第15話

「結城、先生」

 じりじりとこちら側へ向かって歩き、ついには扉を開けて、僕の隣へと乗ってきた。

 亡霊のような不可解さをまとった、笑みを浮かべない結城先生は、勢いよく扉を閉じるとともに、何のためにか、ロックボタンを押して、全ての扉を施錠した。

「痛む?」

 おぼろげにこちらを見つめ、そう尋ねてきた。先生にとってここは車内ではなく、あの日の病室と相違ないのだろう。そう感じ取らせるとともに、僕は薄気味悪さの正体を探っていた。

 やや埃のついたブラウスのすそを払って、結城先生は涙を流した。

 他の誰のためでもなく、ただ僕の刺し傷に対して。

「痛みはありますけど………先生?」

「ううん、ごめんなさいね」

 それは生徒の前で泣いたからだろうか、あるいは。

「ここはどこですか」

 涙を拭って、まっすぐとこちらを見据えるが、リップグロスが魅せるその口は現在地を明かさなかった。コツコツと小雨が車体をうつ。

「どうして私の言う事を聞かなかったの」

 哀れみを込めたあの眼はほんの一瞬にして、大人が子どもをみるときの敵意のない悪意を秘めた色を映しているではないか。

「はい……すみませんでした」

「椎名さんも、双葉君も、どうして先生の話が聞けないのかな。そんなに頼りないのかな」

「そういう訳では」

「双葉君が居なくなったら、私、本当に困るんだよ」

 緊張感が僕に、『椎名はそれほど困らなかったのだろうな』と陰口を吹き込む。

 それがややもすると顔に出ていたのだろうか、先生は細い指で、いじわるに、それでいて蠱惑こわく的に、包帯の上を縦になぞった。思わず唸るのを、まるで自業自得と言わんばかりにゆったりとなで下ろしてゆく。

「それにしても、鈴木沙紀さん、どうして双葉君を刺したんだろうね」

「わかりま、せん」

「椎名さんはどうして消えたんだろうね」

「…………」

「君はどうして先生をいじめるんだろうね」

「いじめてなんかいませんよ……!?」

「だったら!これは!なんなの!」

「痛!!??」

 それまで人差し指でもてあそぶかのように、腹部を触っていたのに、逆鱗に触れたのか、あるいはむしろ、こちらの逆鱗を探るかのように、一本ずつ指を増やして、傷の周りに当ててきた。


「やっぱり……見間違いじゃなかったんですね」

 僕は再び出血などする前に、先生の右手を掴む。その行為は、僕らのあいだに壁を作ったとともに、また、先生の傷を晒すことにも繋がった。

「リスカ痕。何があったんですか」

 吸い込んできそうなほどに、こちらをじっと見つめる。

 僕はそれをあえて拒みはしなかった。たとえ目を逸らしたり、対抗心を表したとしても、この迷宮入りしたかのような現状が雨とともにやむわけでも、傷が癒える訳でもないからだ。時の流れは瀑布ばくふの如く激しいもので、不安はその轟々たる音がやまないように、いつまで経ってもつきまとってくる。がしかし、それは激流に抗うのみを良しとするがために逆流となるのであって、時としては滝壺へ自ずから進むのも一策なのだ。かつての哲人や悪名高き教授が奈落の底へ消えていったように。


「本当に覚えてないのね」

 落胆とも異なる口調で、先生は自由の利くもう片方の腕で、今度は僕の腕を掴むも、その目的は手を振り払うためではなかった。

 眼前には、男女の右腕が繋ぎ止められている。

 それを象徴するかのように、そう、いつかみた西洋絵画のモチーフのように、手首は『いばら』で巻かれていた。

 …………正確には、それぞれの腕に、まさに同じような具合で刻まれたリストカットの痕がありありと刻まれていたのだった。たとえ記憶が消失しようとも、お互いを繋ぎ留め続けるかのようにして。

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