタフォレス。


 間近で魔王の威圧を受け、連戦の疲労も抜けていないため身動きが取れずにいたエルジーンの細い顎を、ダルタフォレスは意外なほど優しく手を添えて上げさせる。そして息が掛かるほど間近でその両の瞳を覗き込み――――



「其方に我が首を捧げよう」



 そう宣言したのだった。


 予想だにしていなかった言葉に大きく見開かれた真紅の瞳。その瞳は自身を真っ直ぐに覗き込むダルタフォレスの金色の瞳と交わり、初めて動揺に揺れた。



「どのつわものよりも多くの我が配下を葬った戦場の鬼神よ。そしてどの聖職者よりも多くの兵を救った慈愛の母神よ。初めて見た時から私のこの魔眼には、其方が誰よりも美しくそして……輝かしく映った。この者を己がモノにしたい……そして、この者になら討たれても良いと、そう思えた」


「何を……一体何を言っている――――んンッ!?」



 戸惑いを口にするエルジーンだったが、不意にその唇が塞がれる。他ならぬ魔王ダルタフォレスの、その唇によって。


 身をよじり顔を背けようと抵抗するエルジーンだったが、その細い腰と首を抱かれ身動みじろぎすら叶わない。何よりも、彼女にとって初めての口付けとなるそれはあまりにも衝撃が大きく……そしてあまりにも甘美なものだった。

 閉じた口が舌先でこじ開けられ、そのまま絡め取られねぶられて、室内に水音を響かせる。



「ん……ふぁ……っ!」


「我が首と引き換えに、其方の純潔を頂く。私が見初みそめた戦乙女よ。誇り高き聖女の証を私に捧げ、人類の勝利の礎とせよ。そして我が子を孕み、慈しみ育てるのだ」


「な、何を……っ」



 あまりの衝撃と淫靡な刺激により抵抗すらままならないエルジーンへと、ダルタフォレスは唾液の糸を引く唇を離し言い放つ。

 初めての強烈な体験に思わず身体に熱を感じ脱力してしまったエルジーンは、驚愕と羞恥に苛まれながらもせめてと瞳に力を込めてダルタフォレスを睨み付けた。



「其方の純潔と引き換えに、人類はこれ以上の命を損なうことなく勝利するのだ。そして私と其方の子が健やかである内は、この先魔界が人界を狙うことは無い。


「これは私を打倒した人類への呪いと祝福――〝くさび〟である。其方が我が子を悪と育てれば、子は新たな魔王と成り魔界へと帰還し、たちまちに混沌を巻き起こすであろう。


「しかし愛を以て慈しみ深く育てれば、我が子は聖王として人界を守護し、その命尽きるまで人界には平和が訪れよう。【暁の聖女】エルジーンよ。高潔にして慈しみ深き乙女よ。其方はこれより世界の運命を孕み、育むのだ」



 魔王によって告げられたその言の葉は、強くエルジーンの心を縛った。

 己の純潔一つで長かった戦乱に終止符が打たれる。女神より神託と加護を授かり聖女と成り、穢れを退け続けてきたエルジーンにとってそれは――――聖女としての己の死と同義でありまた、神託の遂行でもあったのだ。


 瞳を揺らしながら。早鐘のような鼓動を押さえながらエルジーンは、今まで関わってきた総ての者達の顔を脳裏に思い描いていた。


 魔王の子を孕めば、自分は最早彼等とは関われないだろう。健やかに育めと言った以上は堕胎し命を奪う訳にもいかない。そもそも女神に誓いを立てた神職に就く自分が、授かった赤子を殺害するなど出来うるはずもない。


 その人形のように整った顔を苦渋に歪め俯かせ、揺らぐ心と思考を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐くエルジーン。


