第36話 高貴妃が見たもの


 ぬばたまの髪を振り乱し、現れた高貴妃は雪玲と彩妍の姿を視界に入れると足を止めた。猫のような吊り目がちな丸い瞳は涙で揺らめき、今にもこぼれ落ちそうなほど見開かれている。紅がなくても艶やかな朱唇はわななき、整った柳眉は極限まで下がり、象牙色の肌は寒空の下にいたかのように真っ青だ。


「さ、彩妍様」


 震える唇から発せられたのは甘く澄んだ声。震えたその声は今にも泣き出しそうで、それでいて彼女が抱く恐怖心が伝わってくる。

 何に対して怯えているのだろうか。彩妍が名を呼びながら手を伸ばすと、


「わ、私……!!」


 大袈裟なほど、肩を跳ねさせ、胸元を掻き寄せうずくまる。

 ただ事ではない雰囲気に雪玲と彩妍は顔を見合わせた。


「高貴妃、何をしていたんだい? 珍しいね、君が宮から出てくるなんて」


 高貴妃は答えない。ただ固く唇を結んで震え続ける。

 彩妍が一歩、歩を進めると弾かれたように立ち上がり駆け出した。


「あっ! 高貴妃?!」


 彩妍が声を張るが高貴妃は振り返らない。襦裙が乱れるのも気にせず、木の枝に袖や髪を引っ掛けながらもこの場から早く離れたいからか一目散に走り去ってしまった。


「一体、どうしたっていうんだ……」

「あちらの方に何かあるのでしょうか?」


 雪玲は、高貴妃が来た方向を見つめた。木槿もそちらに興味があるようで、嘴を一層と鳴らす。


「林の向こうには塀があるだけだが……。また、いつもの譫妄せんもうなんじゃないか」

「いつもの譫妄?」

「彼女は狂っているんだ。死んだ皇子と皇女が戻ってきたと急に喜んだり、泣き出したり、物を投げて壊したりもしたらしいよ」

「狂っているのは知っていますが……。今まで宮から出たことはあるんですか?」

「私は聞いたことはないな。ずっと閉じこもっているし、出たらみんなが騒ぐだろうし」


 雪玲は頬に手を当てて考え込む。御子を失ったことで狂ったことは知っていたが先程の様子を見るからに意識は正常のように思える。


(あの怯え方は尋常でした)


 彼女を支配する恐怖は恐らく本物だ。この先に恐怖の原因があるのだろう。


(それに木槿の様子も気になります)


 高貴妃が去って行った方角よりも、ずっと来た方角を気にしている。雪玲が頭を撫でて興味を逸そうとしても、すぐさま同じ方向を見つめた。


「彩妍、この先を見に行っても良いですか?」

「ああ、私も少し興味があるからね」


 歩を進めていくうちに高貴妃が恐怖を感じている理由が分かった。

 鼻をつくのは自然と混じり合った血、そして糞尿の臭い。風により薄れているが吐き気を催すには十分で、雪玲は袖で鼻を押さえた。


「……え、なんで」


 信じられない。その響きがこもる彩妍の言葉を聞きながら雪玲は、だろうなと他人事の様に思った。太い枝に縄をくくりつけ、首を吊っている乾皇后とそのすぐそばで仰向けで倒れている高淑儀の姿を見れば、誰もが混乱するはずだ。

 雪玲はまず高淑儀へと駆け寄った。爽やかな水色の襦裙は腹部や胸部が真っ赤に染まり、空気に触れて黒く乾燥している。


「高淑儀様、失礼します」


 断りを入れて首筋に手を当てた。とうに脈はなく、冷たい体温はもう死んでいることを教えてくれた。救えないと悟り、諦める。

 次に乾皇后だ。振り返ると彩妍が岩に乗り、乾皇后を助けようと縄に手を伸ばしていたのが見えて雪玲は叫んだ。


「彩妍! 手を離してください!」

「しかし、早く助けなければ!」

「もう死んでいます。助けることはできません」

「なぜ分かるんだ!」

「死んだ人間は筋肉が弛緩しかんして、色んなものが垂れ流しになるんです!」


 血流が止まり青紫色に膨張した顔、口元は涎で汚れて、裾からはぽたぽたと茶色の水が地面に滴り落ちる。脈を測るまでもない——乾皇后はすでに死んでいた。それが分かっているのに現場を必要以上に荒らさせるわけにはいかない。


