第20話
椎名がすかさず枕を投げて、この劇的な瞬間をいい意味で台無しにしてくれた。僕はまだ真実というものを知らない。それなのに実際にあったかどうかも曖昧な伝承に則って、先生のヒモとして埋もれゆくのは御免だ。
早くもクリスマスの装いをしている街を僕らは駆け抜け、呼吸を何週間ぶりかに重ねるのだった。
「なぁ……これまでどこに」
「説明はまたあとで。とりあえず、きょーやの家も私の家もダメだから、他に安全な隠れ家を見つけなきゃ」
「おい、大丈夫なんだろうな」
「それは体調?事態?それとも記憶?」
僕が危惧しているのはそれらすべてであり、彼女がそれに的確な答えを返さなくとも、どうやら僕は既に安心してしまったらしい。
「マジで心配したんだぞ」
「記憶喪失は確かにウソだけど、私だって大変だった」
このダウナーっぽい声色がとても心地いい。もう平穏がすぐそばまで来てるんだなと思わず思ってしまう。やはり僕は彼女が好きだったんだ。
「あ、そうだ。これ」
「うん。役に立ったかな」
「どうだろう……あ、ごめん、ちょっと血が」
「へぇ」
万年筆についた血を、彼女は気味悪そうでもなければ、反対にサブカル女子よろしく恍惚と眺めるわけでもなく、ただ視界に入っているかのよう。
だけどそんなことどうでもいい。重ね合った様々な想いや記憶が、ようやっと探し求めていたものを再び送ってくれたのだから。
椎名こそが僕にとっての唯一無二の安寧なのだから。
「もう……勝手にどこかへ行かないでほしいな」
「ふふ、きょーやってばよっぽど寂しかったんだ」
「そうらしい」
あの日、椎名が手を差し出してくれたとき、僕が正直だったら、今の惨状は招かれてなかったのではないか。そう幾度も感じてきたからこそ、再会を果たせたことに感謝して、僕は彼女にとことん素直になりたかった。
「椎名を苦しめたのも、結城先生をあんな風にしてしまったのも、元はと言えば僕がふがいないからだ…………でも沙紀先輩は?」
「沙紀、先輩?」
「沙紀先輩にも忘れてしまった記憶があるのか!?」
「待ってよ、どういう」
「昨日?じゃないかもしれないけど、沙紀先輩にも止められたんだよ。ナイフを持って」
「なにそれ」
さっきは何も動じていなかった椎名が今度は一瞬、顔を真っ青にしたかと思うと次第に今度は怒りをあらわにしだした。
「警戒してなかった。ごめんね。結城宮子ただひとりじゃなかったのか。そっか、そういうことか」
やっぱり椎名も訳知り顔でいろいろと考え込んでいる。渦中の人物であると同時になんだか僕だけが蚊帳の外。
そういや最後に皆が笑っていたのはいつだったろう。
僕ただひとりが観測者だったはずなのに、今では誰が僕をその瞳に映しているのかな。
「なぁ椎名、僕がいなければ皆、幸せだったのかな」
「きょーやがそう思うならそうなのかもね。でも『不幸中の幸い』って言葉もあるでしょ」
「はは……」
「大丈夫、もうすぐだから。過去は過去に、あったことと無かったことを整理してるところだから。そしたら今度は一緒に……一緒にいろんなことしよ?」
彼女の姿が入院患者のパジャマじゃなければ、きっともっとすんなり喜べたのだろうけれど、哀しいかな、彼女の言葉は、言うなれば『来ることの無い未来』のようだった。
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