 永遠のような、一瞬のような。そんな重過ぎる沈黙のときが流れ――――



「良いでしょう。わたくしを孕ませなさい、魔王ダルタフォレス」



 そうして言葉と共に上げられた顔は悲しいほどに決意を湛え……そして凄惨なほどに美しかった。



「良くぞ言った、我がいとしの宿敵エルジーン・フォン・エペトフォニソカよ。これより其方は私を打ち倒した覇者となり、そして世界の母と成るのだ――――」





 翌日の夜明けと共に、魔王城を包囲していた人類連合軍の陣中を困惑が、そして歓喜と歓声が飛び交った。


 ――――魔王城の消失。


 魔王ダルタフォレスの魔力によって顕現したその城の消失とは、それ即ち魔王が命を失ったことを意味していた。


 戦乱の終止符によろこびに包まれる連合軍から、代表として【勇者】ライオット王子の一党が周辺一帯の偵察を行った。そして魔王城が在った時には中心部であっただろう場所で、ある物を見付け出した。


 そこには人類の宿敵が生やしていた物と同じ黒曜石が如き二本の角と……【勇者】と共に戦場を駆けた一人の乙女の――――日の出と共に行方を探し続けていた【暁の聖女】エルジーン・フォン・エペトフォニソカの法衣が、一つのベッドの上に残されていたのだった。





 ◇





 人類連合が魔王率いる魔族達に勝利してから、十年の月日が流れた。人界とは隔絶された、絶海の遥か彼方の魔界からの侵攻はそれ以降は聞かれず、人類と呼ばれる種――人間族、獣人族、エルフ族、ドワーフ族――は互いの領分を定め、長らく待ち望んだ平和を享受していた。



「お嬢ちゃんカワイイねぇ〜! 俺らといい所で一杯どうよ? お酌してくれよぉ〜」


「結構です。こう見えてわたくし所帯を持つ身ですので」


「まあまあそう堅てぇこと言わねぇでよぉ〜! ナンだったら旦那より気持ちよく可愛がってやるぜぇ?」



 とは言え、魔王が世を去り魔族が魔界へと撤退はしたものの、大陸に蔓延はびこる魔物や魔獣まで消えて居なくなった訳ではない。

 故にそれらを相手取る戦闘屋――冒険者達も未だ存在した。そして腕っ節さえあれば稼げることも相まって、粗暴な者もまた多く存在しているのだ。今まさに女性を口説き手篭めにしようとしている、彼等のように。



「か、母様に近寄らないでくださいっ!」


「あ゙あ゙ん゙っ!?」

「んだぁ、このガキはぁ!?」



 そんな素行の悪い屈強な冒険者達の前に颯爽と立ちはだかる一人の少年。淡い紫色の髪は肩口で整えられ、金と紅との左右で色の違う瞳を真っ直ぐに男達に向け、果敢にも口説かれている女性を庇っていた。

 ――――否。颯爽と立ちはだかったは良いが、その華奢な肩や手先、そして膝は恐怖で小刻みに震えていた。そして男達がそんな様子に気付かない訳もなく。



「ぶひゃひゃひゃッ!! おうボウズ、震えちまってんぞぉ!?」


「オウオウおっかないなぁ〜っ! お兄さんちびっちゃいそうだなぁ〜っ!」


「ゲヒャヒャッ!! ガキはおウチに帰ってお留守番してなっての! 今からてめぇのママは俺らと楽しいデートだからよぉ!!」



 下卑た笑い声を上げ、懸命に立ち塞がるオッドアイの少年を押し退けようと手を伸ばす男達の内の一人。そしてその手が少年の肩に届こうとした、その時――――



「私の息子と妻に何をしている?」



 男達の背後から、決して大声ではないが威圧の込められた言葉が投げ掛けられた。

 物理的な重さと氷を思わせる冷気すら感じさせる鋭い声に、流石は冒険者と言うべきか男達は一斉に振り返ってそれぞれの得物に手を掛ける。しかしその顔は強張り、四人組の男達のいずれもが背筋に冷たいものを感じていた。