「彩妍、奚官局に連絡を。瑞王様も呼んで来てください」


 彩妍が去ったのを確認してから雪玲は懐から月光石を取り出した。そこに高淑儀の血液と乾皇后の唾液を付着させる。鴆毒が使用されたのならば十秒弱で変色し始めるのだが月光石の色は変わらない。雪玲が持参したものは月光石の中でも純度も高く、ほんのわずかな鴆毒にすら反応を示す代物だ。

 次に結えた髪から銀簪を引き抜き——やめた。鴆毒以外の毒を調べたいが結果が出るまでしばらく待つ必要がある。奚官局の宦官が到着する方が早い。銀での検出作業は彼らが到着した際に同席させてもらおう。


(二人の死亡時刻は昨夜か早朝。ほぼ同時に亡くなっているので間違いはないですね)


 なので高貴妃が殺害した線は限りなく薄い。


(誰かに脅されたのでしょうか?)


 それなら、彼女がここにいても不思議ではない。

 しかし、不思議である。高貴妃に罪を擦りつけたいのなら二人を殺害した直後に呼び出すべきだ。それなのに、なぜ今になって呼び出したのだろうか。


(乾皇后様の首の跡と縄の跡が一致していますが自死ではなさそうです)


 ぶらんと力なく漂う指先にはいくつか爪がめくれて剥がれていた。残された爪には縄と思われる茶色の物体と血肉が入り込んでいる。

 首を絞められた際に苦しみ首を引っ掻いたと予測できる。乾皇后の首には細い線がいくつも走っており、縄にも擦れた跡がある。

 だが、首の傷痕と縄の擦れた跡が一致しない。わずかにズレていることから誰かが乾皇后の首を背後から絞めて殺し、縊死いしに見えるように偽装したと考えれた。


「春燕!」


 ばたばたと忙しない足音を引き連れて、彩妍が戻ってきた。


「呼んできた。私達は戻ろう」

「いえ、終わるまで見ていたいです」

「そういうと思ったが彼らの邪魔になる。見ていたいならこっちに来い!」


 彩妍に袖を引かれ、雪玲は端へと移る。

 代わりに奚官局の宦官達が現場検証をはじめた。遺体の様子や周囲の状況、天候に至るまで詳細に紙に書き綴る。発見当初の状況を事細かく記録したら二手に分かれて高淑儀の傷跡を検証し、乾皇后を下ろして口内や袖をめくり、違和感がないか調べ尽くす。


「高淑儀様の腕に傷有り」


 高淑儀を担当していた宦官が、記録する宦官に聞こえるように声をあげた。


「傷の具合から七日から十日は経過している。恐らく、人の爪によるもの」


 彩妍の静止を無視して、雪玲は宦官の邪魔にならない程度、近づく。高淑儀の両腕には乾いた傷跡が複数あった。傷を負った期間と原因は宦官の判断は正しい。


「乾皇后様、足にあざ有り。大きさは人の手ほど」


 見れば、乾皇后のくるぶしは赤紫色に変色していた。


(誰かが足を押さえつけて、もう一人が首を絞めたのでしょうか?)


 ならば下手人は複数いると考えれる。


「銀及び、月光石に反応無し」


 毒も使われていない。一連の事件と関係あるのか、ないのかは今の時点で判断できない。

 ある程度の検証を終えた宦官は、大きな木箱を用意した。丁寧な手付きで二人を木箱に入れると蓋をしめ、周囲から見えないようにする。

 次は室内で衣服を解き、検死するために洗衣局せんいきょくへ移ると近くにいた宦官が教えてくれた。

 雪玲も付いていこうとするが彩妍の様子がおかしいことに気が付いた。黒衣で表情は分からないが気持ち悪そうに肩を丸めている。刺殺された高淑儀ならともかく、縊死した乾皇后の姿は吐き気を催すもののはず。


「彩妍、辛いなら先に戻っていてください」


 木槿を手渡して、房室に戻るように進言するが彩妍は首を振った。


「……いや、君が無茶をするのは目に見えている。私も一緒にいくよ」


 と、言いながらふらふらと宦官の後を追いかけようとするので腕を掴んで食い止める。


「体調が優れない人を連れて行くわけにはいきません」

「君が無茶をしないと約束してくれるかい?」


 それは約束できない。事件解明の糸口になるなら針山だって登る覚悟がある。

 そのことを見越したのか彩妍は「ほらな」と乾いた笑い声を発した。


「……私が一緒なら戻ってくれますか?」


 雪玲は悩んだ末、友を選んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る