挑戦者

牛盛空蔵

本文

 糸島はやむなく嫌々決意した。

 必ずや公務員試験に合格して、ニートの地位を脱すると。


 彼は、世間でいう「Fラン大学」、学力が著しく低い大学の卒業者である。そして卒業後はゲーム、散歩、動画視聴をしながらニートをしていた。ゆえに学問のことも世間の諸事もよく分からない。

 しかし二十代も後半に突入し、そろそろ就職しないといけないという思いは人一倍強かった。本人が、ではなく、その両親が、である。

 糸島は度重なる両親の説得、脅し、実力行使、鉄拳制裁を受けて、やむをえず公務員試験の受験を決意した。彼としては死ぬまでニートを続けるつもりだったが、さすがに日々殴られ続けては仕方がないというものだろう。

 なお公務員試験を選んだのは、遠方の友人の助言を聞いたためであった。なんでも、既卒職歴無しでも、合格すれば職にありつけるし、民間よりは既卒や職歴無しの求職者にとって可能性があるとのことだった。

 彼としてはゲームクリエイターや漫画家の仕事をしたかったが、主に「お前にそんな素養はない」と唱える両親と友人の制止を聞き、やむなくあきらめた。実際、彼に創作の経験は一切ない。小学校のリレー小説体験授業は仮病で乗り切ったし、プログラムの教本は十ページで投げ捨てたし、絵の描き方の本に至っては買っただけで開かずに満足した。

 ほかの現実的な専門職の素養?

 あるわけがない。

 ともあれ、こうして、彼の公務員試験の道は始まった。


 といっても、公務員試験にはいろいろある。

 市町村役場、県庁、国税、労基、国家公務員、変わったものでは国立大学職員など。

 また国家公務員は大きく分けて、一般職と総合職がある。

 それらのうち、少なくともいずれかに、両親が決めた期間――およそ八ヶ月で試験に必要な学力等をつけなければならない。しかも金のかかる予備校を使わず、基本的に独学で。

 国家総合職、すなわち霞ヶ関官僚が最も難関であると聞いた糸島は「俺なら本気出せば、霞ヶ関ぐらいサクッと行けるだろう」と、きわめて無根拠な自信をあからさまに見せながら、勉強を始めた。


 しかし国家総合職は、一ヶ月ぐらいで挫折した。

 あれは普通の人間が合格できる難易度ではない。

 とにかくとんでもなく難しいのだ。糸島は他の国家試験になどまるで縁がないが、一説にはあの司法試験と肩を並べるほど難しいという。

 彼の学力では歯が立たない。おそらく七ヶ月後でも全く合格点に達しないだろう。

 糸島は「俺はお勉強だけの人間じゃないから、逆に望みがなくてよかったな!」などと強がりを食卓で述べ、両親にフルスイングで殴られた。


 もっとも、だいたいの公務員試験では、試験に出る分野がザックリとは共通しているため、国家総合職の勉強は無駄にはならない。

 また、日程の許す範囲内でなら、異なる種類の公務員試験を、ある程度は掛け持ちすることができる。もっとも制約はあるので、全てを一度に受けることはできないが。

 とにかくそこで、彼は霞ヶ関の代わりに、国家一般職、国税、県庁、県庁所在地の市役所等を受けることにした。


 こうして彼は、直面して当然の難局と挫折を乗り越え、より現実的な公務員試験合格へ向けて、再出発した。

 そこでいくつか分かったことがある。

 彼は勉強の先延ばしのために、再出発前は公務員試験の勉強方法についての本を読むことが多かった。一見無駄な行為に見えるが、勉強が進むにしたがって、その本の著者が説いていたことは九割方正しいとみえた。

 いわく。全問正解を狙う勉強はあきらめて、一定の捨て科目を作る。科目が選択できる場合、より無難な科目はある程度決まっている。経済学と数的処理という科目は、多くの場合回避できないので、決して捨ててはならない。予備校を使わない場合でも模試は受けるべき。……などなど。