「なんだ、てめぇは?」


「聴こえなかったか? 私の妻と息子に何をしていると問うたのだ」



 濃い紫色の長髪を襟足で一纏めに束ねたその声の主は、を鋭くしかめて男達を睨む。

 端正な顔立ちをしているが、その立ち居振る舞いや腰にいた長剣の意匠、そして何より先程から放たれている殺気からも、その人物が只者でないことが感じられた。


 そして。



「ッ!? 紫の髪と金色の目……てめぇ、最近噂になってやがる【紫閃しせん】か……?」


「質問に質問を重ねるとは無調法な。だがその通りだ。ギルドより【紫閃】の二つ名を与えられたというのは私で相違ない」


「チッ……! 行くぞてめぇら」



 男達の一人が冷や汗を流しながら訊ねた問いを、【紫閃】と呼ばれた男が肯定する。それを聞いた男は顔色を悪くし、仲間達に振り返ってそう促した。



「ああ!? 何言ってんだよお前!?」


「そうだぜオイ。たかが一人だろうがよ」


「それもあんなヒョロい野郎に――――」


「いいから行くぞ! 相手が悪りぃんだよ……!」



 周囲に溜まっていた野次馬を押し退け、撤退を促した男とそれに追随する男達が姿を消す。喧嘩騒ぎを期待していたのか、周囲の野次馬達も一人、また一人と数を減らしていった。



「大事無いか?」



 それを『やれやれ』と溜息を吐きながら眺めていた【紫閃】は、金色の瞳を先程〝妻〟と呼んだに向けて無事を確認する。



「ええ、あなた。わたくしも息子も無事です」


「こうなるから宿屋で待っていろと言ったではないか。其方はもう少し自身の見目の麗しさを気に掛けるべきだ」


「大丈夫ですよ、息子が護ってくれましたもの。セロ、母を護ってくれてありがとうございます」


「母様! ……でも、怖くて何もできませんでした……。父様が来なかったら……」



 白髪の女性に続いて駆け寄ってきた淡い紫の髪の少年――セロは、あわや押し退けられそうになった先程の出来事を思い出し、表情を暗くした。

 しかしそんな少年の両の頬を優しく手で包み、女性は顔を上げさせた。



「いいえセロ。あなたが立ち向かったおかげで母はこうして無事ですし、父様が間に合ったのです。まずはそれを誇りなさい。大丈夫です、次はもっと上手くやれますよ」


「母様……はいっ! 父様、助けてくれてありがとう!」


「うむ、良くぞ母様を護ったな息子よ。父も誇りに思うぞ。そしてよ。無事で何よりだ」


「ええ。ありがとうございます、



 すっかり騒ぎは収まり日常の風景――それでも騒がしいことに変わりはないのだが――を取り戻した冒険者ギルドの建物から、そうして仲睦まじく、親子三人が連れ立って出ていったのだった。





「それでフォーレス、今回の報酬は如何でしたか?」


「うむ。やはり〝銀級〟の冒険者ともなると実入りの良い依頼が有って助かるな。たかだかワイバーンを五匹狩っただけで金貨五十枚だ」


「当面の生活費と旅費は賄えますね。いつも通り五枚ほど孤児院に寄付しても構いませんか?」


「またかエルジーンよ。其方も頑固と言うか何と言うか……」


「フォーレス、わたくしはです。あなたも覚えませんね、ダルタフォレス」



 夕食を終え、寝かし付けた息子セロの寝顔を見守りながら、聖女エルジーンと魔王ダルタフォレスがベッドに腰掛け、話し合う。



「そうは言うがな、私にとっては其方は今も私を打倒した【暁の聖女】なのだ。それをあの王国の者共め……総ての戦果は【勇者】の物だと吹聴して回り、あろう事か其方に間諜の罪を着せ貶めたのだぞ? 教会も聖女の証である白髪を忌避すべきものへと改めたというのに……」


