第8話

 ただでさえ居場所が悪い教室をよろめきながら、なるたけ急いで立ち去る。

 僕が本来あるべき場所はあの病室だったのだ。もはや走れないこの足で、彼らの間を縫うように社交することは何よりも辛かった。

 そういう意味では、沙紀先輩のあり方は誰よりも力強かった。自分で外国へと進み、そして自分で何もかも選択している。今でも先輩は僕とは真逆の存在だ。


 人間関係の縮図と言われる学校の校舎内で、完全に独りになれる空間など存在はしない。たとえば、個室トイレで昼食を取る生徒は哀しいかな漫画の中だけではないはずだ。それでもむしろ他者という存在はかえって強調される。扉の内側があまりにも狭く、外界を意識せずして過ごせないからだ。これが自室ともなると、それが反転し、外界がなくとも十分な“セカイ”へと変容してみせる。

 しかしそれほどの内容量をもつ空間を独占することを理念の上から否定する学校という空間は、繰り返すようだが、やはり孤独であっても、他者存在からの隔離はなし得ない。

 いや、むしろ他者との存在が卑近であればこその孤独でもあるのだろうけれど。

「きょーや」

「ッッ!?」

 僕とてその規定コードを故意に逸脱できる存在ではない。よりにもよって、警戒するよう伝えられた不思議な人物にして唯一、友達と呼べる女子・椎名はづきが居た。いつだって彼女は僕を前へと引っ張ってゆくというのに、現れる時はすぐ背後なのだ。

「騒がしかったけど……大丈夫?」

 僕は五分前行動を心がけるタイプの生徒だ、それなのに一人で無理に歩いて一限の物理を放っているのは、彼女からしてみれば特異に映るのだろう。

「沙紀先輩が帰ってきたんだ」

「え」

 カシャンと何かが落ちる音がした。

 まるでビックリした椎名の効果音のように。


「それって」

 彼女が急いで拾ったものはいつも使っている黒い万年筆ではなく、ボールペンでいうところのグリップがある部分が深緑色にコーティングされた万年筆だった。

「覚えてる………の?」

「え、いや」

 椎名は高校生にしては珍しく、わりと普段から万年筆を愛用している。昨日の勉強会のときにも、さらさらとノートに日本史をまとめていたのは、漆黒の万年筆だった。

 でも、彼女が大切そうに傷がないか見ているものは、やはり初めて見る。初めて見るはずなんだけど。

「どこかで見た気がしたんだけどな。映画とかかな」

「どう、だろうね」

 どうも椎名の様子が変だが、それは僕の言える筋合いはない。

「どうしてきょーやはここに?」

「その……何となく居心地が良くなくて」

 瞳は僕に向けられていたけれど、察しの良い彼女のことだ、原因が沙紀先輩の他に僕の足のこともあった事ぐらい見抜いているだろう。

「言ったよね、私にもっと頼っていいって」

「うん」

「きょーやはどこに居たい?」

「というと」

「教室じゃないどこか。それはどこ?」

 女心と秋の空というが、窓の外は一時間目を前にしているというのに、すっかり暗くなっていた。もうすぐ雨が降るのだろう。


「双葉君!それに椎名さんも。『休み時間』はもう終わるわ」

 椎名は結城先生に聞こえない程度に小さく舌打ちしたが、僕に万年筆を握らせると、小走りで教室へ向かっていった。

 僕はどこへ行きたかったのだろう。椎名はどこに連れて行ってくれたのだろう。

 そんなわずかな期待感は、危なっかしい子どもを見るような結城先生の表情の影響で、すっかり立ち失せた。

 椎名はづきさんには気をつけなさい、か。

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