第27話 崔婉儀


 昼下がりの後宮は華やかな香りがする。

 春風が通り過ぎるたびに、馥郁ふくいくたる花の香りが、妃嬪が纏うお香と混じり合い、周囲を包む。甘露かんろのごとく、甘い香りに、


(杞里へ帰りたい……)


 雪玲は笑顔で耐え忍んでいた。

 場所は桂樂けいがく宮。さい小楓しょうふうの殿舎だ。

 六儀りくぎは二人で一つの殿舎が与えられる事になっている。婉儀えんぎの妃位を与えられた彼女は本来ならおう賢儀けんぎという女性と二人で暮らすのだが、王賢儀は茶会で毒殺されているため、広大な殿舎を一人で利用しているようだ。


「ふふっ、李恵妃様からあなたのことは聞いていたのよ」


 崔婉儀は、手にした反物を豊満な胸に当て、艶然と微笑む。


「会いたかったのだけれど、ほら、私にも建前が必要でしょ?」


 お喋りが大好きなのか、雪玲が来訪してからずっと喋りっぱなしだ。


「乾皇后様に嫌われたくないもの。長公主様が直々に仲良くするように言って下さったおかけで、あなたとこうしてお話しができるわ」

「長公主様が友達ができない私が心配なようでして、あのような素晴らしい茶会を開いてくださったのです。本当に感謝しきれません」

「規模は宴でしたけれど。まあ、いいわ。李恵妃様からも素晴らしい反物を頂いたと聞いたのよ。だから会ってみたかったの」


 次に崔婉儀は耳飾を手に取った。


「これ、いただくわ。金額はおいくら?」

「お代は——」

「建前というものよ。顧客として仲良くはするけれど、友としてはなれないわ」


 ——賄賂作戦、失敗。

 これが邑人なら賄賂で色々釣れるのに、後宮の女人は危機管理がしっかりしているのか誰も首を縦に振らない。無料より怖いものはない、と言いたげだ。


「……では、後で総額を計算して請求書をお出ししますね」

「ええ、お願い。ねえ、子供のものってあるかしら? 玩具おもちゃとか」

「ございます。こちらです」


 箱から木彫りの人形を取り出した。

 関節部分に球体がはめられた人形は貿易国家である奏国の凄腕の技師にしか作れない代物で、肘や膝を動かすことができて、服の着せ替えもできるので女児は好きなはず。


(よく、こんな物を用意できますね)


 義父の慧眼のすごさを思い知らされた。雪玲は、荷物に子供用品が紛れこんでいたのは間違えられたものだと思っていた。実際は崔婉儀のように子を持つ母を懐柔しやすいように、という配慮だったのだ。

 人形を見て、目を輝かせた崔婉儀は我が子が喜ぶ様子を思ったのか目元を緩めた。


紅嘉こうかを連れてきてちょうだい。庭で遊んでいるから」


 崔婉儀は、己の侍女に命じた。


「他にはどんな玩具があるのかしら?」

「色々と。布製の人形に独楽こまたこ、あとは竹細工……。どんなのが欲しいか言ってくだされば、実家から取り寄せることも可能です」

「外で遊ぶのも好きなの、紅嘉は。凧もよろこびそうね」


 崔婉儀が蝶々の凧を持ち上げた時、


「ふざけないでよ! あんたが生意気なのがいけないんじゃない!!」


 甲高い怒声が響き渡る。高淑儀の声だ。

 興奮しているのか捲し立てるように続ける。


「いちいち突っかかってきて、目障りなのよ!!」


 相手の声は雪玲でも聞こえない。この殿舎から距離があるのだろう。


「はあ!? なんであんたにそんな事言われないといけないわけ!? ふざけんなッ!!!」


 乾いた音が聞こえた。恐らく、高淑儀が相手を打った音だ。

 怒声より小さい、その音は崔婉儀にも聞こえていたようで嫌そうに眉間に皺を寄せていた。


「……本当にあの子達は喧嘩ばかりね」


 高淑儀の喧嘩相手が誰なのか分かるのか崔婉儀は呆れたように呟く。


「ねえ、あなた達、様子を見てきてちょうだい」


 崔婉儀は雪玲の侍女に命じた。主人以外の命令に、三人はたじろぐ仕草を見せる。


「行ってきて。私の侍女はみんな、紅嘉を呼びに行ったからいないのよ」

「すみません。様子を見てきてもらえますか?」


 三人で、と雪玲が付け加える。

 珠音はなにかいいたげだが、素直に頷いた。長裙を翻すと退室する。

 場に残された雪玲は向かいに座った崔婉儀を静かに見つめた。


「気にしなくていいわ。ほぼ日常のことですから」

「高淑儀様とお相手の方は仲があまりよろしくはないのですね」

「相手は李恵妃様よ。とっても仲が悪いの」


 相手の名前に雪玲は驚く。以前、対話した李恵妃は争うごとを避けたがっている印象だった。乾皇后の取り巻きである高淑儀を怒らせるような事はしなさそうなのに。


「悪いのは高淑儀様だと思うわ。どうせ、また亡くなられた李順儀様の悪口を言ったのでしょうね」

「李恵妃様の妹君ですよね」

「そうよ。双胞胎そうほうたいだから見た目もそっくりで、とても仲が良いご姉妹だったわ」


 瑞国では多胎児たたいじは縁起が良いとされる。多胎児を伴侶として迎えれば家が栄えるともいわれているため、李姉妹は揃って入宮させたと翔鵬から見せてもらった記録に記されていた。