「それももう十年も前に済んだ事です。あなたを生かすことを決めた時に、既に覚悟はしていましたから」


「……『子には父親の愛情も必要』か。まさかしとねを重ねている最中さなかに説教をされるとは、夢にも思わなかったな」


「当然でしょう。孕ませておいて育児を母親一人に押し付けるような無責任な殿方が父であるなど、どうして純粋なこの子セロに言えましょうか。本来育児とは、両親が共に努力して成し遂げるものなのですから」


「孤児院のシスターと神父の受け売りだったか……?」


「はい。わたくしを教え導いて下さった、もう一人の父と母です。もう亡くなっていますけどね。たとえ聖女として国から貴族位を与えられていたとしても、わたくしの家はあの孤児院なのですから」



 過去を懐かしむように細められ、息子であるセロの寝顔を愛おしそうに見詰める真紅の瞳。

 魔王ダルタフォレスは、そんなエルジーン――今はジーンと名乗っている自らの伴侶の腰を抱き寄せ、彼女の身体を自身に預けさせる。



「まさか私が人間族の……それも市井に紛れて子育てをするとはな。だが存外……これも悪くないものだ。日々の糧を自らで得、愛しい妻と息子の笑顔を眺めて暮らす……。魔王であった頃には決して味わえなかったであろう平穏を、今は実感している」


「わたくしもです、ダルタフォレス。聖女として戦いに明け暮れていたわたくしにとって、この暮らしは掛け替えの無いものです。魔族の誇りである角を折ったこと……後悔はしていませんか?」



 十年前の人魔の大戦の最後の夜、敵である聖女を見初めた魔王とそれを受け入れ身篭った聖女――エルジーンとダルタフォレスは、人知れず魔王城を消し去って闇夜に消えた。魔王の象徴であった二本の角と、聖女の象徴であった法衣をその場に残して。



「それも最早過去の事。得難き其方の純潔の対価と思えば、私の誇りなど安価に過ぎるものだ。セロの角を除去した時の方が、よほど堪えたな」


「あなたの睡眠魔法と、女神様がわたくしに残して下さった神聖術のおかげです。除去後も悪影響はありませんでしたしね。やはり人界で暮らすには魔族の象徴たる角は誤解を招きますから。ですがもう少しでセロも十歳。その時には、この子の片角で作ったお守りを渡して、わたくし達のことを話してあげるつもりです」


「それは良いな。なに、私と其方の自慢の息子だ。たとえ【堕ちた聖女】と【凶乱の魔王】の子だと知っても、私達が注いだ愛情に偽りは無い。きっと受け止め、己の糧としてより成長してくれるだろう」



 その後は街々を転々と渡り歩き、そして二人の子であるセロをとある寒村で、住民の力を借りて無事に取り上げたのだ。


 セロに体力が付くまではその村に身を寄せ、エルジーンは癒し手と子供の教育役として、ダルタフォレスは村の周囲に蔓延る魔物や害獣を駆除して過ごした。

 そしてセロが一歳となってから、二人の働きに非常に感謝していた村人達に惜しまれながらも、広い世界をセロに見せるために旅を始めたのだった。


 日々の糧は主に冒険者となったダルタフォレスが稼いではいたが、時にはエルジーンもセロを護りながら戦うこともあった。


 そんなこれまでの十年間を、健やかに眠るセロの寝顔を見守りながら思い返す二人。



「ふふっ」


「何だ、どうした?」



 突然思い出したかのように笑いを漏らしたエルジーンに、ダルタフォレスが訝しみながら訊ねる。

 起こさないよう優しくセロの髪を撫でるエルジーンは、十年前とは比べ物にならないほど成熟した女性の色香を湛えて、しかし悪戯イタズラを思い付いたような含んだ微笑で、ダルタフォレスの顔を見上げた。



