第38話 雪玲と彩妍


 いったい、なにが起こったのか分からなかった。気が付いたら雪玲は倒れていた。意識を失った気もするし、保っていた気もする。

 意識が混濁こんだくし、体の自由が利かない。恐らく、気が付かないうちに毒を盛られていたのだろう。手足に痺れがないことから麻痺性のものではなく、筋肉弛緩作用がある種類ということだけ判別できた。


「馬鹿は本当に嫌だな。言われたことだけやればいいのに」


 雪玲の臥台に腰掛けた少女は不愉快な色を宿した目で床に伏せた高貴妃を見下した。その氷の色と同様に、冷たい視線を目の当たりにして雪玲はゾッとする。背中に氷水を流し込まれたように血液が冷たくなり、肌が粟立つのは生まれて初めての経験だった。

 少女のことは知らないはずなのに、その声はよく知っていた。予想が外れて欲しいと願いながら息をひそめて、体の動きが戻るのを待った。

 雪玲の意識があることを悟ったのか少女は可愛らしいかんばせに花のような笑みを浮かべる。


「やあ、春燕。——いや、雪玲と呼んだ方がいいかな。体調はどうだい?」

「さ、いけん……?」

「そうさ。彩妍だよ」


 予想は当たった。当たって欲しくはなかった。


「どうして、私の名前、を……」

「最初からなんとなく。確信を得られたのは鳥兜が効かないと分かった時さ」

「あれ、は、彩妍が?」


 ああ、と彩妍は頷く。どこか嬉しそうに笑いながら。


「君が雪玲か確かめるためにね。崔婉儀には恨みはないけれど、あの時間に伺えばおやつを進めると思って仕込ませてもらった」


 時間が経過すればある程度、体を動かせるようになるはずだ。どうにか会話を続けて時間を稼ごう、と雪玲は感覚のない舌を動かして言葉を作る。


「やけど、も、嘘だったんですか?」


 桃花のごとく愛らしいおもてには火傷痕どころか染み一つ存在しない。全身に大火傷を負い、黒衣で隠しているのは嘘だったのか。


「やはり、すごいな。君でも満足に喋ることはできないと思っていたのに……。ねえ、どうだい? 鴆毒を元に私が独自で作り上げてみたんだ。君の意見が聞きたい」


 からからと笑いながら、香炉を持つ右手を持ち上げる。袖が落ちて覗く腕にはいつぞや見た火傷痕が刻まれていた。


「あっ、この腕のは本物だよ。これを見せればたいていの人間は私の全身が火傷に覆われていると勘違いしてくれるから便利だよね」


 彩妍は火傷痕を指先で撫でた。

 その光景を見ながら、雪玲ははっとする。聞き流してしまったが今さっき、彩妍はあの言葉を口にした。


「——鴆毒……?」

「ん? ああ、そうさ」

「どこ、で」

「文瑾が隠し持っていたやつだよ」


 青文瑾はかつて医官志望の青年で、雪玲の父である董沈に従事した。その時、鴆の亡骸を盗んだ事がバレて宮刑を受けて宦官となった。

 ——そのことは雪玲も知っていた。

 だが、鴆毒は厳重に管理されている。盗まれた量と合っているか分量はしかと測っているはずだ。


「文瑾は死骸を燃やして灰にしたんだ。結局、灰の大半は回収されたようだけど、一部を小瓶に入れて隠し持っていた。……まあ、燃やした時に煙を浴びて、あいつの顔や手は爛れてしまったけどね」

「し、ななくて良かったですね。鴆を、燃やした煙は、人が死ぬのに」

「喉は潰れたみたいだよ」


 なにが面白いのか彩妍はくすくす笑う。


「でも、優秀な奴だ。あいつが鴆毒を隠し持っていたお陰で私は雪玲になれた」

「私に?」

「いや、違うな……。君のようになりたかったんだ」


 雪玲は倦怠感を背負い、立ち上がった。まだ手足はふらつくが動くのに問題はない。


「——ははっ、すごい! すごいな! やっぱり! まさかこんな早く回復するなんて思わなかったよ!」


 笑声を背に受けながら、雪玲は高貴妃の元へ移動した。先程から一寸たりとも動かないことが気になっていた。脈を測り、髪を避けて瞳孔を見る。体は動かないが意識は保っているようだ。