「声が聞こえなくなったわね。宮闈局きゅういきょくが来たのかしら」


 宮闈局は内待省ないじしょうのひとつで警備を担当する部署だ。宦官が少ないため、現在は不正を行った妃嬪や宮女への懲罰も担当している。


「高淑儀様も困ったものね」

「李恵妃様は大丈夫でしょか」

「さあね、気丈な方だけれど、最近はなにか思い詰めた顔をすることが多いわ。高淑儀様に参っているのかもね」


 崔婉儀は声がした方角を見つめた。


「……ねえ、鳴美人。子は絶対に身籠もってはいけないわ。あなたは瑞王様のお気に入りですから、気を付けなさい」


 と、錦の小袋を玩具が並ぶ卓上に置く。


「こちらは?」

「堕胎薬。子を流すためのお薬よ」

「中身を見てもいいですか?」

「ええ、どうぞ」


 小袋を手にして、紐を引っ張る。中には人指ほどの大きさの小瓶が入れられている。


「飲む際は温めて飲みなさい。一回分はお近づきの印に私から。二回目はご自分で用意してね」

「ありがとうございます」

「さあ、早く隠して。侍女に見つかれば問題になってしまうわ」


 瑞王の御子を殺す——それは重罪だ。

 言われた通り、小袋を胸元に隠した。


「なぜ、この必要があるか聞いてもいいですか?」

「懐妊しなければ生きていられるもの」

「林徳儀様と李順儀様が亡くなられたのは懐妊したからですか?」

「ええ、そうよ。私達が男子を産めば立場が危ぶまれるから、懐妊が分かった時点で殺しているのよ」


 立場が危ぶまれる、となれば考えれる人物はただ一人。


「乾皇后様よ」


 回廊に響く足音は徐々に大きくなってきている。崔婉儀も気付いているのか早口で教えてくれた。


「李順儀様は確かに月の障りが不安定でいらしたけど、身体の不調はご本人がよく理解していたわ。懐妊が分かった時に李恵妃様と揃って乾皇后様にお願いしたそうよ。……結果は、ああなってしまったけれどね」

「瑞王様に報告す——」

「——るのは駄目。絶対に。乾皇后様の生家を敵に回せば、罰せられる前に家族に危害が加えられるわ」

「ならば、ずっとこのままで?」

「ええ、そのほうが安全だもの。だからね、鳴美人、あなたも自分の身は自分で守りなさい」


 足音が房室の前で止まった。

 侍女が声をかける前に、明るい子供の笑い声とともに扉が勢いよく開け放たれた。


「ははうえぇ!!」


 満開の笑顔で駆け寄り、崔婉儀に抱きついたのは御年五つになる翔鵬の第四子、哀廉あいれん皇女だ。名を紅嘉という。


「あら、楽しそうね」


 崔婉儀は娘を抱きしめると卓上が見えるように膝の上に乗せた。


「どう? 鳴美人がいっぱい持ってきてくれたのよ」

「これぜんぶ、わたしの?」

「ええ、そうよ。好きなものを選んでね」


 母の許可に、紅嘉はきゃっきゃと笑いながら玩具を手に取った。人形や宝玉よりも凧や投壺とうこに使う矢に興味があるようだ。


「鳴美人様、どうやら李恵妃様は宮闈局の宦官に連れて行かれたようです」


 戻って来た珠音が耳打ちしてきた。内容を紅嘉に聞かれないようにという配慮だろう。


「高淑儀様は?」

「ご自身の宮に戻られたようです」


 つまり、この騒ぎの原因として李恵妃は罰を受けるが、高淑儀にはお咎めはないという事だ。


「そうですか……。嫌なことを頼みましたね」


 珠音は首を振ると壁際へと下がった。

 代わりに崔婉儀の侍女が盆を手にして近寄ってきた。盆には包子パオズが並べられている。湯気が立っているので作りたてのようだ。


「紅嘉が好きなの。中身は南瓜かぼちゃあんよ。どうぞ、鳴美人もお食べなさい」


 断るのも申し訳ないし、何より南瓜が大好物な雪玲は遠慮なく、包子を手に取ってかじりついた。材料から違うのか、市井しせいで食べたものより皮はしっとりして、餡は甘い。

 二口目を頬張ろうとした時、崔婉儀が両目を丸くさせているのに気付いた。下品に見えないように食べたつもりだったが、どこか粗相があったかと不安に思っていると崔婉儀は「違うわ」と否定した。


「迷いなく食べられたから驚いたのよ。茶会の件以降、他のお妃を誘っても食べる前に毒味をさせたりしてたから」


 それが悲しかったと崔婉儀は言う。


「私の侍女が作ったの、美味しいでしょ」

「とても。よろしければ、作り方を教えていただけませんか? 家族にも作ってあげたいのです」

「ええ、いいわ。紅嘉は玩具に夢中だし、先に食べましょう」


 崔婉儀は包子を手に取った。

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