「そういえば、セロがこんなことを言っていたんです。『僕も妹が欲しいです、母様』って」


「う、うむ!? いや待て、それは……!?」


「悪夢除けのお祈りもしましたし、あとは……」


「う、うむ……。私の睡眠魔法か……?」


「ふふふっ。女の子が生まれたら、どんな名前にしましょうか……」


「少々気が早いのではないか……?」



 ダルタフォレスが息子の睡眠を邪魔しないように魔法を行使する。

 部屋のランプの灯りを弱め、エルジーンとダルタフォレスは静かに、しかし情熱的に唇を重ねたのであった。





 ◇





「それじゃあ母様、父様。僕達は行きますね」


「お兄ちゃんのお世話はあたしに任せといてね!」



 更に月日が流れ、聖女エルジーン魔王ダルタフォレスの息子であるセロは、二十三歳になっていた。そしてセロや両親の希望通りに生まれた新たな命――妹のソフィアも、十三歳にまで成長していた。



「二人とも、達者で暮らすのだぞ」


「兄弟で助け合って、仲良くするのですよ?」



 今日は彼ら家族であらかじめ決めていた、息子と娘の旅立ちの日なのだ。


 息子のセロは憧れの父を超えるため、そして独立して都会の冒険者ギルドへと移籍するために。妹のソフィアは魔法と神聖術をより深く研鑽するため、兄と同じ都市の魔法学校へと入学するために。



「……本当に、これでお別れなんですね……?」


「ええ。わたくしと父様は、もう役目を果たしましたから」



 右目が母と同じ真紅の、左目が父と同じ金色の瞳をしたセロが、胸元に掛けた魔族の角を素材にしたお守りを握りしめて、一筋の涙を流す。



「私達の息子が、兄がそんなことでどうするセロ。其方も立派な男子おのこであり戦士であろう。ソフィアのことをしかと護るのだぞ?」


「はい……! 父様っ!」



 父から譲り受けた宝剣を佩き、涙を拭って胸を張るセロ。いつかゴロツキ相手に震えていた少年とは思えないほど精悍な顔付きで、真っ直ぐに両親を見詰め返す。



「ソフィア。あなたは誰よりも強く優しい、わたくしの自慢の娘です。セロと助け合い、あなたが思うままに生きなさい」


「ママ……。あたし、ママとパパの娘で良かったよ。歴史なんて信じない。ママとパパが愛し合ったおかげで世界が救われたんだって……ちゃんと知ってるから。だから大丈夫だよ……。寂しくなんか……ない……よ……?」