「安心してくれ。彼女は殺すつもりはない」

「まだ?」

「ああ、兄上にはもっと傷付いて貰わないと。自分がしでかしたことを自覚させるには高貴妃を使うのが一番だ」


 臥台から腰を上げると彩妍は軽やかな足取りで雪玲の前に来て、両手を伸ばした。


「なあ、雪玲。私と協力し合わないか?」


 協力、と言われて雪玲は片眉をひそめる。


「理由を、聞いてもいいですか? なぜ、あなたが瑞王様を討とうとするのか、その本心を知らなければ協力はできません」

「……私はね」


 ぽつぽつと彩妍は語り始める。愛おしそうに微笑んだと思えば、激しい怒りへと表情をころころ変えながら。


淳雪じゅんせつ様をお慕いしていたんだ」


 えっ、と雪玲は無意識のうちに言葉をもらす。その名は毒羽の乱で殺された兄の名だ。


「淳雪様は私付きの医官でね、好きだと伝えたら“ありがとう”と言ってくれた。……その言葉は私を無碍むげにしないためのものだということは分かっている。分かっていながら幼い私は舞い上がったよ。彼の妻となりたいと思うには十分なことだった」


 王族と董家の婚姻は認められていない。彩妍が淳雪に嫁ぎたくても、国は認めない。


「私は先代ちち皇太后ははに頼み込んだ。二人は景雪けいせつ様をお慕いしていたから、私の気持ちを理解してくださった」


 彩妍は父の名をあざなで呼んだ。親族以外が呼ぶと侮辱に当たるいみなではないことに、雪玲は驚いた。


「だけどね」


 途端、微笑は消え去り、代わりに桃花の顔を憎しみが支配する。


「八年前、毒羽の乱が起きたことで私は淳雪様に嫁ぐことはできなくなった。兄上が景雪様が犯人だと決めつけて殺したんだ。私が、母が、どんなに進言しても聞く耳を持たず、あの方も……」


 はあ、と彩妍は息を吐く。


「不公平じゃないか。私達は大切な人を失ったのに、兄上は高貴妃がいて、幸せそうで。雪玲もそう思わないか?」

「それは……」


 すぐに否定はできなかった。翔鵬のせいで全てを失ったのに、玉座でふんぞり返るあの男を見ていると不公平だと思う自分がいる。


「なあ、雪玲。私が瑞王となり、君を守ってあげるよ。淳雪様や景雪様の分も、君には幸せになって欲しい」

「……私は」

「不安がることはない。ただ君は鴆と触れ合い、自由に楽しく生きていてくれさえすれば、私は何も望まない」


 雪玲は床に視線を落とした。彩妍の言葉に惹かれる自分がいる。


(恐らく、彩妍と共に生きるのが幸せでしょう)


 けれど、


「私は、父が愛した瑞国が好きなんです」

「君達を裏切ったのに?」

「彩妍のやり方は今はよくても後に亀裂を産むことになります。その時に一番、被害を受けるのは国民です」

「亀裂、ねえ……。兄上が王座に君臨するほうが亀裂は深いと思うけど」

「時間が経てば記憶は薄れゆくもの。しかし、怒りはそうではありません。彩妍が瑞王様を討ち、王座に座ったとしても後で必ず、あなたが悪だと言うものが現れるでしょう。私は、彩妍が傷付く姿は見たくありません」


 彩妍は目を見開く。

 と同時に、甲高い笛の音が夜を切り裂いた。


「——木槿を呼んでどうする気だい?」


 鳥籠を飛び出し翼をはためかせて、雪玲の腕に止まった。


「この子は鴆です」

「鴆なら私が触れるわけがないし、書物にはそんな姿とは記されていない」


 笛から唇を話して応えると馬鹿にするな、と彩妍は柳眉をひそめた。


「色素欠乏症、外の国ではアルビノと呼ばれる先天性疾患をご存知ですか?」


 純白の翼を撫でながら雪玲は彩妍に一瞥を投げる。


「人間でも存在しており、瞳は赤く、肌や毛は白くなるのがこの疾患の特徴です」


 けれど、と雪玲は続ける。


「見た目は違えど、中身は同じ。木槿この子は毒は溜めることはできませんが、他の鴆同様、毒に耐性を持っています」


 雪玲はもう一度、首から下げた笛を加えて音を鳴らす。

 先程よりも短いその音は“飛べ”の合図。木槿は指示の通り、天井すれすれを飛行する。


「彼らはとても賢いのです」


 飛行を見ていた彩妍が膝から崩れ落ちた。

 香炉が床に触れる前に受け止めて、雪玲は笛を吹く。腕に止まった木槿の体を労るように撫でた。


「不思議でしょう? 鴆の毒とよもぎを混ぜれば眠り薬にもなるのです」


 この子の翼に塗ってみたんです。雪玲は意識のない彩妍に笑いかけた。

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