第25話 珠音の決意


「彩妍様の我が儘に付き合う必要はございません」


 臥室しんしつに戻るなり、開口一番、珠音の口から飛び出たのは雪玲の宴席での立ち振る舞いについてだった。


「まず、前提としてですが鳴美人様は後宮の妃嬪の中でも下級にあたります。それも入内してまだ一ヶ月も経っておりません」


 峰花にお湯を、鈴鈴に夜着よぎを取ってくるように命じると、珠音は雪玲を着飾る装身具を手際よく外し始める。


「茶会というより、宴席で彩妍様をお迎えになった際、皆様が平伏しているのに下級妃であるあなた様が顔を上げて仲良く会話するなど、乾皇后様や上級妃に喧嘩を売っているものです」


 金簪と歩揺を取り外し、箱にしまう。

 丁度良く、夜着を手にした鈴鈴が戻ってきた。手伝うように命じると次に珠音の手は雪玲の腰を締める帯びに添えられる。


「それが牽制けんせいのためだということは、しかと理解しております。けれど、それが裏目に出る可能性が高いのです。大抵の者は瑞王様の寵を得て、長公主であらせられる彩妍様と親しい女性であれば危害を加えずに距離を置くことでしょう」


 衣装を衣桁いこうに掛けて、夜着に着替えると珠音は次はくしを手に取った。椅子に腰掛けた雪玲の髪を一房ずつ分けてきながら「しかし」と続ける。


「乾皇后様と高淑儀様は少々、血の気が多い方々です。お気をつけください」


 時折、相槌を打ちつつ、雪玲はされるがままになっていた。反論や自分の意見を言おうものなら説教の時間が倍になってしまう。大人しく頷く方が早く終わると言うことは経験ずみだ。


「ご自身で果物を剥くのもおやめください。彩妍様が周囲を汚さぬように、とお考えのようでしたがお妃様であるあなた様が剥く必要もございません。すぐ隣に控えてた宮女に命じればいいのです」


 舌鋒ぜっぽうは徐々に鋭さを増していく。


「身の振る舞い方に気を付けください。ほんの些細な挙動でさえ、欠点があればあの方達は指摘し、笑い、嘲笑の対象にいたします。田舎の出とあなどられてしまいますよ」


 お湯を張ったたらいを手にした峰花が戻ってきた。珠音は櫛を卓上に置くと背中を流れる髪をまとめて、紐でゆるく結んだ。


「入浴は明日の朝にして、今日はお化粧を落とすだけにいたしましょう」


 盥に手巾を浸し、絞る。手巾の温度を確認してから、ゆっくりと雪玲の顔に押し当てた。

 丁寧に顔に施された化粧を落としていると床が軋む音が聞こえた。


「もう、終わったのでしょうか?」

「そのようですね」


 宝美人と楊美人が帰ってきたようだ。彼女達の房室は奥にあるため、雪玲の臥室の前を通らなければならない。もう眠っている自分への配慮なのか、極力、音を抑えた足取りで進んでいく。

 音が完全に聞こえなくなると珠音は雪玲の手を取って褥に誘導した。


「明日の伽は鳴美人様に、と瑞王様から言伝を預かっております」


 それは、つまり今現在で把握している情報を引き渡せ、ということだろうか。


(困りましたね。情報もなにも手に入っていないのに)


 死者の肌色に高貴妃の宮にでる子供の幽鬼。こんなこと、翔鵬はとっくの昔に耳にしているはずだ。


(なにもないと言えば絶対に笑われます)


 ただ笑われるだけならいいのだが、翔鵬の場合、こちらを馬鹿にする物言いをするので腹が立つ。


「もし、体調が優れないのでしたら伝えておきます」


 珠音の提案に首を振る。体調不良や月のさわりがある場合は夜伽を断ることができる。だが、雪玲は翔鵬の子を孕むために入内したわけではない。一連の毒殺事件の解明のためだ。

 体調不良など言い訳にすぎないと一蹴されるに決まっている。


「いえ、大丈夫です。きちんと馳せ参じます」

「あまりご無理をなさらないでくださいませ。後宮とは蠱毒こどくのようなものです」


 蠱毒——百匹の蟲を一つの壺に閉じ込めて共喰いさせ、生き残ったものを呪術のいしずえにするいにしえの禁術。後宮を蠱毒と称えたのは秀逸だ、と雪玲は納得した。

 弱い人間はこの箱庭では生きていけない。強者に痛ぶられ、踏み躙られ、糧にされる。生き残れるのは我が強く、芯がしっかりしてる者だけだ。


「私は、これ以上、人が傷付く姿は見たくありません」


 悲痛な声が雪玲の耳に届いた。泣いているのか、と珠音を見ると懸命に涙を堪えているのが分かる。


「珠音様、私は傷付いておりませんし、これからも傷付くことはありません」


 理不尽に家族を殺された時、雪玲の心は崩壊寸前だった。かろうじて形を成しているのは支えてくれた香蘭と鳴家の人達がいたから。

 彼らが自分の帰りを待っていると思えば、どんな理不尽にでも耐えられる。……腹は立つけれど。


「私があなた様をお守りいたします」


 覚悟を決めたのか珠音は「絶対に」と誓いをたてる。


「ですから、一人で解決しようとしないでください。あなた様の側には私や、白暘がいますから……」


 真剣な表情。真剣な声音。けれど、どこか悲しげで。

 それが、いつか見た最愛の乳母の姿と被ってしまう。


(香蘭は、抱きしめると安心してましたね)


 抱きしめようと手を伸ばし、


「頼りにしています」


 その肩に触れる直前で思いとどまる。このような接し方、矜持きょうじが高い珠音は嫌がるはず。

 雪玲も事件の解明のために仲良くはなりたいが、そこまで親密な関係を築きたいわけではない。なので、この行動は余計だ。


「……申し訳ございません。知人が、姉妹のように育った人がお妃様の怒りに触れて亡くなったことがあって、気を取り乱してしまいました」


 聞けば、珠音と同じように奏国出身の母を持ち、色素の薄い容姿をしていた、その人は妃嬪に劣らず美しかったらしい。その美貌に嫉妬したある妃が宝石を盗まれたと罪を擦り付け、杖罪じょうざい六十回の刑を命じた。

 杖罪とは読んで字の如く、木の棒で臀部でんぶや背中を殴打する刑罰だ。五刑のうち、もっとも軽いものだが、二十回殴打されればどんな屈強な男でさえ、痛みに呻くと言われている。

 それを女人が受けて五体満足でいられるわけがない。運良く生き残れたとしても歩けるようになるまで何ヶ月もかかるはずだ。


「彼女は、言葉を発さず耐え抜きましたが、肌が裂けたことで病にかかり、亡くなりました」

「そうでしたか……」

「彼女は悪くないのに。ただ、気に入らないというふざけた理由で」


 珠音が拳を握りしめる。怒りを抑えるように深く息を吐き出した。


(高淑儀様が殺したのでしょう)


 朝礼での珠音の態度からそう判断した。今思えば、宴席で高淑儀が来た時も顔が強張っていた。


「私は目標を達成するまで死にません。絶対に」


 そう伝えると珠音は目尻に溜まった涙を袖で拭き取る。どこか晴れやかな空を思わせる顔で「約束ですよ」と囁いた。


「……では、私は隣室に控えています。何かあればお呼びください」

「ええ、おやすみなさい。良い夢を」


 珠音は深く頭を下げると燭台に灯る火を吹き消して、臥室を出て行った。

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