 兄とは逆で、右目が金色、左目が真紅の薄紫の長髪の少女――ソフィアは、今にも溢れそうなほどに涙を溜めて、しかしそれを懸命に堪えて母と――エルジーンと抱擁を交わす。



「ソフィアよ。セロほど長く共に居てやれず、済まなかったな。成長し母様のように美しくなった其方を、ちゃんと見届けてやりたかった」


「も、もうパパったら……っ! あたしはママにそっくりなんだから……! だから……もう、じゅうぶんキレイ……だもん……っ!」


「そうであったな。ソフィアは美しいぞ」



 エルジーンと抱き合うソフィアを、ダルタフォレスが一緒に抱きしめる。そこにセロも加わり、家族四人は長い時間抱き合い、別れを惜しんでいた。



「さあ、もう行きなさい。あなた達の目で世界を観て、あなた達の足で世界を歩いて、自由に選択を重ねて生きなさい」


「其方達は私達の宝であり誇りだ。自身の心と向き合い、誇りを傷付けぬ生き方を貫くのだぞ」


「はい、母様。父様。今まで育ててくれて……導いてくれてありがとうございました……!」


「大好きだよ、パパ。大好きだよ、ママ……! 愛してくれて、守ってくれてありがとう……!」



 息子であるセロが生まれ、そして妹のソフィアを生むために帰ってきた片田舎の村の外れで。

 次子の出産に伴いこの村に根を下ろした家族から今日、聖女と魔王双方の血を受け継いだ二人の子供が、旅立ちを迎えた。


 村を囲む柵の門から巣立っていく二人の姿は徐々に小さくなり……しかしエルジーンとダルタフォレスはその姿が見えなくなるまで、ずっとそこから動かずに見送っていた。



「行ってしまったな……」


「ええ……。あとは、わたくし達も」



 その日の晩から、その村で一家が暮らしていた家に、明かりが灯ることはなくなった――――





 かつて、【凶乱の魔王】と呼ばれた魔族の城が建っていたとされる土地。

 人類の勝利と平和の象徴として記念碑が建てられ、そこを中心に観光都市として栄えている……最後の戦場であった土地。


 その都市を一望に見渡せる小高い丘の上に立ち眺めている、一人の女性が居た。心地よい風に、彼女をかつて象徴していた純白の長髪がサラリと流れていた。



「懐かしいですね……」



 血で血を洗う闘争の日々。幼い頃から聖女の資質を見出され訓練と実戦を繰り返した、かつての記憶が脳裏を過ぎっていく。



「そうだな。この地で陣中から其方を攫い、私の子を孕めと言ったのが、ついこの間の出来事のようだ」



 そんな女性の背後から歩み寄る一人の男。女性と同じように紫色の髪を風に遊ばせて、その傍らに立った。



「まさか【凶乱の魔王】に見初められるとは、わたくしは夢にも思いませんでした」


「私こそ。首と引き換えにと言ったのに、生かされるとは思わなかったな」



 真紅の瞳と金色の瞳が交差し、漏れ出た穏やかな笑い声が風に流れていく。


 かつて人類連合軍を牽引し、聖女と謳われた女性――エルジーン。

 そして人類と敵対し、魔族を率い魔王として恐怖と絶望を振り撒いた魔王――ダルタフォレス。


 かつての宿敵同士はかつての戦場で、肩を並べ穏やかに言の葉を交わしていく。



「セロを初めて抱いた時のあなたときたら……」



 世界の命運を背負った子として生まれた、愛しい息子を思う。



「其方こそ、料理が苦手だったとはな……」



 市井に紛れて、拙くも真似事のように始めた今までの暮らしを思う。



「大きくなった才能溢れるセロに、つい本気を出しそうになっていましたね……」


「あの時は本当に焦ったのだ。仕方ないだろう……」



 子供の成長と共に増えていった思い出を語らい。



「ソフィアが生まれた時も、二人目だというのに大泣きして……」


「そ、其方だって泣いていただろう。心配だったのだからな……」



 いつしか真に家族として寄り添い、慈しみ愛し合っていた日々を、二人でゆっくりと振り返り、紡いでいく。


 すっかり夜の更けた空には満点の星が煌めき、頬を撫でる風は少し肌寒さを感じさせた。



「冷えるぞ。こちらへ来い」


「ありがとうございます」



 ダルタフォレスに肩を抱き寄せられ、その胸に身体を預けるエルジーン。

 かつて敵対し、戦乱に終止符を打ってから二十と数年。当時十八歳であった彼女は自身でも年甲斐もないと苦笑するほどに、胸を高鳴らせていた。



「……ダルタフォレス。女神様の加護が途絶える前に、ひとつ試してみてもよろしいですか?」


「……構わぬぞ。其方の思うようにするといい」



 エルジーンの授かった加護の消失が近くなっていた。


 本来であれば魔王の寵愛を受けた時点で失っていてもおかしくなかったのだが、世界の命運を背負ったことにより女神から慈悲を得たのだと、エルジーンはある日家族に打ち明けた。