 彼は「全てに無駄などない」とドヤ顔で経緯を話したが、残念ながら態度が無駄にでかいので殴り散らされた。


 そのうち、糸島は自分の肌に合う科目をいくつか見つけた。その科目で着実に点数を取れるように、深く勉強を始めた。

 ……問題は、得意科目が分かってもなお、国家公務員は一般職ですら、合格ラインを超えるのはなかなか厳しいということだった。

 模試――予備校のものでも、こればかりは受けさせてほしいと、糸島は両親に懇願した――の結果が雄弁に物語っているのだ。国家一般職向けの模試において、彼がとった偏差値は五十七程度。大学受験の偏差値とは異なるとはいえ、話を聞く限り、この成績では最終合格は難しいようだ。好きな学問を試験科目に使ってすら、この有様だった。

 なお国家公務員は、一般職と総合職の別を問わず、試験とは別に官庁訪問というものが必要だったが、ここでは詳説しない。

 とにもかくにも、彼はこの試験の道における厳しさを知った。


 では彼は戦意を失ったかといえば、そうでもない。

 県庁や大規模な市役所に向けた模試では、同じ官公庁を目指している者同士の中でも、偏差値は七十を超えていた。それもギリギリではなく充分にお釣りがくる程度には、なかなかに捗っていた。

 きっと好きな試験科目を偶然発見でき、それに打ち込んだおかげだろう。逆にいえば、それが見つからなかったら、彼は再びニート化する危機に見舞われていた。

 幸運。まさに幸運としか言いようがなかった。

 勝ち目はある。国家総合職はあきらめ、国家一般職も厳しい状況だが、ひとまずわずかでも光明は見えた。

 彼は地方公務員の志望者に向けた模試の結果を見て、ニヤニヤしていたところ、あまりに気持ち悪かったのだろう、両親にぶたれた。


 最初の試験が来たら、あとは風のように過ぎ去っていった。

 しかし緊張はしなかった。問題への回答はいつもやっていることであり、公務員試験そのものにも、模試などの経験もあり、もう慣れていた。

 ひたすら彼は、試験本番を戦い続けた。


 ほどなくして、一次試験合格の通知がいくつか来た。

 主に県庁と大規模な市役所で、国税も一次合格とのことだった。

 また、意外にも国家一般職も一次は通った。しかし官庁訪問や二次試験……面接を含めた総合得点の戦いを乗り越えられるとは思えなかったので、無駄に力むことはしまいと彼は考えた。

 脱力した瞬間、両親に「気合が足りない!」と叱責され殴られた。


 面接もすぐに過ぎていった。

 面接は独学者の場合、なかなか充分には練習できないものだったが、それに不満を言っても仕方がなかった。

 そこで彼は、実践経験がないと不充分であることは知りつつも、公務員試験の面接についての本を読み漁り、徹底的に面接を勉強した。

 あとは一次試験の「貯金」、余剰の点数に頼るしかない。

 彼は、ニートだった時代からは考えられないほど、前向きだった。


 結論を述べよう。

 最終合格通知が来る前に、彼は父から、その旧友の事務所に雇われるよう手配され、彼もそれを受け入れた。

 つまり公務員にはならなかった。

 もっとも、父は公務員をあきらめさせるために紹介したわけではなさそうだった。むしろ父が旧友に、勝手に模試の記録を見せたところ、相手方は主に法学系の得点率にはなはだ驚き、法務の卵として正規で雇いたいと申し出が来たという。

 公務員にはならなかったが、その途上で行った努力は、報われた。

 全ては無駄ではなかった。

 彼は、両親にぶたれた時ですら見せなかった涙を、ぽろぽろとこぼした。


 十年後。彼は、たまたま物の整理をしていたときに、最終合格の通知を発見した。

 県庁と、いくつかの市役所。

 彼は、つらくも人生を切り拓いたあの日の努力を思い出し、重要書類のケースに、大事にしまった。

 終生忘れることはないだろう。

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挑戦者 牛盛空蔵 @ngenzou

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