 人類と魔族が再び争わないよう、その〝楔〟となる二人の息子セロを確と育むよう神託が下されたのだと、彼女は家族に語った。


 それが、二人の子供を手放し独立させた理由であった。加護を失うということは、授かった神託を完遂した証左であると、エルジーンはたった三人の家族に語った。


 ならば二人を縛り付ける必要も無くなる。ならばと二人の願いを聞き出し、思う様に生きていくための道を示し、そして二人の子供はそれを受け入れたのだった。


 しかしエルジーンにはあとひとつ、二人を導く他に叶えたい願いがあった。それはどうしようもなく浅ましく、人間らしい強欲な願いだった。



「――――願い奉ります、慈悲深き我が神よ……」



 胸の前で手を組み聖句を一節唱える度に、エルジーンの身体が薄く、淡く光を纏う。

 長く連れ添ってきたダルタフォレスの胸の中で、魔法とは異なる神聖なる術が行使される。


 そして纏った光が薄らぎ、エルジーンがゆっくりと顔を上げた。



「其方……!?」


「時間回帰――若返りの秘法です。子供達を見守る傍らで研鑽していたのですが、今この時、ついに女神様が願いを聞き届けて下さいました」



 そこには二人が出逢った時と寸分違わぬ、若々しさを取り戻したエルジーンが居た。

 目尻や口元にできていた皺は全て消え去り、かつて雄々しく輝かしく戦場を舞っていた【暁の聖女】が、ダルタフォレスの胸元から微笑みを浮かべて見上げていた。



「それほどまでに……時を戻したいと願うほどに、私は其方を苦しめていたのか……?」



 ダルタフォレスは衝撃と共に後悔する。自身の誇りや意地を天秤にかけ、たった一人の無垢な少女に世界を背負わせたことを。


 しかしそんなダルタフォレスの苦渋に塗れた顔を困り顔で見詰め、エルジーンはゆっくりとその首を横に振った。



「いいえ。後悔など一欠片もありません」



 手を伸ばし、ダルタフォレスの頬に添えるエルジーン。その手が添えられたダルタフォレスの端正な顔は、二人が出逢った頃のままであった。



「魔族とはずるいですね。寿命は人間族より遥か長く、若い時もずっと保たれる……。わたくしだけが老いていく……。それが悲しかったのです。ですから最後のこの時だけでも、あの時の姿に戻りたかったのです」


「エルジーン……」



 悪戯イタズラが成功したような笑顔を浮かべ、潤んだ真紅の瞳で見上げるエルジーン。ダルタフォレスはその言葉に顔を赤くし、そんな彼の頬をまた、瑞々しさの戻ったその手で優しく撫でる。



「愛しています、ダルタフォレス。セロとソフィアの父としても、もちろんわたくしの旦那様としても……。どうか、わたくしのときをこのまま停めて下さい。いつまでもあなたと共に、美しい乙女のままで……」



 懐から短剣を取り出すエルジーン。その切なる願いを受けたのか、彼女から溢れ出す神聖な力の賜物か。その短剣の刃は美しく、そして清浄な輝きを纏っていた。



「エルジーンよ……我が最愛なる乙女よ。たとえ幾年の刻が流れようとも、其方は誰よりも気高く慈しみ深く、そして美しかった。私の数百年の刻の中でただ一人の美しき乙女よ。私も……心から愛している」



 エルジーンの手から短剣を受け取ったダルタフォレスは、彼女の心の臓にピタリと切っ先を添えてから……あの出逢いの時のように唇を重ねた。


 深く……深く交わり合い、星の明かりに輝く刃は、エルジーンの胸へと埋まった。



「共に眠ろう、エルジーン。家族皆で……」



 ゆっくりと閉じていく真紅の瞳に語り掛けながら、ダルタフォレスは短剣を引き抜いて自らの胸に突き立てた。


 柔らかな丘の草の上に横たわりながら、二人は強く抱き合い、お互いの手を絡める。

 その手には、二人が愛し慈しみ育てた息子と娘の、幼い頃に取り除いた角から作られたお守りの片割れが二つ、強く握りしめられていた――――





世界を孕んだ乙女は 完




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